第5話:僕って何?(Что Я ?)

――すべてを知り己れに欠けたる者、すべてに欠けたる者なり(全てを知っておきながら自分を知らない者は、全てを知らない者同然である)。

『トマスによる福音書』、第67節

 床はコンクリートに覆われている。寝心地は最悪で、クニカはなかなか寝つけなかった。

 クニカの頭の中では、リンの説明が渦を巻いていた。

 現れた巨人は何者か?

 巨人は、なぜクニカを針で刺したのか?

 クニカは、どうしてこの世界に降り立ったのか?

 そしてなぜ、クニカは女の子になっているのか?

 この“キリクスタン”という世界には、魔法が存在するらしい。

 この世界には、“巫皇ジリッツァ”とやらがいるらしい。

 そしてこの世界は“黒い雨ドーシチ”とやらでぐちゃぐちゃになっている。

 ここの世界の住民は、なぜかロシア語を話している。

 そしてここの世界は、熱帯に位置しているようだ。

 建物を見るかぎり、それなりの文明はある。ただ、21世紀の日本ほどではない。それこそ東南アジアの国のごとく、開発途上かもしれない。この異世界にあるかもしれないほかの国には、更に発展した国があるのかもしれない。

 クニカはうっすらとまぶたを開けた。膝の辺りに、コンクリートとは違う感触があった。クニカはそれを拾ってみる。

(これは……?)

 暗闇の中で、クニカはそれの形を手で探る。不意に差し込んできた雷で、クニカの手元が明るく照された。

 握っていたのは、ハガキ大のカードだった。黄ばんではいるものの、何を書き込むことはできそうだ。

(そうだ)

 木箱に手を伸ばすと、クニカは鉛筆を探り当てた。さっそく、クニカは目を凝らして、カードにメッセージを書きつけようとする。クニカが書こうとしているのは、自分についての情報だった。もちろん、地球にいたときの情報である。

 名前:加護原カゴハラ 国香クニカ

 性別:男

 年齢:16歳(20XX年10月22日生まれ)

 住所:〒x3x-x05x、S県K…市○-○-○

 所属:私立O…高等学校普通科特進コース

 暗いせいで、手元はよく見えなかった。指先の感覚だけを頼りに、クニカは何とかそこまで書き付ける。

 しかし、更に情報を書き出そうとして、クニカははたと鉛筆を止めた。次に何を書くべきか――それがクニカには分からなかったのだ。

(なにか……他に書くべきこと……)

 ひねり出そうとすれば、書くことは幾らでもありそうだった。好きな食べ物、所属している部活動、得意科目、趣味、かわいいと思う女の子のしぐさ――。

 しかし、そんなことを書いてどうするのだろう? そうしたことは、大切な紙の余白を埋めてまでして、書くべきことなのだろうか?

 今書いてみたことだって、書くに値するほどのことだったのだろうか? 今書いた内容は、名前さえ取り換えてしまえば、誰にだって当てはまる内容ではないだろうか?

 そう考えると、クニカはもう少しもカードを書くことができなかった。自分が何のために生きているのか、クニカにはそれが分からなかった。

 走馬灯に投影された自分の過去を思い出し、クニカの心は沈む。クニカが世界から消え去ったとしても、それは時間の描く大きな弧のうちの、ちょっとした線の振動に過ぎないのではないか? あるいは稲妻を受けて震える、わずかな空気中の水分に過ぎないのではないか?

 それらの現象は、確かに存在しているかもしれない。しかし、誰からも顧みられることが無ければ、それは存在していても、存在していないも同然である。

 稲妻のどよめく音が、遠くから聞こえてきた。音に呼応するように、傍らにいたリンが寝返りを打った。

(でも……しまっておこう)

 カードを折りたたむと、クニカはそれを尻ポケットにしまいこんだ。鉛筆を木箱の上に戻すと、クニカは再び横になる。今は、余計なことを考えるべきではないように、クニカには感じられた。

 程なくして、クニカは眠りに落ちた。

◇◇◇

 眠っている間、クニカは夢を見た。転生する前の夢である。

 自宅のリビングで、クニカはテレビを見ていた。放映中のニュースが、フィリピンで発生した暴風雨について解説していた。

――このような異常気象も、地球温暖化が要因なのでしょうか?

 女性キャスターが、気象予報士に質問を投げかけている。

――それも要因の一つですが、最大の要因としては、赤道付近から北上する季節風が挙げられるでしょう。

 女性キャスターの質問を、アナウンサーはやんわりと修正した。それに続けて、

――実はですね。もし地球の地軸が傾いていなかったとしたら、赤道は、ちょうど日本列島の真下に来るんですよ。

 と付け加えた。

(違う)

 クニカは思った。地軸が傾いていなかったら、赤道は日本の真下になど来ない。それどころか、赤道は日本から、更に遠ざかっていたことだろう。

 ちょうど地学の授業中に、同じ話題を聞いたことがある。地軸が傾いていなければ、春分や、秋分のときと変わらない季節が、永遠に繰り返されていたはずだ。

――へぇ、そうなんですか。

――そうなんですよ。意外でしょう?

