第6話:欺瞞(Обман)

――彼より出で来るたつき、無知を実にち、葉のうちに死をかくし、枝蔭に闇をちたるなり(そこから生え出た樹について言えば、それが持っているのは無知の果実であり、またその葉について言えば、その中にあるのは死であり、その枝の蔭にあるものは闇である)。

『三体のプローテンノイア』、第18節

 どれほど長いこと、クニカは眠っていただろう。リンに起こされたときには、遠くの空が明るくなっていた。

 身支度を整えると、クニカとリンは換気窓を通って外に出る。

 ショッピングモールから遠ざかりつつ、二人は林の中へと入っていった。踏み固められた赤土の道路が、木々の合い間を蛇行しながら、奥まで続いていた。

 夜中に降りしきっていた黒い雨のせいで、地面には水溜りができていた。

「水溜りは黒くないんだね」

 水溜りに映りこんだ自分の顔を見て、クニカは呟いた。

「そうだよ。もう雨じゃなくて、ただの水溜りだからな。――ずっと黒いままのほうがいいかもしれないけどな」

「えっ? どうして?」

「それは――」

 途中までリンは言いかけたものの、リンはかぶりを振った。

 リンの胸の辺りに、赤い小さなもやもやが生じる。

「いや、何でもない。ばかばかしい」

「そう……」

(そのほうが、苦しまずに死ねるだろ?)

「……えっ?」

 唐突なリンの声に、クニカは身じろぎする。今の声は、まるでクニカの脳内に直接流れ込んできたかのようだった。

「どうした、クニカ?」

「いや……その……なんでもない」

「なんだよ。うじうじするなよな」

「ご、ごめん」

 鼻を鳴らすと、リンは水溜りを踏みつけながら先へ進む。水しぶきを避け、クニカはリンの後を追った。

 クニカは、今の声について考えてみる。

――そのほうが、苦しまずに死ねるだろ?

 これはきっと、リンが言おうとして呑み込んだはずの言葉だろう。にもかかわらず、その声はクニカに直接響いてきた。

(まさか……テレパシーなのかな?)

 “テレパシー”という単語を思いついて、クニカは背筋の寒くなる思いがした。それでも、ここが魔法の世界である以上、可能性は全くないわけではない。

(じゃあ……わたしの心の中も、リンには見えているのかな?)

 だからこそリンは、はっきりしないクニカの態度にいらいらしているのかもしれない。

 でも、そう考えるとおかしなことになる。リンが自ら“言わない”と決めたことが、リンのテレパシーに乗ってクニカに届いたからである。それは矛盾する行動だ。

 あえて言いにくいことを、リンはテレパシーでクニカに伝えたのだろうか? だとすれば「どうした、クニカ?」などと、リンはクニカに訊かなくていいはずだ。

 と、そのときである。前を歩いていたリンが、ふいに立ち止まった。

「どうしたの?」

「……あれを見ろ」

 リンに促され、クニカは前に目をやった。打ち棄てられ、錆付いた屑かごの脇に、何かがしなだれかかっている。

「……うっ?!」

 正体に気付いたクニカは、思わず一歩後ずさった。それは足を投げ出したまま朽ち果てている、男の死体だった。空気の流れが変わり、クニカたちのいるところまで腐敗臭が漂ってくる。

