第8話:大いなるセツ(Великий Сет)

――御国天に有らば、飛鳥なほく御国に至らん。御国海に有らば、海魚なほく御国に至らん(御国が天にあるのならば、人よりも先に鳥が到達しているだろう。御国が海にあるのならば、人よりも先に魚が到達しているだろう)。

『トマスによる福音書』、第3節

 聖堂に着いたときには、クニカとトリュショーとが今しがた通った道に、雨の斑紋はんもんがつき始めていた。斑紋はんもんは互いに結合して、道路を黒く染め抜いてゆく。

「おら、中に入るぞ!」

 クニカは聖堂内へと足を踏み入れる。トリュショーがすぐさま、両開きのドアを閉めた。

「――うわっ?!」

 安堵したのも束の間、稲光が外で瞬き、クニカは声を上げた。天を割るような雷轟らいごうが、聖堂全体をきしませる。

「ビックリした」

「シッ! コイクォイどもが出てくる」

「こ……コイ、クォイ?」

「ゾンビどもだよ」

 怯えるクニカに対し、トリュショーは肩を震わせて笑った。

「もっとも、この聖堂にコイクォイなんざ居ねぇよ。心配すんな。俺はここに何回も来てんだ。

「二人とも……?」

「いや。サルフの野郎だって、ここは知らねぇ」

 トリュショーの心の緑色が褪せ始める。クニカは、トリュショーの表情をのぞき込もうとしたが、暗いせいで、そこまでは分からなかった。

「教えなくていいんですか?」

「教えらんないね」

 トリュショーは押し黙ってしまう。それ以上クニカは、取り付く島もなかった。寒さを我慢するために、クニカはTシャツの袖を引っ張る。

 ややあってから、トリュショーが口を開いた。

「クニカ、お前に見せたいものがあるんだ。待ってろ――」

 それだけ言うと、トリュショーは聖堂のあちこちを巡り始める。どうやら、支柱に据えてある照明に、トリュショーは火を灯して回っているようだった。

 明かりが増えるにつれ、聖堂の全貌が明らかになっていく。クニカは自然と、ヨーロッパの教会に近い構造であると思い込んでいたが、実際の様子は違っていた。聖堂は丸い構造をしており、入り口側が一番高く、最奥部が一番低くなるよう、段差で区切られている。椅子はなく、近くの箱には、毛布が積まれていた。

 最奥部に、祭壇と椅子とが設けられている。祭壇は殺風景で、埃をかぶった鏡と、杯とが打ち棄てられている。祭壇の中央には十字架が据えられているが、十字の先端を円で囲んだ、不思議な形をとっている。

 クニカが興味を持ったのは、台座の隣にある小さな椅子だった。玉座と呼んでもいいような、豪華な椅子だった。手すりにも背もたれにも、彫刻が網のように施されている。

「椅子が気になるか?」

 トリュショーの声が上部から響く。梯子はしごをつたい、上の通路へ移ったらしい。

「あ、はい!」

「坐ったりするなよ。セツ様が坐る椅子だからな」

(……セツ?)

 耳慣れない固有名詞を聞きつけ、クニカは眉をひそめた。

「セツ様って誰ですか?」

「はぁ?! バカも休み休み言えよな! そこの十字架にぶら下がってるお方以外に、誰がいるってんだよ!」

「あっ、すいません。――えっ?」

 平謝りしたクニカだったが、思いがけない言葉に目を白黒させる。

 クニカの常識のなかで、十字架に貼り付けになった聖者は一人キリストしかいない。しかし、どうやらこの世界では、キリストの代わりに、セツという人物がまつられているらしい。

(いや、待てよ)

 祭壇の上に、クニカの視線が釘付けになる。埃をかぶった杯の下に、数冊の本が積まれている。杯をどけ、クニカは本を手に取ってみる。表紙には、

『トマスによる福音書』

 と書かれていた。

(トマス……?)

 「Томасトマス」の文字をなぞりながら、クニカは記憶を呼び起こそうとする。

 福音書エヴァンゲリエについては、クニカも知っていた。クニカが通っていた高校はミッションスクールで、キリスト教の授業が行なわれていたからだ。

 表紙を見るうちに、クニカは思い出した。トマスというのは、十二使徒ドヴィナーツァチ・アポストロフの一人だ。イスカリオテでない方のユダであり、インドにキリスト教を伝道した人物である。

(でも、『トマスによる福音書』なんてあったかな?)