 クニカの思いとは裏腹に、誰も間違いを指摘することのないまま、ニュースは続いた。「意外でしょう?」と口にしたときの解説者のしたり顔が、クニカには妙に鼻についた。

「違うってば――!」

 クニカが声を荒げた矢先、テレビの画面が、ふいに切り替わった。

 次に映し出されたのは、桑の葉だった。葉の中腹にはかいこがいて、一心不乱に葉をむさぼっている。

 クニカは、虫が嫌いだった。しかし、このときばかりは、テレビに釘付けになってしまった。

 風の音を除き、スピーカーから、ほかの音は聞こえてこない。不安になったクニカは、テレビに顔を近づけた。風の音に混じって、別の音が聞こえてくる。クニカが聞き入っているうちに、その音は大きくなっていく。一定のリズムを刻んでいる、湿った音。――それは、かいこが桑の葉をかじる音だった。

 音が最も大きくなった瞬間、かいこ口吻こうふんを動かすのをやめる。鎌首をもたげると、かいこはクニカの方を見た。かいこに目など無いのに、クニカはかいこと視線が交わったような気がした。

 言い知れぬ不安を感じ、クニカはかいこから視線をそらす。それでもかいこは、ずっと頭をクニカへ向けている。クニカは、足元がざわつく感じがした。ふくらはぎの辺りが、ざわざわしている。それに、とてつもなくかゆい――。

◇◇◇

「おい、起きろ!」

 リンの声に、クニカは跳ね起きる。眠たい目をこすり、リンに視線を投げかける。木箱の上にはランタンがあり、煌々こうこうと灯っていた。リンの胸の辺りには、赤いもやもやが立ち込めている。

「リン?」

「虫、虫!」

「……虫?」

「バカ! お前の足――」

 “足”と言われた瞬間、クニカをむずかゆさが襲ってきた。

「――ふわぁっ?!」

 ふくらはぎに視線を落とし、クニカは悲鳴を上げる。両脚のふくらはぎを、小さな白い虫たちが埋め尽くしていた。虫たちはクニカの身体を這い、更に登ろうとしている。

 立ち上がると、クニカは足にたかる虫をはたいた。虫たちはクニカから転げ落ち、そそくさと退散する。傍らではもう一方の群れが、リンの持っていた地図に群がっている。リンは地図の表面を払うと、落っこちた虫をかかとで踏み潰している。

 ほのめくカンテラの明かりを受けて、虫の正体が明らかになる。

「シロアリだ……」

「シロアリ?」

 クニカはうめいた。小学生の夏休みに、祖父母の家で偶然シロアリの群れを見かけたことがある。

「なぁクニカ、シロアリって食えるのか?」

 聞き捨てならないセリフが、クニカの耳に届く。奥歯を噛み締め、クニカはすばやくリンに振り向いた。リンはクニカが答えるのを待っている。残念なことに、リンは正気のようだ。

「ううん。毒があるから食べれない。お腹こわすよ」

 本当は、毒があるかどうかなんて分からない。だがもしバカ正直に「分からない」とでも言ったらどうなるか?

「そうか。まぁ、すり潰しておだんごにして、燻製くんせいにでもすれば食えるだろう。よしクニカ、一緒に捕まえてすり潰そう!」

 などと、リンは平気で言いそうな雰囲気だった。

「なんだ、そうなのか。……くそっ。残念だな」

(ざ、ザンネン……?)

「クニカ、虫の出どころを探そう。そこを塞ぐんだ」

「無駄だよ、リン。シロアリって何でも食べちゃうから」

「なんだよ、クソッ! せっかく人が気持ちよく寝てたのに……」

 拳を握りしめると、リンが地団駄を踏んだ。リンの足元で、シロアリたちが踏み潰されてゆく。

 クニカはシロアリたちを見つめていた。どこから入り込んだかは分からないが、部屋は惨憺さんたんたる有様だ。一刻も早く部屋を抜け出したかったが、外に飛び出すのはもっと危険だ。

(シロアリなんて、いなくなっちゃえばいいのに)

 クニカは心の中で吐き捨てた。

 そのとき、

「――うわっ?!」

 隣でリンが声を上げる。続けざまに、ランタンが強い光を発した。眩しさに、クニカも目をつぶる。光は収まり、消えてしまう。辺りが真っ暗になった。

「ううっ……まったく」

 鼻をすすりながら、リンがランタンに火をつけなおす。強い光を見ると、リンはくしゃみが出る体質のようだ。

「――あれっ?」

 不思議そうに、リンが部屋を見渡している。

「どうしたの?」

「虫がいないぞ」

「え?」

 クニカも周囲を見回してみた。リンの言うとおり、あれだけ部屋を埋め尽くしていたはずのシロアリたちが、影も形もない。

「なんだよ、クニカ。何かしたのか?」

「えっ……わたし?」

「そうだよ。おかしいだろ? ……魔法でも使ったのか?」

「魔法って……。わたし、そんなの使えないよ」

 クニカは真面目に答えたつもりだったが、リンは鼻を鳴らした。

「バカ言え……って、お前記憶が無いんだよな、そういえば」

「あ、うん……そう」

「ハァ、参ったな」

 リンがうなじの辺りをいた。リンの長いポニーテールが揺れて、ランタンに映し出される影が震える。

「まぁいいさ。いなくなったんだし」

 二人は再び眠りについた。シロアリが消えたのはクニカにとっても不思議だったが、深く考える暇もなく、クニカはすぐに睡魔に襲われた。

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