――世は過ぎ去るべし、天も過ぎ去るべし。死すべき者に、生に与る者無きなり。生ける者にて、死に与る者無きなり(この世は滅び、天もまた滅ぶだろう。死人たちは生きないだろう、生者たちは死なないだろう)。
『トマスによる福音書』、第12-1,12-2節
「待ってろ」
リンに呼び止められ、クニカは我に返る。周囲を見渡してみると、そこはクニカの見知らぬ部屋だった。上の空のまま、リンに連れられてここにたどり着いたらしい。
奥の扉に向かって、リンは歩き出した。手には懐中電灯が握られている。どこかで見つけたものだろう。サルフから奪ったのかもしれない。
クニカはリンを待った。雨は続いており、天井近くの窓に、雨のしずくが当たっている。部屋の中は暗く、寒かった。クニカは膝の中に頭を埋める。
しばらくしてから、リンが戻ってきた。テーブルを引っ張ると、ランタンを乗せた。マッチをすると、リンはランタンを灯す。部屋がぼんやりと照らされた。
「温かくなっただろ? どうだ?」
「うん……」
「お前にやるよ」
左手に下げていたものを、リンはランタンの脇に置く。青い色をしたショルダーポーチだった。
「上の階で見つけたんだ。クニカにはちょうどいいだろ? 持っておけよ。食料とか必要になるから」
「じゃあ、サルフはやっぱり――」
「忘れろ」
リンの心に、赤・黄・青の三色が去来した。
「とりあえず今は忘れるんだ、今は」
クニカは頷いた。リンはため息をついたが、どことなくばつ悪げだった。
「そうだ、クニカ。シャワーがあったんだ。オレは入るけど、クニカはどうする?」
(シャワー?)
何かをしたいという気持ちが、今のクニカには起きなかった。頭の傷もまだ痛い。
「――いや、いい」
「そうか?」
リンの言葉は何気なかったが、どこかせわしかった。
「傷が痛むとあれだからな。――あ。後で手当てするからな。いじるんじゃないぞ。じゃあ、待ってろ。物音がしたら、すぐにオレを呼べ、良いな?」
「うん……」
◇◇◇
シャワーは、すぐ側にあるらしい。ボイラーの大きな音が、近くから響いてきたからだ。
ボイラーの音が止まる。程なくして、リンが戻ってきた。
「出たぞー、クニカ」
何気なく振り向いたクニカは、リンの裸体を見て焦った。女体化しているとはいえ、女子の裸を拝めるほどの度胸は、クニカにはなかった。
それでも、急に目を離したら怪しまれる。どっちつかずの状況で、クニカは目の焦点を合わせないように努めた。
「――何だよ、クニカ?」
そんなクニカの葛藤など、リンはお構い無しだった。長く濡れそぼった黒髪をタオルでほぐしつつ、裸のままクニカの傍らに腰掛けると、リンは無造作に足を投げ出した。
リンの白い肌がまぶしい。
「ジロジロ見るなよな」
「いや……ごめん。……ほ、ほらリン、早く服着ないと、風邪引いちゃうよ?」
「今出たばっかだぞ? それにな、ボイラーがイカレてるんだか分かんないけど、お湯がめちゃくちゃ熱かったんだ。茹でダコになるかと思ったよ」
タオルで脇の下を拭うと、リンは自分の長い髪を掻き分けた。乳房が露になる寸前に、クニカは目線を反らす。
「――そうだ、クニカ、さっきのポーチ貸してみろ」
ポーチを受け取ると、リンはそこから幾つかのものを取り出してみせた。円形をしたケースが、大小それぞれ二つ。
クニカはそのうちの、小さいほうを手にとってみる。表面にはラベルが貼ってある。部屋が薄暗いせいで、ラベルの文字は読めなかった。
「これは……?」
「虫除け」
リンは蓋を開け、中に入っていた軟膏を体に塗りつける。クニカのところにまで、ハーブの香りが漂ってきた。
クニカはじっと、軟膏を塗るリンの様子を見つめていた。手のひらで軟膏を薄く伸ばすと、リンはそれを顔に、首に、胸に、腹に、脚にと塗りつけていく。
「クニカ、」
「あっ、はい」
「……背中に塗ってくれないか?」
リンはクニカに軟膏を手渡した。軟膏を指につけると、クニカはリンの背中にそれを塗りはじめる。ランタンの光に照らされたリンの白い背中が、軟膏を塗ることでつややかになっていく。
クニカにはとても変な感覚だった。少女の剥き出しの背中に触れる機会など、地球では絶無だったにちがいないからだ。
「大丈夫か?」
「えっ?」
「いや、息が荒いから……」
「べ、別に?」
「さっさと塗ってくれよ」
挙動を怪しまれないよう、クニカは感情を殺してリンの背中に軟膏を塗りおえた。
「終わったよ」
「ありがとう、クニカも塗っておけ」
「う、うん……」
「――いや、オレが塗る」
「うん。――え?」
言葉の重大さに気付いて、クニカは慌てふためいた。
「いや、いいよ。自分で塗れるって」
「いいから!」
クニカがひるんでしまうくらいには、リンの声は大きかった。
(何で怒られているんだろう?)