「本当に死んでるかな?」

「……『本当に』?」

「そうだよ。ここは一旦、あの死体から離れよう」

 リンは周辺を見渡し、迂回できる道を探る。

「もしかしたら、あの死体が化け物になって動き出すかもしれないからな。そうじゃなくても、病気が怖い」

 「病気パリエーズィニ」という単語を聞きつけて、クニカは身震いした。この世界と日本との医学水準が同程度とは、クニカには思えなかったからだ。

「そうだ、クニカ。今更だけど、モスキートには気をつけろよ」

「うん」

「見つけたら息を吹き掛けるんだ」

「え? 叩いちゃ……」

「ばかだな。叩いてどうするんだよ。息で追っ払えないなら、吸われっぱなしにするんだ。いいな?」

「う……」

 クニカにはぐうの音も出なかった。叩き殺したほうが絶対に良い気がしたが、素直に従うことにした。

 死体を迂回しつつ、二人は林の奥へと進む。

◇◇◇

 林の合間を抜けると、一本の道路とぶつかった。「国道237」と標示されたその道路を、二人は歩いてゆく。

 アスファルトは赤土でよごれ、ゆがみ、ところどころ亀裂が生じていた。もう長いこと整備されていないのだろう。

 道路を横切るように、太いソテツの木が倒れていた。その幹に、青いバンが頭から突っ込んでいる。たいがいの車は路上に放置されており、窓ガラスはことごとく割られていた。

「クルマが動けばなぁ――」

「運転できるのか、クニカ?」

 目を丸くして、リンがクニカに尋ねる。二人の足元で、ガラスの破片が踏み潰され、音を立てた。

 出来ないことはないよ――と言いかけて、クニカは口をつぐんだ。家族でドライブへ行く際に、クニカはいつも助手席に乗せてもらっていた。だからだいたいの運転法は分かる。

「でも……マニュアルだろうからな」

「マ……何だって?」

「“マニュアル”。クルマを運転する方法、みたいな」

「へぇ……クルマに詳しいんだな」

「いや、そんなこともないと思うけど……」

 というより、リンはそうしたことを知らないのだろうか? それがクニカには疑問だった。

「待て、クニカ。――さては戻ってきたんじゃないか?」

「え? 何が?」

「ばか。お前の記憶に決まってるだろ?」

 クニカは言いよどむ。

「いや、その、これは、そのぅ――」

「なんだよ、違うのか?」

「うん……ごめん」

「ちぇっ、紛らわしいなぁ」

 ごめん、と、クニカは再度口ごもった。この調子だと、リンはいずれクニカの嘘に感づくだろう。

「――はやく戻ると良いな」

「え?」

「クニカの記憶がだよ。一応……クルマに関心があるんだろ? もしかしたら、乗り込んでみれば何か思い出すかもしれないし」

「うん、どう……だろう?」

 ここまで口走って、クニカは考え直す。今は一旦、リンの言う通りにしたほうがいい。

「チャンスがあったら、やってみる」

「そうだよ、クニカ。その調子だ。もしかしたら、クニカの親父はバスの運転手だったりするかもしれないからな」

 心なしか、リンの口調も弾んでいるようだった。リンの胸のあたりに、緑のもやもやができている。

 木々の向こう側に、切れ目が見えた。新しい街に近づきつつあるらしい。

◇◇◇

 フェンスの向こう側に、その町はあった。国道は道幅が狭くなり、市街の道路と直結している。

 そして国道と街路との結節点を、何かが塞いでいた。

「バリケード?」

「みたいだな」

 近づくにつれて、バリケードの様子がはっきりと分かるようになる。バイクやら、フェンスやら、立て看板やらがうずたかく積まれており、二人の行く手を阻んでいた。

「クニカ、そこで待ってろ」

「えっ? ちょっと……」

 立ちすくんでいるクニカを尻目に、リンがバリケードのすぐ側まで近づいた。はみ出ているバイクのハンドルを掴み、ロッククライミングの要領でバリケードをよじ登り始める。

 あれよあれよという間に、クニカの身長二つ分ほどのバリケードを、リンはいとも簡単に乗り越えてしまった。

「よし……クニカ、手を貸すんだ」

「うん」

「……それっ!」

 差し伸べられた手を取り、クニカもバリケードをよじ登った。リンのように身軽には動けなかったが、それでも何とかてっぺんまでたどり着く。

「うわぁ……」

 街路に連なる建物の群れを見て、クニカはため息をもらした。街路を横切るかたちで、提灯ファンナーリと電線とが張りめぐらされている。表通りに面している建物は極彩色で、派手な看板が幾重にも突き出しては中空を飾っていた。国道ではクルマが目立ったが、街へ入ればバイクの多さが目についた。

