――或るものは虚で、或るものは満ち、或るものは清められ、或るものは砕かる。
『真理の福音』、第18節
「ドーラ……!」
振り向いたニフシェは、息を呑むしかなかった。
ニフシェたちの前方に、ドーラが立っている。ただし、その頭は首から下に垂れ下がり、むき出しになった脊髄からは、得体の知れない白い触手がはみ出している。
「良かったぁ……」
ドーラが、安堵の表情を浮かべた。しかし、その頭は上下逆さまになっているせいで、ニフシェとミーシャの目からは、まるで今にも泣きだしそうに見えた。
「気付いたら、いなくなっていたんだもの。お姉ちゃん、死んじゃったのかと思ったわ。ニフシェお姉ちゃん、戻りましょう。……ところで、隣の女の子は……だあれ……?」
「彼女はミーシャ。ボクの友だちさ」
(――ニフシェ、どうする?)
ニフシェの脳内に、ミーシャの声が響いた。表向きではドーラに視線を送りつつも、ミーシャは共感覚を使ってニフシェに語りかけているのだ。
(逃げる?)
(ううん。戦うつもり)
足下の砂粒を、ニフシェは踏みしめる。
「ドーラ、キミにもお別れを言わなくちゃいけない。エルーリアに挨拶をしたら、ボクたちはこの館を出るつもりなんだ」
ドーラが眉間にしわを寄せる。
「ダメよ……約束したのに!」
「約束した覚えはないよ、ドーラ。それにボクには――」
言いかけて、ニフシェはちらりとミーシャを見やった。
「――いや、ボク”たち”には、やるべきことがあるんだ。白状しちゃうけれど、ボクたちはこれからウルトラに行って、一人の人間を……いや、一つの精神を拝みに行くんだ。拝みに行かなくちゃならないんだよ」
「約束したのよ、院長先生と!」
ニフシェの話など、ドーラには興味が無いようだった。初めからドーラの頭には、エルーリアと自分との関係しか存在しないのだろう。ドーラの身体が病的に震えるたびに、ぶら下がったドーラの頭も不規則に揺れた。
「『ニフシェは生きたまま閉じ込めておく』って! でも……でも……そうか!」
自問自答するドーラの声が、ひときわ大きくなった。それと同時に、はみ出した触手も喜びに震えているようだった。
「『生きて』さえいれば良いのなら、少しぐらい傷つけても良いよね……? 二人もいるんだから、欠けた部分はくっつければ、良いよね……?」
(ニフシェ、注意!)
ミーシャが共感覚でニフシェに告げた矢先、二人の眼前で、ドーラの姿が大きく変わった。ドーラの身体が一気に膨らんだかと思うと、その全身が、白い針のような体毛に覆われ始める。ドーラの顔はネズミとサルとの中間のような相貌に変形し、垂れ下がった首の皮は太く隆起し、頭部は巨大化した肉体の中に埋まった。手足には鶏のような爪が生え、その先端が風化したアスファルトを削った。――ニフシェとミーシャの目の前で、ドーラは牙を持った四足獣に変貌する。
「……エルーリアのしわざか、ドーラ!」
抜き放った長剣を構えると、ニフシェはドーラに叫んだ。
「フフフ……選バレタノヨ、私トれいハ――」
白い怪物は牙を剥くと、血のように真っ赤な口を開き、咆哮してみせた――。
風のうなりがニフシェの耳を薙いだときには、”ドーラ”はもうミーシャに躍りかかっていた。なるほど、ミーシャは誰よりも小柄だ。体格差だけを考えれば、ミーシャを標的とするのは理にかなっている。
しかし、それこそミーシャとニフシェの思うつぼというものだった。最小限の身体のよじりで、”ドーラ”のかぎ爪をかわすと、ミーシャは手にしていた銃で、”ドーラ”の喉を撃った。ニフシェが瞬きするよりも、ミーシャが銃を取り出し、引き金を引く方が速かっただろう。天性の直観力を持つミーシャの前では、「近距離で拳銃を使ってはならない」などという鉄則も空文にすぎない。