「ほら、さっさとシャツ脱げよ」
クニカの服に手をかけると、リンは強引にクニカのシャツと下着とを脱がせた。
「うへえっ?!」
「『うへえっ』じゃないだろ。まったく……」
悪態をつきながらも、リンは手早くクニカの身体に軟膏を塗っていく。背中に満遍なく塗ると、リンはさらにクニカに近づき、クニカの乳房から腹までに軟膏を塗りたくった。
リンの胸が、クニカの背中に触れる。今までに経験したことのない感触に、クニカは飛び上がらんばかりだった。
リンのされるがままになっていたクニカは、改めて自分の身体に視線を落とす。膨らんだ乳房のせいで、臍の辺りまでを見通せないことが、クニカには変な感触だった。
「クニカ……」
「なに?」
「お前、着やせするんだな」
「そうかな?」
「そうだよ。ちぇっ。……足は自分で塗っておけ」
(「ちぇっ」……?)
クニカが足に軟膏を塗っている間中、リンはつんとしていた。よく分からないが、クニカが着やせしているのがリンには癪らしい。
「怪我は平気か?」
「まだちょっと痛い」
「見せてみろ」
頭を向けると、リンが膝立ちになってクニカの額を覗き込む。リンの肢体がクニカの眼前にさらされ、クニカは気が気でなかった。
「すごいな……」
「な、何が?」
「もうほとんど治ってる」
「そう……なの?」
恐る恐る、クニカは傷口に手を当ててみる。確かに、痛くなかった。おまけに、もう既に薄皮も張っているようだった。
「安心したよ。この分じゃ、車に撥ねられたって死なないな」
「そ、そうかもね、ハハハ……」
「車に撥ねられてここの世界にやってきたんです」などと、クニカは到底言い出せなかった。
「さぁ、クニカ。腹ごしらえしておこう。オレはちょっと服を着てくるから――」
(やっと服を着るのか……)
安心しきっているクニカの脇で、リンは大きいほうの缶詰をかざしてみせる。そこには“Сгущенное молоко”と銘打ってある。
「練乳?」
「そうだ」
「このまま食べるの?」
「バカ言え。缶ごと煮るんだ。キャラメルみたいになるまでな」
(キャラメルが夕飯か)
クニカは辟易としたが、わがままを言っていたら、こんな状況下で食べられるものはなくなってしまうだろう。
服を着たリンが、携帯用の小さな鍋に、シャワールームから調達した水を張って戻ってくる。リンは相変わらず、白いTシャツに緑のハーフパンツを履いている。この取り合わせが、リンのお気に入りなのだろう。
リュックをたぐり寄せると、リンはピストルのカートリッジを取り出した。炎の魔法陣が刻印されたカートリッジである。それを一個床に置くと、リンはマッチで火をつけた。
「これでよし――」
「大丈夫なの?」
「ああ。安心しろ。ほら、はやく鍋を火にかざせよ」
「あっ、うん」
言われるがままに、クニカは鍋を、コンロの上にかざす。
◇◇◇
「なぁ、クニカ」
沸き立つ鍋を見ていたリンが、おもむろに口を開いた。
「どうしたの?」
「あの二人のことだよ。サルフと……トリュショーだっけ?」
「あぁ……」
クニカは、鍋の柄を握りなおす。
「クニカ、オレと離れたあと、何があったのか話してくれ」
リンに促されるがまま、クニカは全てを話した。トリュショーに連れられて、ヤンヴォイ聖堂のステンドグラスを拝んだこと、サルフに対してトリュショーは抗ったこと、トリュショーをサルフは殺したこと、サルフはクニカと取っ組み合いになって死んだこと――。
「いや、あれは事故だったんだ」
話がサルフの段に及ぶと、リンはかぶりを振った。
「クニカのせいじゃない。忘れろ」
「でも……」