 授業では四つの福音書について教わった。馬太マタイ共観マルコ路加ルカ約翰ヨハネ……。しかし『トマスによる福音書』などというものは、クニカの記憶にはなかった。

 福音書を開いてみたクニカは、挿絵を見て驚いた。周囲の人びとにかしずかれている人物が、キリストそのものだったためである。

 クニカはふたたび、椅子へと目を向ける。トリュショーはさっき、この椅子を「セツ様」が坐る椅子だと言っていた。その一方、祭壇にある福音書にはキリストの福音がある。

(同じ人……?)

 そういうことらしい。クニカの世界で「キリスト」として通っている人物が、こちらでは「セツ」と呼ばれているようだ。

 クニカはもう一冊の本を手にとってみる。そこには、

 Откровение Иоанна Богослова

 と銘が打たれていた。“黙示録アトクラヴィリニエ”だから、ヨハネの黙示録リベレーションのことだろう。

「おい、クニカ!」

 トリュショーから声がかかる。全ての照明を点火し終えたトリュショーが、身を乗り出してクニカに呼びかけている。

「台座を前にどけてくれ。カーテンを開けるからよ、布に引っ掛からないようにしろよ」

「あっ、はい!」

 指示に従って、クニカは祭壇と椅子とを持ち上げる。祭壇の小物を落とさないよう、クニカは慎重に祭壇をずらす。椅子は彫刻で削られているためか、大きさの割には軽かった。

(うっ……?!)

 いや、ローシである。精神的には男だったが、クニカの身体からだは既に女性のそれなのだ。だから、「軽そう」に見えた椅子も、持ってみると重い。特に、腰の辺りが妙に張った。

「で、できましたぁ!」

「そうか、ようし!」

 やっとの思いで椅子を運んだクニカに、トリュショーが上から声をかける。

「クニカ、よく見てろ。――正面、正面!」

 トリュショーが奥へと下がり、かがんで何かを動かしている。動きに合わせ、歯車と歯車とが噛み合う音が、聖堂内に響き始めた。

 一定のリズムに従い、垂れ下がっていたカーテンが持ち上がる。

 クニカの眼前に現れたのは、一枚の巨大なステンドグラスだった。赤を基調としたステンドグラスには、様々な聖人の姿が映し出されている。中心に君臨するキリスト――セツの背からは翼が放射状に伸び、長方形をしているステンドグラスを、六つの場面に仕切っていた。

「どうだ? キレイだろ」

 立ち尽くしているクニカの側に、トリュショーが戻ってくる。

すごいクラシーヴィ……」

「だろ?」

 トリュショーは得意げだった。

「すげェと思うだろ? このステンドグラス。……俺が作ったんだぜ?」

「ホント?!」

「おうとも。……つってもな、全部じゃねェ。俺が作ったのはな、一番右下のコマだ。全体を作ったのは、うんと昔の職人たちだな」

 トリュショーの話を聞きつつも、クニカはステンドグラスの全景パノラマに見入っていた。クニカが見る、初めての本格的なステンドグラスだった。

 右下のコマには、陸に上がって魚を選より分ける、一人の漁師の姿が刻まれていた。漁師は、無数の小魚の中から一匹の大魚を選び、それを見つめていた。大魚の鱗には、小さな文字がところ狭しと描き込まれていた。

「『汝のうちに有るもの、汝を救うべし』――」

「……『汝の外に有るもの、汝を滅ぼすべし』、だ」

 たどたどしく文字をなぞるクニカを受けて、トリュショーが終わりまで読んだ。

「神様はな、外を探したって見つからねぇ。『ここにいるかもしれない』、『いや、あそこだ!』なんて言ってるうちに、結局神様を見つけられねェまま、人は死んじまう。神様はな、外にいるもんじゃねぇ。――生まれたときから、初めっから人間の中にいるんだ」

 クニカは黙って聞いていた。「漁師と魚」という構図が、トリュショーの説明で聖なるもののように思えてきたためである。

「どうした? ぽかんとしちまってよ」

「いや、すごいなァ、って」

「そうか? ハハッ」

 トリュショーは照れているようだった。

「俺がガキだった頃から、ずっと聞かされていた話さ。街の長老が、福音書を朗読するんだ。一節終わるごとに、長老がそれを解説する。ガキの頃は死ぬほど退屈だったけどよ、今なら、ちょっとだけ分かるような気がするぜ」

 トリュショーは深くため息をついて、ステンドグラスの全体を眺めた。“黒い雨”の降りしきる闇の中で、クニカもトリュショーも、ただじっと、灯火に揺れる福音を眺め続けていた。

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