――主、人に告げて曰はく、「王のものは王へ、神のものは神へ、而して我のものは我へ返せ」と(セツ(※キリストのこと)は人に、次のように言われた、「王のものは王のところへ、神のものは神のところへ、そして私のものは私のところへ返しなさい」と)。
『トマスによる福音書』、第100節
「へぇ……記憶がないなんて、難儀だなぁ」
男たちと邂逅してから、一時間が経過した。クニカは太っちょの男に連れられ、ヤンヴォイの街を散策している。
「でも、リンが面倒を見てくれてるから――」
「おっかねえ子だよなぁ、あの子は」
男は、しみじみと言ってのける。この男は、トリュショーという名前だった。リンともう一人の男がいなくなった途端、トリュショーは人が変わったようにおしゃべりになった。初めは警戒していたクニカも、いつしか打ち解けて話をするようになっていた。
トリュショーの胸には、緑のもやもやが見える。緑は、安堵を表す色である。トリュショーは、クニカに対してやましいことがないようだった。
「おっかないんだ……」
「あんなヤツが何人もいてみろ。やせ細っちまうぜ」
(だよなぁ)
クニカはぼやいた。道すがら、リンに何度「ばか」、「バカ」と言われたことだろう。もちろんリンの「ばか」にけなす意味合いはない。がしかし、事あるごとに「ばか」、「バカ」言われていると、身がもたないようにクニカには感じられた。
「お前は別に、あの子の家族とかじゃないわけか?」
「あ、はい」
「同じ街に住んでたとか?」
「えっと……そういうわけでもない、ような――」
「ふぅーん?」
トリュショーは首を傾げる。心の色が黄色に変わった。
「不思議なもんだな? どこの誰かも分からない子を、なんで助けたんだろうな?」
「えっ……?」
クニカはすくみ上がった。
(まずい、何か答えなくちゃ)
とは思うものの、クニカはとっさに答えが出ない。
「どうしてリンがクニカを助けたのか?」
について、クニカもよく分からなかったからだ。
「いや、大した問題じゃねぇかもしんねぇけどよ――」
よほどクニカが困っているように見えたのか、トリュショーは慌てて付け加える。
「妙に面倒見が良さそうだったからよ、てっきり姉妹か何かだろうって勘ぐったわけよ。あ、勘ぐったのはオレじゃなくて、もう一人のサルフって奴だがな――」
トリュショーは言葉を切った。
「サルフは『アイツらは姉妹に違いない』って言うのよ。オレは『そんなバカな』って言ってやったよ。あんまり似てねぇからよ」
「……ですよね」
「第一、お前はチカラアリ人って感じじゃねぇからな。どちらかっていうと、ビスマー人だ。そうだ、アハハ。よっぽどビスマー人の方が似合ってらぁ」
「ビ、ビスマー人?」
「そう、ビスマー人。お前のおっとりした、のほほんとしたところなんか見てると、ビスマー人ってのがピッタリだな」
「そ、そうですか……」
クニカは曖昧に返事をするしかなかった。
「いや、間違いねぇ。川を流れてきたんだろ? 南大陸の川は、みんな南から流れてくんだから。ビスマーにはまだ、“黒い雨”が降ってねぇらしいからな」
「そう……なんですか?」
トリュショーの言葉は、クニカにとって意外だった。
「らしいぜ。ま、ビスマーは山の上だからな」
「どのくらいのところにあるんですか?」
「訊いてどうすんだよ?」
「いや、ビスマーへ行ったほうが安全かなぁ……なんて」
「ここから? ハハッ。バカだなぁ、お前。鉄道でも二か月はかかるんだぜ?」
「そ……うですか」
クニカは視線を落とした。
「ちなみによ、お前たちはどこへ行くつもりなんだよ?」
「えっと、ウルトラ、っていう街です」
「ウルトラは安全なのかよ?」
「えっ?」
クニカはまじろいだ。
「もしかして、ウルトラももう……」
「いや、分かんねぇ。けどよ、仮にウルトラに避難できたにしても、それは所詮『ヤンヴォイよりマシ』ってだけだ。そのことは覚えときな。西のウルトラにだって、東のシャンタイアクティにだって“黒い雨”は降っているだろうよ」
「シャンタイ……?」
「シャンタイアクティ。南大陸では、一番でけぇ都市だな。ウルトラがヤンヴォイよりマシってんなら、シャンタイアクティはウルトラよりマシだな。あの街には何でもある。逃げるんなら、そこが一番だ――」
「じゃあ……トリュショーさんたちもシャンタイアクティに?」
「んなバカな」
クニカは、トリュショーの心の色が、緑から赤に変わっていくのを見て取った。
「こっからなら、ウルトラの方が近いぜ。――でもな、たとえシャンタイアクティの方が近かったにしても、俺は行かねェよ」
「どうして?」
「シャンタイアクティ人に会ってみりゃ分かる。見栄っ張りで、プライドが高くて、何かあるとすぐに『法律が~』、『先例が~』とか言いやがる。おまけにケチときてるんだ。俺たちチカラアリ人とシャンタイアクティ人とは、昔っから仲が悪りぃんだよ。あーっ! イライラしてきたぜ」
「あっ、えっと、分かりました」
心の色が真っ赤になるのを見て、クニカは手短に感想を告げる。
それでも、クニカには分からないことがあった。トリュショーはまるでシャンタイアクティ人を仲の悪い異国人のようにののしっている。どうやらキリクスタン国の国民は、一枚岩ではないようだった。
「それにな、俺はこの街から出たいとは思っちゃいねぇ」
「そんなこと言ったって……」
クニカは路地を見渡した。未舗装の道路には土埃が溜まり、居並ぶ建物のあちこちからはすえた臭いがする。壁際にはゴミが寄せられており、ハエがたかっていた。「街の中にゴミがある」というより、「ゴミの山の中から街が突き出てきた」といったほうが良いくらいだ。
ゴミの中に、死体が転がっているのかもしれない。“黒い雨”を受けて動き出し、飛び掛ってくるかもしれない。勝手にそう考え、クニカは身震いした。湿気で貼りつくシャツをはがすふりをして、クニカは隠し持っているナイフの柄を撫でる。
「じっとしてても何にもならないし……」
「かもしれねぇけどよ――」
トリュショーが更に言葉を続けようとした矢先、遠くの空で雷が唸った。見れば、黒い雲が急激に成長し、ヤンヴォイの街を覆おうとしている。
トリュショーが舌打ちした。
「おい、あそこの聖堂まで、走るぞ!」
「あっ、はい!」
駆け出したトリュショーの背中を、クニカは追った。雷光が薄暗い街を一瞬だけ照らし、雷鳴が埃っぽい街を震わせた。