 日本にいたときのことを、クニカは思い出す。地理の授業中、なにげなく開いた資料集の一ページに、そっくりの写真が載っていた。熱帯モンスーン気候について説明されていたページだった。

(でも……)

 しかし、クニカは違和感を覚えずにはいられなかった。先程脱出したモールと、この街並みとの落差である。モールの構造や装飾は、それこそ日本に建っている水準とひけをとらないだろう。

 では、この街並みはどうか? ――お世辞にもきれいとは言いがたかった。もちろんそれは汚れている/いないの違いではない。ただ、あのモールを見た後だと、まるで百年昔にタイムトリップしてしまったかのような錯覚を覚えるのだ。

(どうしてこんなにチグハグなんだろう?)

「まったく、ひどいな……」

 クニカの思わくとは別に、リンは苦虫を噛み潰したような表情をしていた。それもそうだろう。提灯の何張りかは地面に落ち、潰されている。はるか遠くに見える建物は黒ずんでいた。火事でもあったにちがいない。

 建物の一階は、もともと屋台として機能していたのだろう。下ろされたシャッターにはあちこちに落書きがあり、開きっぱなしの店の軒先は荒らされていた。簡易テーブルや椅子が、店の外で粉々になっている。

 並べられていたはずのバイクもほとんどが錆付いており、あちこちに散乱していた。

 クニカもリンも、しばらく立ちすくんだままだった。人のいない町がこれほどまでに不気味だとは、クニカは考えてもみなかった。

「ここ、何ていう街?」

「ヤンヴォイ、っていうらしい」

 地図をにらみながら、リンが答える。

「ここに来たのは、オレも初めてだよ」

「ウルトラまで、あとどのくらいあるの?」

「全然だ。まだまだ歩かないと」

「うわぁ……」

 クニカの言葉を受けて、リンの眉間にしわが寄った。

「『うわぁ……』なんて言っている場合じゃないだろ。このぐらいでへこたれるなよ。だいたい――」

 リンが怒り出した、その矢先だった。

 クニカたちの前方から、大きな音がした。続いてアスファルトが軋み、二人を揺さぶる。

「何っ?!」

「シッ! クニカ、静かにしろ!」

 打ち棄てられた屋台の裏にクニカを追いやると、リンはそこから身を乗り出して遠くを眺めた。金色の瞳で、リンは注意深く一点を見つめている。クニカもその方角へ目を凝らしたが、遠くをはっきりと見ることはできなかった。

