第15話:にせものの感情(Эмоции поддельных)

――我は眠りにある者どもの視力なり。

『三体のプローテンノイア』、第1節

「ここ、イヤ。」

 カギを扉に挿し込もうとしたそのとき、ニフシェの傍らでミーシャが呟いた。

 ドーラを倒したニフシェは、ミーシャの直観を頼りにして、廃鹹水工場の奥まで進んでいた。

 ニフシェの予想どおり、建物の地下には改造が施されていた。エルーリアは、地下で秘密の魔術研究を行い、その実験場として鹹水工場の広間や水槽を利用していたのだろう。

 となると、いま二人の目の前にそびえている扉は、エルーリアの研究の中心地……ということになる。

「ミーシャ、安心して」

 そう言うニフシェも、自分の声が震えていることに気付いていた。鉄扉一枚を隔てた向こう側に、まがまがしい何かが控えていることを、ニフシェもまた予感したためだ。

「中には、ボクひとりで入ろうと思う。ミーシャはそこで待ってて――」

「イヤ!」

 ニフシェの服の袖を、ミーシャが掴んだ。ミーシャの力があまりにも強かったために、ニフシェもまた全身が総毛だった。何より、ミーシャがここまで露骨に嫌がるのは、ニフシェも初めての経験だった。

「ミーシャ……、ごめんね。ボクのこと、心配してくれてるんだよね?」

「ウン……。」

 うつむきがちなミーシャに対し、ニフシェはそっと声をかけた。

「ありがとう、ミーシャ。心配してくれて。でも、ボクはこの扉の向こうを確かめてみたいんだ……たとえ何があったとしても。これはキミと約束した以上に、ボク自身との約束でもあるんだ。……だからミーシャ。ボクが部屋に入るのを見届けてほしい。すごく勇気のいることだから」

「みゅーん……。」

 ニフシェの服の袖から、ミーシャが手を離した。

「……ミーシャ、ここで待ってる。」

「ありがとう!」

「キャー。」

 手を伸ばすと、ニフシェは今度こそ扉にカギを挿し込んだ。挿し込んだ瞬間、ニフシェの身体から鉄扉へと魔力が流れ込み、扉全体が淡く発光する。――扉そのものに、並大抵でない魔力を注ぎこまないと解除できない、封印の魔術が走っていたのだ。それほどまでして守りたい秘密が、この扉の向こう側でニフシェを待っている――。

(エルーリア、キミを見極めよう)

 ニフシェの覚悟とは裏腹に、扉はあっけなく開いた。

――……

「ニフシェ……!」

 後ろから聞こえてきたミーシャの声に構わず、ニフシェは後ろ手に素早く扉を閉めた。全身からは汗が噴き出し、ニフシェは思わずその場でえずく。

 部屋は腐肉の臭いで充満しており、血の湿度の中を、無数のハエが飛び交っていた。扉の正面には書棚と机とがあり、カーテンで隔たれた部屋の奥からは、大量のウジ虫が、血のうねりに溺れて、側溝へと流れ込んでいる。こんな部屋の様子を、ミーシャに見せるのは酷だ。だからニフシェは、すぐに扉を閉めたのだ。

 取り出した乳醤バターを念動力で周囲に拡散させると、ニフシェは手のひらに描いた魔法陣に息を吹きかける。乳醤バターを媒として発動した魔法陣は、冷却の魔法陣だ。周囲の温度は下がり、凝結した水滴が側溝に流れはじめる。ウジ虫はみな押し流され、ハエたちの動きは鈍くなり、一所に静止する。

 ニフシェの白い息が、この時が止まったかのような空間で周囲に発散する。机に近づくと、ニフシェはかじかんだ指を伸ばしながら、周囲に散乱するノートをめくりはじめた。

《降天暦九四七年六月八日条――》

 それらは、エルーリアの日誌のようだった。なぐり書かれた日誌の中から、ニフシェは判読可能なところだけを拾い読みする。

《あの人のことを想うと、涙が止まらない。どうして私を置いていくなんてことが赦されるの? 自殺のことばかり考える。ヨルサンは「忘れろ」と言う。あのも大切な人を喪えば分かる》

――……

《降天暦九四九年二月一三日条――生命体の合成に、正十七角形法陣を利用することを諦める。立体法陣? 逆転写? やりようはいくらでもある。エヂオの身体はここにあるのだから》

――……

《降天暦九五二年六月二九日条――今日は首尾よくいった。明日は自分の身体で試す。興奮で私の血が騒ぐ》

――……

《降天暦九六六年二月一日条――私が若いままであることをいぶかしむやからも出てきた。この街にはもう居られない》

――……

《降天暦九八一年八月六日条――旅人を気長に待つ。復活の時は近いが、復活は完全でなくてはならない》

――……

《降天暦九九六年三月一八日条――かれの代謝は想像以上だ。もっと人間が(それも若い人間が!)必要》

――……

《降天暦一〇〇一年四月七日――今日は二人。ほか進捗なし》

――……

《降天暦一〇〇八年一二月一二日――エヂオにもう一人合成。魔力の保有者が欲しい》

――……

《降天暦一〇一三年――大人二人、子ども一人。ほか進捗なし》

――……

《降天暦一〇一七年十月二二日条――獲物の名前はニフシェ・ダカラー。あのヨルサンのひ孫だとは! 思えば遠くまできたものだ。私の身体も摩耗した。彼女の身体は良い素材になる。天の配剤とはこのこと》

 ――日誌の最終巻には、ニフシェの名前が載っていた。ため息をつくと、ニフシェはその日誌を机の上に放り投げる。それからニフシェは、部屋を隔てるカーテンをわし掴みにし、それを引き裂くように左右へ開けた。

 カーテンの向こう側には、床一面に魔法陣が描かれていた。軌跡が赤黒いのは、人の血を利用したからだろう。そんな魔法陣の上には、人の死体が山のように積まれている。死体はみな子どものように小さかったが、その顔立ちは老人のものだった。

(エルーリア……!)

