第12話:似たもの同士(Похожие пользователи)

――彼、見出せばすなわおそれん。おそるればすなわち驚かん。しかして彼は万物をる者たらん(彼は見出せば動揺するであろう。動揺すれば驚くであろう。そして、彼はすべてを支配するだろう)。

『トマスによる福音書』、第2節

 気付いたときには、ニフシェは食卓に肘をついて座っていた。場面を理解する前に、両肩を誰かに叩かれる。振り返ってみると、そこでは姉が――ニフリートが――、ニフシェを見下ろしていた。

「起きたか? おはよう」

 ニフリートは口元に笑みを忍ばせていたが、目は笑っていなかった。

 返事が思い浮かばず、ニフシェとニフリートは、しばらく互いに見つめ合っていた。家の向こう側からは、潮騒の音が聞こえてくる。

「寝起きが良いと、得した気分になるよな? 単純なものさ、人間なんて……」

 妹の肩から手を離すと、ニフリートはニフシェの正面に座った。

 海辺からは、冷たい風が吹き寄せてくる。

「……どうした? せめて、何か言えよ?」

 脚を組んだ姿勢で、ニフリートは左の手のひらを右手の親指でこすっている。

「喋ることさえできないのならば……後はもう、ボクを殺すしかないだろう? ――もっとも、ボクを殺すためだけに、言葉を喪った奴だっているけれど」

「ニフリート、ボクは死んだんだ」

 ニフシェの言葉に、ニフリートは反応しなかった。相変わらずニフリートは、左の手のひらを右手の親指でこするだけだった。

「ヘマをやらかしたんだ」

 それでもニフシェは、語らずにはいられなかった。こうして語っていること自体が、自分が自分であることの証明のように、今のニフリートには思えたからだ。今まさに、自分は死にかけている。他者からのリアクションがあれば、それは自分が生きていることの証明になる。――この場合、他者はニフリートだって構わない。

「脇腹を撃たれて、血が止まらない。もう助からないんだ――」

「なんていう名前だったかな、ソイツ? 死んでからは記憶が曖昧で……たしか、れ、レテ……?」

「ニフリート!」

 ニフシェは、ついに声を荒げた。ニフリートは喋るのをやめ、ニフシェを見つめる。しかしその見つめ方は、ニフシェが怒り出すのを待ち構えていた様子でもなければ、自分の語りに没頭しているうちに、急に呼び覚まされたかのような様子でもなかった。まるで、目線を動かしている中で、偶然妹が視界に映り込んできたとでも言わんばかりの、どこか遠くを見るような見つめ方だった。

「ニフシェ、悪いけれど、死はボク自身の分だけで満足しているのさ」

 肩で息をしていたニフシェは、今のニフリートの言葉の裏に隠されている皮肉の、半分も読み取ることができなかった。

 しかし、ニフリートは目を見開いたまま、言葉を続ける。

「怖い顔をするなよ。ボクも精いっぱい、キミの死を悲しんでやるよ。ボクは不器用だけれど、そのくらいは頑張ってやってみようと思う。それに、ここはいい場所だ。まったくキミにおあつらえ向きの場所だと、ボクは思うよ。まぶしい日差し、透き通った海……今日は曇っているけれど、いつか拝める時も来るさ」

 ニフリートの話を聞く代わりに、ニフシェは食卓に視線を落としたり、あるいは天井を見上げたりした。ニフリートが、ニフシェの事情に関心を持っていないことは明らかだった。それでもニフリートは、妹の話を全て聞いていたのだ。そして、妹を傷つけることのできる絶好の機会を、淡々と待っている。もしニフリートが率直な性格ならば、

「なぁ、ニフシェ、キミが死にそうな話になんか、興味がないんだよ」

 と言ったことだろう。しかしニフリートは、そんな「野暮ったい」振舞いは決して行わない。その代わりニフリートは、「ニフシェの死を悲しんでやる」と言っている。それは、貯水槽の汚水にまみれ、一人寂しく死ぬであろうニフシェに対する当てつけだった。そして、「誰かに憐れんでもらいたい」というニフシェの無意識の感情を暴き立て、それをあからさまに「悲しんでやる」と言って、ニフシェの感情はうぬぼれに過ぎない、と断罪しているのだ。今のニフシェにできることは、辛抱することだけだった。怒りを露わにしてしまえば、それはニフリートの思うつぼだからだ。

 だが、この「怒りを表に出さない」というニフシェの態度さえもが、ニフリートに仕組まれたものだったとしたら? 「ニフシェ、ここの海が、お前のけなさを認めてくれるほどの広さを持っていると良いな」などと、ニフリートが言い出したりしたら?

