第9話:聖なるもの(Святой)

「なぁ、一つ詫びなきゃいけねぇことがある」

「詫びる?」

「そうだ。サルフについてだが――」

 続けて何かを言おうとしたトリュショーを、別の音が二人を遮った。誰かしらが、息せき切って走ってくる音である。祭壇の脇にある通路から響いてきたその音は、二人の下へ近づいてきた。

「なに……?」

「隠れろ!」

 まごついているクニカを引っ張ると、トリュショーは祭壇の裏側にクニカを押しやった。

 足音の主が飛び出してくる。祭壇の裏手から、クニカはそっとのぞき見た。

 そこにいたのは、サルフである。サルフは、リンに食糧の貯蔵所を案内していたはずだった。

 だがリンの姿はない。サルフの着ている服はあちこちが破け、肩からは血が溢れていた。

 クニカの背筋に、悪寒が走る。

(リン……もしかして……)

「見つけたぞ、テメェ、何してやがる!」

 サルフが吠えた。以前とは比べ物にならないほどの、強烈な剣幕だった。

「何もしちゃいねぇぜ、サルフ、」

 サルフをたしなめるように、トリュショーは肩をすくめてみせる。

 クニカには二人の心の色が見えた。サルフもトリュショーも、心の色は真っ赤にたぎっている。ちょっとした言葉の弾みで、すぐにでも爆発してしまいそうだった。

「お前が、たまたまここに来ただけだ」

「やめろ、御託ごたくはたくさんだ! ガキはどうした?」

「逃げられちまったよ」

「逃げただと?!」

 サルフが目を剥いた。

「クソッたれ! 始末しとけって言ったろ!」

 シャツの襟元を握りしめ、クニカは息を殺そうとする。二人とも、はなからクニカたちを騙そうとしていたのだ。クニカとリンを引き離して殺し、持ち物を奪おうとしていたに違いない。

 リンの予感は当たったのだ。

(リン……)

 クニカは吐きそうになった。じっとしていることが、これほどの苦行であるとは思わなかった。

 しかし、なぜトリュショーは、さっさとクニカを殺さなかったのだろうか?

 それに今、トリュショーは「クニカは逃げた」と言った。なぜ、嘘をつく必要があるのだろう?

「お前が逃がしたんだ?! そうだろ?!」

「違うね。あの子が、自分の意思で逃げたんだ。俺たちが思っているほど、あの子たちはうぶじゃねぇ。だろ、サルフ? お前の怪我だって」

「やられた! あのガキ、魔法が使えやがる。ちくしょう! ただじゃおかねぇ。下水道があって助かった」

 サルフの言葉に、トリュショーが初めて、うろたえた素振りを見せた。

「お前、正気か? コイクォイが通れねぇように塞いどいたんだぞ?! ぶち壊したな?!」

「うるせえ! 死んでたまるかってんだ! ――いや、待て、おかしいぞ?」

 サルフの目が光った。

「この”黒い雨”ん中逃げたってのか? お前、噓ついてるな? お前がかくまってるんだ」

 背負っていたものを、サルフは構えてみせる。白い鶴嘴つるはしだった。

「ガキを出せ、トリュショー。もう一人のガキとの取引に使うんだ。あのガキも、必ずチビを追ってここまで来る。そこを狙うんだ」

 トリュショーは押し黙ったままだった。サルフの鼻息が、ますます荒くなる。

「どうした? 情でも移ったか?」

「……違う。目が覚めたんだ」

 信じられないとでも言わんばかりに、サルフはトリュショーを見つめた。真っ赤だったサルフの心境が、今度は黒に変わる。クニカが見たことの無い色だ。

「『目が覚めた』だと? ハッ!」

「なぁサルフ、こんなことは間違っているぜ。しょうに合うとか、合わねぇとか、そんな問題じゃねェ。俺もお前も、自分が何をやっているのか、よく分かってねぇんだよ」

「黙れ、こんちくしょう!」

「なぁおい、サルフ! 間違ったことに『間違っている』って言おうぜ。こんなときだからこそ、こんな今だからこそ言うんだろ?!」

 サルフが、鶴嘴つるはしの柄を振り回した。トリュショーは避けようと身をかがめたが、一撃を喰らった。重い金属の先端が、トリュショーの頭に、骨の砕ける音とともにめり込んだ。