 指の関節が白くなるくらい、ニフシェは両手の拳を強く握りしめる。

 ニフシェほどの魔法の使い手ならば、魔法陣の形相からその効果を推定できる。エルーリアが作ったのは、生命力を転移させる魔法陣だ。傷の治癒を早めるために用いる魔法陣を土台として、エルーリアはこの魔法陣を考案したのだろう。

 魔法陣の上に、エルーリアは人間を乗せる。魔法陣が発動すると同時に、人間は生命力を吸い取られ、老化し、干からびて死ぬ。吸い取られた生命力は、エルーリアか、またはエヂオに向かう――。

 採用されている魔法陣の形相は、二五七角形である。魔法陣は内側に描かれた線の交点の数だけ、そのエネルギーが撹拌してしまう。魔法陣の中に魔法陣を描くことで、エルーリアはその撹拌割合を低減させているようだったが、一回の儀式で伸ばせる寿命は、子ども一人あたり二年が限界だろう。

 それでも、その魔法陣は完璧だった。ニフシェの目から見れば、ほとんど美しいとさえ言えるほどのものだった。角度にも、軌跡にも、一部の隙も無かった。一部の隙もなく、人を殺すための機構だった。

(エルーリア……)

 ニフシェは目を閉じた。干からびて死んでいく人々の様子を、青い瞳で冷徹に見据えているエルーリアの姿が、ニフシェの脳裏をよぎる。

(この魔法陣が作動している間、あなたは何も感じなかったのか?)

 やがてニフシェは、自分の心に渦巻く名状しがたい感情が、怒りによるものではなく、悲しみによるものであることに気付いた。

(もし何も感じなかったのならば……、たぶん、あなたがエヂオに抱いている愛情も嘘だ。)

 両腕を横に開くと、ニフシェは手のひらにためていた魔力を、自分の両腕に注ぎこんだ。深く息を吐いているうちに、部屋の中の血なまぐささも気にならなくなってくる。

(嘘そのものなんだ……!)

 それからニフシェは、心の赴くまま、身体の赴くままに、少しずつステップを刻みはじめる。それは最小限の踊りからはじまって、徐々に大きく、次第に優雅さを増していく。ニフシェの次の動きは、前の動きの中に予告されている。しかしその軽やかな踊りは連続的で、決して分割することは許されない。

 それは、生き続けられなかった人々に捧げる、とむらいの踊り。

――まるで、永遠に生きなければならないことが運命づけられているようじゃないですか……!

 晩餐の席でニフシェがそう言ったとき、エルーリアの顔は蒼白になっていた。なぜエルーリアは動揺したのだろうか? ――それは、エヂオと永遠に生き続けなければならないから。そして、その永遠は嘘であり、真相はただ時間が静止しているだけだということに、エルーリアは気付いてしまっているから。

 ニフシェがステップを踏み、腰をひねり、両腕を旋回させるごとに、ニフシェの全身から発散された魔力が、部屋の中に渦巻くエルーリアの気迫アウラを塗り替えてゆく。部屋の中に渦巻いていた怒り、憎しみ、懊悩――そういった感情が、ニフシェの解き放たれた心の中を駆け抜け、漂白されていく。

 いつしか、ニフシェは泣いていた。


「ただいま、ミーシャ」

 扉の前の壁に寄りかかり、むずむずしていたミーシャに向かって、ニフシェは声をかける。

 始めは明るい表情を見せたミーシャだったが、すぐにニフシェの顔を、じっと覗くような仕草をしてみせた。

「どうかした、ミーシャ?」

「もしかして、泣いた?」

 ニフシェの目が赤くなっていることに、ミーシャは気付いたようだった。

「うん。泣いてた」

「キャー。」

 感情表現が苦手なミーシャは、こんなときでも「キャー」と、黄色い声を上げる。

「キャー。」

「ミーシャ、違うんだ。悲しいから泣いているわけじゃないんだよ。悲しいことは、もう終わったんだ」

 なおも黄色い声を上げ続けるミーシャの身体を、ニフシェはそっと抱き上げた。

「何だろう。悲しいわけじゃないけれど、涙が止まらないときって、あるんだ。……ねぇ、ミーシャ。ボクの言ってること、分かるかな?」

「うーん……。ミーシャ、なんだかむずかしい。」

「そっか……。そうだよね。……ミーシャ、それで良いと思う。それで……」

「でもね、ミーシャ、ここ、そんなにイヤじゃなくなった。」

「……ミーシャ、それ、ホント?」

「キャー。」

 その言葉が聞けただけで、ニフシェには十分だった。

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