「グゥっ……?!」
撃ち抜かれた”ドーラ”の喉から、割れた咆哮が響き渡る。傷口を庇うように頭部を伏せると、“ドーラ”は太い尾を鞭のようにしならせ、ミーシャを捕捉しにかかる。
だが、”ドーラ”の尾がミーシャの身体を薙ごうとしたときには、ニフシェは”ドーラ”の懐に潜り込んでいた。ドーラの黒い眼まなこが、音もなく肉薄したニフシェの姿を捉え、驚愕に見開かれる。
ニフシェが用いた技は、真空を作る魔方陣だ。といっても、今度は物を破壊するためではない。作り出した真空の中に、ニフシェは自らの身体を滑り込ませ、瞬時に移動したのだ。
ニフシェが手首をひねり、剣をうならせた瞬間、”ドーラ”の尾はその身体から離れ、遠くへとちぎれ飛んだ。
太い尾を失い、重心がずれた”ドーラ”は、前足の肘を即座に折りたたむ。自らの体重で、“ドーラ”はニフシェを圧おし潰すつもりなのだ。
しかし、ニフシェの攻撃はまだ途中だった。息を吐き出すと、ニフシェは長剣を捨て、両腕を前に突き出す。手のひらから発散した魔力により、周辺の空気が割れ、不協和音がこだまする。破砕音の波が”ドーラ”の腹部を貫通し、背中の皮が破け、内臓が勢いよく噴出した。飛び出した血糊は、天井にまで達する。
「ア……! アッ……!」
勝敗は決した。“ドーラ”は怯え、すっかり戦意を喪失してしまったようだった。自分の背中からあふれ出る内臓を、必死に傷口に詰め込みながら、”ドーラ”はニフシェから距離を取りはじめる。長い後ろ足を背中に寄せ、”ドーラ”は腸を体内に押し戻そうとしているが、腹圧が高まっているせいで、押し込もうとするたびに腸が吹き上がり、血と肉片とが周囲に飛び散った。
「ヨクモ……! ヨクモ……!」
長剣を拾い直したニフシェの耳に、“ドーラ”の声が虚しく響いた。
(ミーシャは?)
その時ふと、ニフシェはあることに気付く。ミーシャが忽然こつぜんと、姿を消しているのだ。
“ドーラ”は、アスファルトに埋め込まれた貯水槽の一つまで、後ずさっている。これが運の尽きだった。
「アッ……?!」
そう口にした瞬間にはもう、”ドーラ”の身体は水槽の中に引きずり込まれている。
様子を確かめに行ったニフシェの目の前で、巨大な水の塊が宙に持ち上がる。水の塊は、天井めがけて一気に吹き上がり、即席のスコールとなって部屋の中に降り注ぎはじめた。
「うあっ……?!」
吹き寄せる水を、ニフシェは念動力で弾く。そのすぐ側を、飛沫しぶきを上げながら、何かが過ぎ去っていった。壁に当たってだらしなく垂れ下がったそれは、超音波で粉々に破砕された、”ドーラ”の肉塊だった。
「キャー。」
水槽の中から、ほぼ垂直にジャンプすると、ミーシャがニフシェの脇に着地する。
「やりすぎだよ、ミーシャ」
濡れそぼったミーシャの服を絞りながら、ニフシェはそうたしなめた。それに対し、ミーシャは
「キャー。」
と言うばかりだった。ミーシャはたぶん、ニフシェの言うことの半分も分かっていないだろう。
地上のどんな怪物でも、ミーシャに水中へ引きずり込まれたら一巻の終わりである。まともにミーシャと渡り合えるのは、それこそ”鯱シャチ”とか”鯨クジラ”ぐらいだ。
「ニフシェ、これ。」
ミーシャは不意に、ニフシェの目の前に何かを差し出した。
「これは……?」
「カギ。アイツが持ってた。」
”ドーラ”が身につけていたカギだという。