 クニカの見ている前で、トリュショーの腕がだらりと垂れ下がる。サルフは必死の形相で、トリュショーの頭蓋ずがいから鶴嘴つるはしを引き抜こうとする。

 とうとう、サルフが鶴嘴つるはしを引き抜いた。――いや、柄の部分だけがすっぽ抜けた、と言ったほうが正しい。鶴嘴つるはしの頭部はトリュショーに突き刺さったまま、トリュショーの体が祭壇の方へ崩れ落ちる。

「あっ――!」

 祭壇が崩れ落ち、クニカの姿があらわになった。サルフが声を荒げた。

 目の前で起きたことが、クニカには信じられなかった。先ほどまで話していたトリュショーが、今は床に寝そべったまま、両脚を投げ出している。本当の死人とはどうしても思われない。クニカは、何か芝居でも見ているような気がした。

「どうして――?」

 腰が抜け、クニカは立つことができなかった。後ずさるクニカに、サルフはにじり寄ってくる。

「殺すことなんてなかったのに!」

「うるせえ! 知ったような口を聞くんじゃねェ!」

 サルフは怒鳴ったが、その声は震え、顔は青ざめていた。鶴嘴つるはしを振りかぶったときに感じた肉の生々しい重みが、サルフの指をわなめかせているようだった。

「――殺す!」

 サルフが鶴嘴つるはしの柄を振りかぶった、そのときだった。聖堂の玄関から、大きな音がした。サルフもクニカもぎょっとなって、そちらを振り向く。

 黒い雨の向こう。雷が光り、音が鳴るまでの、その一瞬。その一瞬の内にさえも、獣のようなうなり声を発する人だかりを、クニカは目撃した。

 再度、扉に何かが当たる。蝶番ちょうつがいが軋み、扉が曲がる。三度目の突進で、扉が弾けとんだ。

 現れたのは、人の群れ――いや、コイクォイの群れだった。頭は黒い雨に浸食され、奇妙な形にねじ曲がっている。黄鉄鉱パイライトのような立方体が無数に張り付いた形の頭もあれば、海綿スポンジのように膨れ上がった形の頭もある。

 クニカたちを”見据える”やいなや、コイクォイたちは一斉に雄叫おたけびを上げた。

「ちくしょう!」

 サルフは一目散に祭壇の奥へと逃げ出した。後を追うように、クニカも祭壇の奥へと向かう。振り向けば、錯乱した一匹のコイクォイが、祭壇に爪を立てて粉々にしている最中だった。あとのコイクォイたちは、みなクニカを追いかけに来ている。

 聖堂を抜けると、クニカは今までに出したことのないような速さで走り始めた。走っているうちに、恐怖心はますます募り、しまいには狂気のようになってくる。初めは前を逃げているだろうサルフの駆ける音が分かったが、とうとうその音も聞こえなくなった。

 脇に据えられた階段を、クニカは駆け下りる。階段を下り、無我夢中で扉をくぐった。立ち込める悪臭にも構わず、クニカは下水道へと飛び込んだ。背後から聞こえてくるコイクォイどもの悲鳴が、下水道全体に反響している。

(まずい、まずい、どうしよう……!)

 下水道は、想像を絶する環境だった。壁はかび臭く、突然やってきたクニカの姿に、驚いた虫たちが一斉に飛び交い始めた。細い通路のすぐ側を、”黒い雨”が怒涛のように流れてゆく。しかしクニカは、それらを確認するすべがなかった。下水道が暗いためだ。気配と音とで、通路か水路かを確かめながら、クニカは慎重に歩みを進めた。

 途中何度も、コイクォイたちの叫びが聞こえてきた。クニカの背後からだけではなく、下水道のあちこちから聞こえてくるようだった。ヤンヴォイの街をうろついているコイクォイたちが、何かの拍子で下水に落ちたきり、内部をさまよっているのだろう。暗くて、臭くて、複雑でおぞましいこの下水道にいるだけで、世界中が渦巻く霧のように揺らめきながら、自分から遠ざかっていくかのようにクニカには感じられた。

(リンに会わなきゃ……!)

