第13話:相棒(партнер)

――天使ユーエールは再び我に塗油し、我に力を与えたるなり。

『アロゲネス』、第5節”第三の啓示”

 目を開けたニフシェの視界に、ロウソクの淡い光が映り込んでくる。

(ここは……?)

 低くうめくと、ニフシェは身を起こした。いつの間にかニフシェは、レンガで囲われた小さな部屋の中でうつ伏せになっていた。部屋はむし暑く、かび臭かったが、このむし暑さ、このかび臭さこそが、自分が生きていることのあかしであることを、ニフシェはばくばくぜんと感じとっていた。

(でも、どうして……?)

 ニフシェは記憶をたぐってみせる。爆撃された痛みををこらえ、ニフシェはドーラを仕留めた。それから――

(そうだ、ニフリートが……)

 ニフシェの脳内に、姉の存在が立ち現われ、それから蒸気のように消え去っていく。

(ニフリートが……)

 立ち上がりかけたニフシェは、奇妙な感覚に包まれる。それは、休みの日の早朝にふと目が覚め、今日が学校へ行くべき日なのかどうかが分からなくなってしまったかのような、そんな感覚だった。今日は休日だ、だから学校に行く必要はない……そんな内なる声にはっとさせられ、子供たちは安堵のうちで、再び眠りに就く。そのときの心やすさと同じ感情を、今のニフシェも体験していた。

 ニフシェはもう、怖れる必要などはない。いや、怖れ続けるべきなのだろうか。しかし、そんなことはどうでも良い。

 なぜなら、姉は死んでしまったからだ。

「そうか……」

 このときに初めて、ニフシェは自分の心の軽さ、息をするたびに胸の裡ではずむ喜びの大きさを理解した。

 ニフリートは死んだ――。それは遠い昔に、キラーイの噴火口で起こった事実だ。だが、ニフシェにとってのニフリートは、今日のこの瞬間に、ニフシェの記憶の圏外へと、身をおどらせて焼け死んだのだ。

――ボクが死んで、とても嬉しそうじゃないか。

 ニフリートなら、そう言うかもしれない。しかし、それがいったい何だと言うのだろう?

 高ぶった感情が治まるのをじっと待つニフシェは、不意に自分の脇腹がきつく束縛されていることに気付いた。視線を落としてみれば、鉄骨が貫通した箇所に、包帯が巻かれていた。

(いったい誰が……?)

 付近にあった木箱の上に腰を下ろそうとした瞬間、ニフシェの重みのせいで、布で覆われた木箱がへこんだ。

「むぎゅーっ。」

「え……?」

「……キャー。」

 慌てて立ち上がり、ニフシェは振り返る。ニフシェの眼前で、木箱を覆う布が膨らんで、その中から一人の少女が姿を現した。紫色の長い髪に、紫色の瞳。眉はちょっと太め、目は眠そうで、ほっぺたが赤い――。

 ニフシェは目が点になった。

「み、ミーシャ?!」

 少女こそ、ニフシェの”相棒パルトニュール”、ミーシャ・ルゥ=ラァだった。

「キャー。」

 名前が呼ばれて嬉しかったのか、ミーシャは黄色い声を上げると、木箱の外へ出た。ミーシャはニフシェより一回り年下で、背は二回り小さい。それでもミーシャは、ニフシェと同じようにブーツを履き、自分の身体と同じくらい長い剣を背負っている(というよりも、むしろ「剣に背負われている」と言った方が良いのかもしれない)。ニフシェと同じく、彼女もシャンタイアクティの騎士だからだ。

「ミーシャ、いったいどうやって……?」

「キャー。」

「たしか、川を泳いでたはずじゃ……。」

「ウン。でも、ミーシャ、寂しくなっちゃった。」

 「寂しくなっちゃった」という言い方が、あまりにもあっけらかんとしていたために、ニフシェはその場でずっこけそうになる。

「そ……そうなんだ? ――もしかして、ボクの傷を治してくれたのって……」

 ニフシェの質問に対し、ミーシャは目をぎゅっとつぶり、笑ってみせた。

「キャー。」

「ありがとう、ミーシャ。お蔭で助かったよ。包帯を巻くのも、上手になったね」

 ミーシャの小柄な身体を、ニフシェは抱きしめる。

 しかし、抱きしめてすぐ、ニフシェはミーシャが何かを心配していることに気付いた。

「どうしたの、ミーシャ?」

「ニフシェ、あのね、ビート板なくしちゃった」

「ええ……? また?」

「キャー。」

 困惑しているニフシェを見て、ミーシャはまた黄色い声を上げた。ミーシャはビート板を使って泳ぐのが大好きで、いつも必ずビート板を携えているのだが、そのくせ、ビート板をどこかに置き忘れてしまうのだ。