「――行こう」

 リンは何かを確認したらしい。クニカの手を取ると、広場を迂回して路地へと入っていく。

「『行こう』って、どこへ?」

「隠れるんだよ、もっと静かにしろ。……人がいたんだ。男が二人だ」

 「人」という単語を聞き、クニカの気持ちがはずむ。

「でも、どうして隠れる必要が――」

「ばか。知らない奴らに目をつけられたらまずいだろ。何されるか分かんないんだぞ。ギャングだったら――」

 その途端、リンはくぎ付けにされたかのごとくその場に立ち止まった。リンの背後を歩いていたクニカは、前方に目を向けてぎょっとする。

 リンが目撃しただろう男たちが、二人の前に立ちはだかり、道を塞いでいた。

「よぉ、じょうちゃんたち、元気か? 怪我は無いようだな?」

 男の一人、背の高い方が二人に呼び掛ける。男は全体的にやつれ、くすんだ身なりだが、目だけがやけにぎらついていた。

 リンは黙ったまま、クニカを守るようにしてその前に立った。

「まったく、とんでもないことになっちまったもんだよな? 嬢ちゃんたちも逃げてるところだろ?」

「――そこ退いてくれないか?」

「待った、待ってくれ。まぁ、嬢ちゃんたちが警戒するのもムリは無いわな。こいつなんか、どう見たってごろつきだからな」

 背の高い男が、相方を顎で示した。もう一人はすんぐりむっくりしており、やはり胡散臭げだった。男たちは愛想笑いを浮かべたが、リンは相変わらずむすっとしたままだった。

 クニカは固唾を呑んで成り行きを見守っていたが、緊張のあまり心臓が飛び出してしまいそうだった。

「だけどよ、ものは相談ってヤツだ。オレたちのダチのために、力を貸してやって欲しいんだ」

「ダチ……?」

「そうだ。こっから少し行った先に、仲間が一人いるんだ。今、そいつは傾いた鉄骨の下敷きになって、わんわん泣きわめいてるんだがよ、そいつを助けるために、嬢ちゃんたちの助けがいるんだよ」

(何でわたしたちなんだろう……?)

 クニカは疑問に思った。鉄骨をどけるのならば、女より男の方が助けになるはずだ。

「何でオレたちに頼むんだ?」

 まったく同じことを、リンも考えていたらしい。

「男の方が力があるだろ?」

「いや、そうじゃないんだ。鉄骨だけだったら、オレたちだけでもなんとかなる。けどよ、ワイヤーが絡まっちまって、びくともしねぇんだ。でも嬢ちゃんなら――、いや、嬢ちゃんの持っている魔法銃なら、ワイヤーが焼ききれると思うんだよな、だろ?」

 背の高い男の呼び掛けに、もう一人の男がうんうんと頷いてみせる。二人の視線は、リンのリュックサックの脇にある魔法銃に注がれていた。

 リンの発した小さな舌打ちが、クニカの耳にも届く。リンが男たちを観察していたように、男たちも二人のことを抜け目なく見ていたらしい。

「――報酬はなんだ?」

「報酬? ――あぁ、いい質問だ! 街を練り歩いているうちに、オレたちは食品工場を見つけたんだ。缶詰が大量に残っている。それこそ、オレたち三人じゃ食いきれないほどにな。もし助けてくれたんならば、その缶詰の三分の一……いや、半分! 半分やってやってもいい。な、どうだ? わるい話じゃないだろ?!」

 男たちとリンとを、クニカは代わる代わる見つめる。この申し出を受け入れるか否かで、リンは迷っている様子だった。まだリンは半信半疑なのだろう。

 リンの胸の辺りに、黄色いもやもやが見える。迷いの感情は、クニカには黄色く見えるようだ。

「――わかった」

 とうとうリンが口を開いた。

「おお、そうだ! そうこなくっちゃ」

「――ただし条件がある」

 というと、リンはクニカのズボンに手を突っ込んだ。

「うひゃっ?!」

 クニカはまぬけな声を発したが、リンはどこ吹く風だった。クニカの背中側に、リンはさりげなくナイフを渡し込んだのである。

「この子はオレの連れだ。この辺りに不慣れだから、彼女をちょっとばかり案内してやってほしいんだ。現場に行くのは、オレともう一人とで十分――そうだろ?」

 リンは話すかたわら、「用心しろ」と言わんばかりに、クニカの背中を何度も叩いた。

 男たちは互いに顔を見合せ、クニカたちを見ながら何かを呟いていた。だが考えがまとまったのだろう。背の高い方が両手を広げて歓迎のポーズをとった。

「あぁ、いいさ。分かったぜ。オレが大きい嬢ちゃんを――」

「“リン”だ」

「オーケー、リンの方を案内する。で、オレの相棒がリンの連れっ子の相手をするからよ。……もちろん、変なところに連れ込んだりはしねぇよ、だろ? 相棒!」

 相方のずんぐりむっくりした方は、仕切りにうなずいて見せた。

「決まりだな。この子はクニカっていうんだ。変な真似をしたら承知しないからな。だろ?」

「う、うん……」

 心細げに、クニカはリンの瞳をのぞいた。この男たちのことを、リンは全く信じていない様子だった。

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