 その思いだけがクニカを生かしていた。リンに会ったからといって、今の状況が良くなるとは思えない。それでも、一人は嫌だった。

 次第に道が開けてくる。クニカの目が、次第に闇に慣れてきたのだ。

 とうとう、クニカの眼前に一枚の扉が現れた。扉を開けると、内部から光が漏れてくる。目がくらむのも構わず、クニカは光の中へ逃げ込んだ。

(ここは……)

 クニカは目を細める。プロペラのうなる音が、部屋に満ちていた。蛍光灯が褪せた光を放っている。奥のほうには計器が取り付けられている。脇には階段があり、もう一階下へ行けそうだった。

 ナイフを握りなおしてから、クニカは二、三歩前へと進み出る。するとそのとき、背後から近づいてきた人影が、棍棒こんぼうの一撃をクニカに喰らわせてきた。

「あっ――?!」

 目の回るような一撃だった。クニカはその一撃を、高圧電気に触れたように感じた。なす術もなく倒れ、クニカは額を床につける。ほんの少し頭を浮かすと、石の床には血が滴っていた。

「ハァ、ハァ――」

 荒い息を聞きつけ、クニカはそちらへ目をやる。クニカの前に、サルフが立っていた。

 鶴嘴つるはしの柄を投げ捨てると、サルフはクニカの襟首を掴む。

「は、離せっ……!」

「てこずらせやがって……ちくしょう」

 襟首を掴んだまま、サルフはクニカを引きずってゆく。クニカの首を締める腕は、万力のように固い。

 とうとう、クニカの身体はフェンスに押し付けられた。身体は宙に浮き、サルフがその気になれば、クニカは階下にまで落ちてしまうだろう。

「クソガキめ……!」

「やめろ……っ!」

 サルフの締め付ける力が強くなる。無我夢中で、クニカはサルフの腕を掴んだ。するとどうだろう、サルフが顔をしかめ、指の力が緩んだ。身体を滑らせ、クニカは少しでもサルフから離れようとする。

「待てっ!」

「嫌だっ!」

 サルフが腕を伸ばし、クニカを再度捕らえる。階段の手前で、二人はもみ合いになった。サルフはクニカを殴りつけようとするが、クニカはサルフのベルトにしがみついて、攻撃から身を守る。

 サルフが体勢を崩した。サルフはクニカの足を掛けようとする。サルフに足を取られ、クニカは後ろに倒れこむ。

 とつぜん、二人の体が宙に浮いた。階段めがけて、二人が倒れこむ。墜落と同じだった。途中で止まる力も無い。段差にぶつかりながら、クニカは自分が転げ落ちていくのが分かった。とがった先に頭をぶつけ、クニカは気を失った。

――……

 気がつくと、クニカは蛍光灯を見据えていた。頭が締め付けられるように痛かったが、何とか立ち上がる。手は血まみれだったが、すでに血は固まり、黒くなっていた。

 クニカは傷口に、おそるおそる手を触れてみる。痺れるように痛いかと思ったが、そこまでの痛みはなかった。ひどい目に遭った割には、驚くほど健やかだった。

(そうだ、サルフは……?!)

 床に下ろしたクニカの手が、何かに触れた。とっさに振り向いたクニカの視界に、横たわった人間の姿が映りこんだ。サルフだった。サルフの鼻は青白くなっており、目は白く濁っていた。幽霊を見たか悪魔を見たか、それ以上のもっと悪いものを――もし、そんなものがあるとすればだが――見たかのような形相で、サルフは死んでいた。

「あ、ぁ……」

 クニカは、それだけしか言えなかった。サルフの死体の姿に、トリュショーの死体の姿が重なる。鶴嘴つるはしを喰らったトリュショーの頭は、熟れすぎたザクロのようにぐちゃぐちゃになっていた。

「あ……嫌だ……」

「――クニカ!」

 誰かの叫び声が、遠くから聞こえてきた。声の主はクニカまで駆け寄ると、クニカのか細い肩を抱きしめる。リンだった。

「クニカ……?!」

「あ……、ああっ?!」

 リンを見るやいなや、クニカは逃げ出そうとした。リンの身体は血にまみれ、真っ赤に染まっていたからだ。

「クニカ、クニカ、落ち着けよ! オレだよ、リンだよ! 大丈夫だ。もう大丈夫なんだよ」

「リン……わたし、わたし……人を……殺しちゃった」

「落ち着けよ、クニカ。クニカが悪いんじゃないだろ? オレが殺したようなもんだよ、そうだろ? なぁ、ほら、そうだって思ってくれよ。俺がちょっと、クニカから目を離したからいけなかったんだ。そう言おう、クニカ。だから今日のことは忘れろ。忘れるんだ。何もかも」

 リンが言葉をつなぐ間、クニカは泣きじゃくっていた。リンも、クニカを力の及ぶ限り抱きしめているだけだった。どうしてこんなことになったのか、クニカには分からなかった。ただ広い部屋の中を、プロペラの低いうなり声だけが埋め尽くしていた。

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