 ニフシェは、気が狂いそうだった。

「なぁ、ニフシェ。キミの人生を、ボクが代わってやろうか?」

 唐突なニフリートの言葉に、ニフシェは一瞬、怒りを忘れた。

「――え?」

「キミの代わりにボクが生きてやろう、って言っているんだよ。……二度も言わせるなよな。自分でも野暮ったすぎて、口が腐ると思うくらいなんだから」

 自分の生を代わる?

 ニフリートが?

 ニフシェは自問自答した。やはりニフリートは、自分の話など聞いていなかったのだろうか? 自分は爆風で重傷を負った挙げ句、水槽の中へ転落してしまったというのに。

「キミよりは良くキミの人生を生きられると思うよ、ボクは……?」

 妹の心中を見抜いたかのように、ニフリートは言った。それから、どういうわけかニフリートは、肩を震わせて笑いはじめた。

「『良く生きる』か……フフフ……ハハハ……面白いな……ハハハ……。まぁ、早晩化けの皮ははがれると思う。それでも、丁寧には生きていけると思うよ。ちゃんとおべんちゃらとか言ってさ。ニフシェ、ボクはキミみたいに、誰かに支えられずとも生きていけるから……」

 最後の言葉が、ニフシェの心をえぐった。

「どうしてお前なんかに――」

 椅子から立ち上がり、姉のことをにらみつけた矢先、ニフシェは自分の心が重心を喪うかのような、不思議な感覚を味わった。宙に投げ出されたかのような感覚の後、海風のように冷たい思念が、ニフシェの心の隙間に入り込んでくる。

――アンタは私なしでは生きていけないのよ……!

 その思念は、またしてもエルーリアの言葉を、ニフシェの脳裏に反復させた。

 だが、この言葉の意味に、そして言葉に隠されたエルーリアの欺瞞に、ニフシェは初めて気付いたのだった。

「どうした?」

 立ち尽くしている妹の姿を見て、珍しくニフリートが自分から声をかけた。

「黙るのはよせよ。しらけるだろ――?」

「ニフリート。ボクはやっぱり、キミが必要なんかじゃないよ」

 一瞬だけニフリートは、その場で凍りついたかのようだった。だがすぐに椅子から立ち上がると、ニフシェの肩に手を添えた。

「ニフシェ、良いんだよ。誰も一人では生きていけないんだ。強者を気取るのはよせ。見ていられないだけだから……」

「それはさ……ニフリート……」

 肩に添えられた姉の手を払いのけると、ニフシェはその手首を強く握りしめ、ニフリートを正面に見据えて言った。

「キミも同じことだろう?」

 ニフリートは、ただじっと妹のことを見つめている。

「それどころか、ニフリート、ボクがキミを必要としている以上に……キミがボクを必要としているんじゃないか?」

 これが、ニフシェの得た答えだった。ニフシェは尋ねるようにしてそう言ってみたが、言葉として口に出したお蔭で、ニフシェの中でその言葉は確信へと変わっていった。

「そう……そうなんだよ……。ボクがキミを恐怖しようが、あるいは他の感情を抱こうが……本当はキミには、そんなことはどうでもいいことなんだ。大切なのは、ボクがキミのことについて考えることで、キミに居場所を与えてやることなんだから。そうじゃないか? ……いや、答えてくれなくていい……!」

 衝動的に姉に身体を密着させると、ニフシェは背中に腕を回し、ニフリートの全身を抱きしめた。

「だから……ニフリート……キミのことを恐れてやるよ。キミの気が済むまで、ボクの一生涯を、キミに捧げるのさ。……どうかな? 良い人生じゃないか?」

 姉の身体からゆっくりと離れると、ニフシェはニフリートのことを、まっすぐ見据える。“生きていて”初めて、ニフリートに言いたいことの全てを言い切ったような気がして、ニフシェは興奮の只中で静かに震えていた。

 永遠とも思えるほどの長い沈黙の後、ニフリートは踵を返し、窓のそばで立ち止まった。そして、

「良い人生かもな」

 と言った。姉が口にしたのはたったそれだけだったが、ニフシェにはそれで十分だった。

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