「サルフってヤツは、オレのことを騙して殺すつもりだったんだよ。オレはそのことに気付いたから、反撃できたんだ。だからあれだ、ちゃんとオレがサルフを返り討ちにしていれば……いや、何か違うな。こんなことが言いたいんじゃなくて――」
取りとめもないことを話すと、リンは頭をかきむしった。リンの心の中を、淡い赤色と、濃い青色がうごめいていた。
このときになって、クニカも気付いた。リンも「殺せばよかった」と、単純に割り切っているわけではないのだ。
「クニカの方は大丈夫だと思ってたんだ」
「……え?」
「トリュショーを見たとき、『コイツは悪いこと出来なさそうだな』って思ったんだよ。仮にその気になっても、悪いことをし損なうんじゃないかな、って。だから、クニカがそっちにいてくれれば安全だろう、って。たぶんトリュショーには、クニカを殺すだけの度胸はないだろう、って。――なぁ、クニカ。もしお前がトリュショーに襲われたなら、クニカはアイツを刺せたか?」
「いや……出来なかった、と思う」
「それでいい。それでいいんだよ」
そう言ったっきり、リンは押し黙ってしまった。リンの心の裡は、相変わらず青い色が席巻したままだった。
クニカはその青い色を凝視した。意図的に、リンの心の中をのぞいてみようとした。すると、
(殺しはオレ一人でじゅうぶんだ)
という声が、クニカの心にまで響いてきた。
「そんなことは……ないと思うよ?」
「――“そんなこと”?」
「えっ?! あ、その……」
言いかけてから、クニカはうつむいた。「心の中を見透かせる」という能力について、クニカはまだリンに話していない。
「なんだよ、ちゃんと言ってくれ」
「リン、あのさ、一人で抱え込まないでほしいんだ」
「え……?」
「だってそうでしょ? そもそも二人と出会わなければよかったわけだし、そもそもこの街を通らなければよかったわけだし、そもそも“黒い雨”なんて降っていなければ、今頃こんなことになっていなかったわけだし……。だから、その、リンが殺してくれれば、わたしが殺さなくって済んだってわけでもないと思うんだよね……?」
喋っているうちに、クニカは恥ずかしくなってきた。リンがあっけに取られたように、口をぽかんと開けたまま、クニカに釘付けになっていたためだ。
リンはしばらくそのままだったが、ようやく
「お前……もしかして、オレのことを慰めてるのか?」
と言った。
「へ? いや、べ、別にそんなこともないけど……」
ただクニカは、リンのしょげている姿が見たくなかっただけだった。しかし、面と向かって「慰めてるのか?」と問われると、クニカは逃げ出したくなる心地がした。
赤面しているクニカを見据え、リンは肩を落とす。
「ハァ……。お前に慰められると、なんだかふにゃふにゃしてくるな」
「ご、ごめん……」
「バカみたいだな。ていうか、ばかばかしくなってきた。……でも、案外そんなものなのかもしれないな」
「“そんなもの”?」
「そう」
リンはそれ以上言わなかったが、リンの心は青から緑に変わっていた。
「さぁ、クニカ。もういいだろ。食べよう」
「……うん」
リンに促され、クニカは鍋を火からどかした。適度に冷ましてから、リンが缶詰めをナイフで切る。中の練乳は程よく固まって、まさしくキャラメルのようになった。
広げた缶を皿代わりにして、リンはキャラメルを半分、クニカに渡した。
「食べよう」
「うん。いただきます」
その後の二人は、無言のままキャラメルを食べた。口の中に広がる甘みを噛み締めながら、クニカは外で唸っている雨の音に聞き入っていた。