「しょうがないよ、ミーシャ。ひょっこりなくなったんだろう?」

「うん。」

「じゃあ、またひょっこり出てくるよ。そうだろ?」

「キャー。にぎってくださーい。」

 そう言うと、ミーシャはニフシェの目の前に右手を差し出してくる。差し出されたミーシャの手を、ニフシェは握りしめた。

「キャー。」

 手を繋いだことの嬉しさから、ミーシャはまた黄色い声を上げた。

 ミーシャは泳ぐのが上手い。シャンタイアクティの魔法少女たちの中でも、泳ぎで彼女の右に出る者はいないだろう。それというのも、ミーシャは

 海豚いるか

 の魔法使いだからだ。

 その代わり、ミーシャには不得意なことがある。それは、”人と話をすること”だ。海に住む動物の魔法使いたちは、たいていの場合において、コミュニケーション能力に不自由なところがある。

 そんなミーシャの相棒がニフシェなのは、決して偶然ではない。”麒麟”の魔法使いであるニフシェは、音の外側、つまり超音波さえも操ることができる。だからニフシェは、ミーシャが言葉では上手く伝えられない感情に、うまく波長を合わせることができるのだ。

「ミーシャ、悪いんだけどさ――」

 ニフシェは後ろを向くと、上着をまくって、背中をミーシャに見せた。

「魔法陣があるの、分かる? これを蒸発させてほしいんだ」

「ミーシャ、これ、イタイと思う。」

「痛いんだけどさ、ミーシャ。これが走ってると、ボクは魔法が使えないんだ」

「キャー。」

「お願い、ミーシャ! 頑張って!」

 ニフシェの切実な気持ちが、ミーシャにも届いたようだった。ミーシャは自分の背嚢ランドセルから油つぼを取りだすと、中に入っているオリーブ油を、ニフシェの背中に塗った。

「行くよ?」

 ニフシェの背後で、ミーシャが剣を抜き放つ音が聞こえた。

「大丈夫……!」

 空気を斬るうなりと共に、ニフシェの背中に剣先が触れた。ミーシャの身体から溢れ出る魔力が、剣先から拡散し、オリーブ油を媒としてニフシェの背中に流れ込む。

 新たな魔力を感知し、封印の魔法陣はその魔力を押さえ込もうと、自らの向きを変える。ところが、そこにいるのは人間ではなく、ただの油分に過ぎない。その膜を突き破った先には、剣の尖端がある。

 剣の尖端に突き刺さった封印の魔法陣が、鋭い悲鳴を上げた。それと同時に、ニフシェの背中も焼けるように熱くなる。ニフシェの全身からは脂汗が吹き出し、脚は震え、瞼の裏が点滅した。それでもニフシェは、魔方陣の断末魔が小さくなるにつれ、自分の聴力を低下させていた幕のようなものが消え去っていくことを感じ取った。それはあたかも、目の前の霧が晴れたかのような感覚だった。

「えい。」

 ミーシャが剣を振るうと、油にまみれた魔法陣はレンガの壁に貼りつき、そのまま蒸発して、跡形もなく消え去ってしまった。

「ニフシェ、ダイジョーブ?」

「ハァ……ハァ……だ、大丈夫」

 床に座り込むと、ニフシェは安堵の息をついた。それから脇腹に手を当てて、包帯の上から魔力を注ぎこむ。魔力を注ぎ込むにつれ、自分のわき腹が元通りになっていくことが、ニフシェには分かった。

「ハイ。」

 木箱の中から、ミーシャが長剣と背嚢ランドセルとを持ってきた。いずれもニフシェのものである。

「ありがとう、ミーシャ。ミーシャがいなかったら、ボクはもう……」

「ミーシャ、ここ、早く出たい。」

「え?」

「ミーシャ、ここ、そわそわしちゃう。そわそわ」

 そう言うと、ミーシャはそわそわしはじめた。いたずらがばれたり、ばつが悪かったりするとき、ミーシャは我慢できず、いつもそわそわしてしまうのだ。

「それなら……」

 ここを出よう。――そう言いかけ、ニフシェはふと思いとどまった。ニフシェの脳裏に、エルーリアの姿と、「エヂオ」と名付けられた怪物の咆哮とがよぎる。

 ニフシェの使命は、ウルトラへ行って、”竜の娘”の存在を確かめることだ。だがニフシェは、このまま屋敷を抜け出し、エルーリアとエヂオとを放っていくわけにはいかないように思えた。エルーリアが抱えている秘密は多く、エヂオが隠している謎は根深い。そしてそれらは、自分自身にも関わりがあるように、ニフシェには思えてならなかった。

「あのさ、ミーシャ。ビート板が見つかったら、ミーシャはどんな気持ちになる?」

 そわそわしているミーシャの肩に、ニフシェは手を乗せる。

「ビート板が見つかったら、ミーシャ、『キャー。』ってなる。」

「そうだよね? ……実はさ、ボク、この館に来る前に、大事なモノをなくしてしまっていたんだ。だけどそれを、ここで発見することができた。……ボクの言ってること、分かる?」

「キャー。」

「それでさ、ここにはボクと同じように、大事なモノをなくしてしまっている人がいるんだよ。……その人は、自分がなくしたモノに気付かないフリをしていて、そのせいでいろんな混乱を引き起こしている。おせっかいかもしれないけれど、ボクはそれをやめさせたいと思う。――ミーシャ、もし良ければ、ミーシャにも手伝ってほしいんだ」

「みゅーん。」

 ほんの少しの間、ミーシャは天井を見つめたり、首を傾げたりしてみせたが、それから右手をニフシェの前に出し、

「にぎってくださーい。」

 と言った。差し出されたミーシャの手を、ニフシェは強く握りしめる。

「ありがとう、ミーシャ!」

「きゃっきゃっ」


 暗い隧道トンネルの中を、ニフシェとミーシャはひた走る。暗闇の中でも、二人の歩みが止まることはなかった。自分たちが飛ばした超音波を回収することで、二人は障害物を見切ることができるからだ。

 やがて二人は、貯水槽が立ち並ぶ広間へと出た。ニフシェがドーラに爆殺されかけた場所だ。

「あそこだ」

 金属のプレートがはめ込まれた場所に、ニフシェとミーシャは駆け寄った。あいかわらず表面はさび付いていたが、それでも建物の構造だけはおぼろげながら把握できる。

「ミーシャ、いま通ってきた道は、この図のどこら辺だと思う?」

「みゅーん。」

 ニフシェの質問に対し、ミーシャは首を傾げるばかりだった。

「いや、それで良いんだよ、ミーシャ。いまの通路は、この図面にはないんだ。たぶん、この鹹水工場が廃墟になった後、エルーリアが自分で作り出したんだと思う」

 話をする合間にも、ニフシェは金属板の見取り図に目を走らせる。

 レイとドーラ、それにエヂオ……かれらはみな、エルーリアの実験の成果だというのが、ニフシェの予測だった。複雑な魔法を行使するためには、魔法陣が必須になる。そして魔方陣は、その複雑さに応じて占める面積も大きくなる。廃屋には、魔法陣を描くための広いスペースなどないだろう。となると必然的に、実験場はこの鹹水工場になる。

「だから……他にも通路があると思うんだ。この図には書かれていない通路が。……でも、参ったな」

 頭を掻きながら、ニフシェは見取り図と周囲とをかわるがわる見返した。すでにこの図には書かれていない通路が五、六本ほど、ニフシェの位置からは見て取ることができる。

「これじゃあ何も……」

「みゅーん。……あそこ!」

「えっ?」

 薄暗く、まったく目立たない位置にある扉の一つを、ミーシャは迷うことなく指さした。

「”あそこ”?」

「ミーシャ、あの扉、なんだかむずむずする。むずむず。」

「そうなんだ……」

「むずむず。」

 ニフシェが見る限りでは、なんの変哲もないただの通路である。その通路から、ミーシャが何を感じとったのかは、ニフシェでも分からなかった。

 しかし、ミーシャの共感力の強さには超常的なものがある。五官を超えたミーシャの能力を、ニフシェは信じることにした。

「分かった――」

 行こう! ……そう言いかけて視線を落としたニフシェの視界に、さっきまで自分が倒れていただろう水槽の辺りが映り込む。そこには、あるはずのドーラの死体がない。

「待って……」

 二人の背後から声が届いたのは、そのときだった。

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