――総てを知り己れに欠けたる者、統てに欠けたる者なり(全てを知っておきながら自分を知らない者は、全てを知らない者同然である)。
『トマスによる福音書』、第67節
床はコンクリートに覆われている。寝心地は最悪で、クニカはなかなか寝つけなかった。
クニカの頭の中では、リンの説明が渦を巻いていた。
現れた巨人は何者か?
巨人は、なぜクニカを針で刺したのか?
クニカは、どうしてこの世界に降り立ったのか?
そしてなぜ、クニカは女の子になっているのか?
この“キリクスタン”という世界には、魔法が存在するらしい。
この世界には、“巫皇”とやらがいるらしい。
そしてこの世界は“黒い雨”とやらでぐちゃぐちゃになっている。
ここの世界の住民は、なぜかロシア語を話している。
そしてここの世界は、熱帯に位置しているようだ。
建物を見るかぎり、それなりの文明はある。ただ、21世紀の日本ほどではない。それこそ東南アジアの国のごとく、開発途上かもしれない。この異世界にあるかもしれないほかの国には、更に発展した国があるのかもしれない。
クニカはうっすらと瞼を開けた。膝の辺りに、コンクリートとは違う感触があった。クニカはそれを拾ってみる。
(これは……?)
暗闇の中で、クニカはそれの形を手で探る。不意に差し込んできた雷で、クニカの手元が明るく照された。
握っていたのは、ハガキ大のカードだった。黄ばんではいるものの、何を書き込むことはできそうだ。
(そうだ)
木箱に手を伸ばすと、クニカは鉛筆を探り当てた。さっそく、クニカは目を凝らして、カードにメッセージを書きつけようとする。クニカが書こうとしているのは、自分についての情報だった。もちろん、地球にいたときの情報である。
名前:加護原 国香
性別:男
年齢:16歳(20XX年10月22日生まれ)
住所:〒x3x-x05x、S県K…市○-○-○
所属:私立O…高等学校普通科特進コース
暗いせいで、手元はよく見えなかった。指先の感覚だけを頼りに、クニカは何とかそこまで書き付ける。
しかし、更に情報を書き出そうとして、クニカははたと鉛筆を止めた。次に何を書くべきか――それがクニカには分からなかったのだ。
(なにか……他に書くべきこと……)
ひねり出そうとすれば、書くことは幾らでもありそうだった。好きな食べ物、所属している部活動、得意科目、趣味、かわいいと思う女の子のしぐさ――。
しかし、そんなことを書いてどうするのだろう? そうしたことは、大切な紙の余白を埋めてまでして、書くべきことなのだろうか?
今書いてみたことだって、書くに値するほどのことだったのだろうか? 今書いた内容は、名前さえ取り換えてしまえば、誰にだって当てはまる内容ではないだろうか?
そう考えると、クニカはもう少しもカードを書くことができなかった。自分が何のために生きているのか、クニカにはそれが分からなかった。
走馬灯に投影された自分の過去を思い出し、クニカの心は沈む。クニカが世界から消え去ったとしても、それは時間の描く大きな弧のうちの、ちょっとした線の振動に過ぎないのではないか? あるいは稲妻を受けて震える、わずかな空気中の水分に過ぎないのではないか?
それらの現象は、確かに存在しているかもしれない。しかし、誰からも顧みられることが無ければ、それは存在していても、存在していないも同然である。
稲妻のどよめく音が、遠くから聞こえてきた。音に呼応するように、傍らにいたリンが寝返りを打った。
(でも……しまっておこう)
カードを折りたたむと、クニカはそれを尻ポケットにしまいこんだ。鉛筆を木箱の上に戻すと、クニカは再び横になる。今は、余計なことを考えるべきではないように、クニカには感じられた。
程なくして、クニカは眠りに落ちた。
◇◇◇
眠っている間、クニカは夢を見た。転生する前の夢である。
自宅のリビングで、クニカはテレビを見ていた。放映中のニュースが、フィリピンで発生した暴風雨について解説していた。
――このような異常気象も、地球温暖化が要因なのでしょうか?
女性キャスターが、気象予報士に質問を投げかけている。
――それも要因の一つですが、最大の要因としては、赤道付近から北上する季節風が挙げられるでしょう。
女性キャスターの質問を、アナウンサーはやんわりと修正した。それに続けて、
――実はですね。もし地球の地軸が傾いていなかったとしたら、赤道は、ちょうど日本列島の真下に来るんですよ。
と付け加えた。
(違う)
クニカは思った。地軸が傾いていなかったら、赤道は日本の真下になど来ない。それどころか、赤道は日本から、更に遠ざかっていたことだろう。
ちょうど地学の授業中に、同じ話題を聞いたことがある。地軸が傾いていなければ、春分や、秋分のときと変わらない季節が、永遠に繰り返されていたはずだ。
――へぇ、そうなんですか。
――そうなんですよ。意外でしょう?
クニカの思いとは裏腹に、誰も間違いを指摘することのないまま、ニュースは続いた。「意外でしょう?」と口にしたときの解説者のしたり顔が、クニカには妙に鼻についた。
「違うってば――!」
クニカが声を荒げた矢先、テレビの画面が、ふいに切り替わった。
次に映し出されたのは、桑の葉だった。葉の中腹には蚕がいて、一心不乱に葉を貪っている。
クニカは、虫が嫌いだった。しかし、このときばかりは、テレビに釘付けになってしまった。
風の音を除き、スピーカーから、ほかの音は聞こえてこない。不安になったクニカは、テレビに顔を近づけた。風の音に混じって、別の音が聞こえてくる。クニカが聞き入っているうちに、その音は大きくなっていく。一定のリズムを刻んでいる、湿った音。――それは、蚕が桑の葉を齧る音だった。
音が最も大きくなった瞬間、蚕は口吻を動かすのをやめる。鎌首をもたげると、蚕はクニカの方を見た。蚕に目など無いのに、クニカは蚕と視線が交わったような気がした。
言い知れぬ不安を感じ、クニカは蚕から視線をそらす。それでも蚕は、ずっと頭をクニカへ向けている。クニカは、足元がざわつく感じがした。ふくらはぎの辺りが、ざわざわしている。それに、とてつもなく痒い――。
◇◇◇
「おい、起きろ!」
リンの声に、クニカは跳ね起きる。眠たい目をこすり、リンに視線を投げかける。木箱の上にはランタンがあり、煌々と灯っていた。リンの胸の辺りには、赤いもやもやが立ち込めている。
「リン?」
「虫、虫!」
「……虫?」
「バカ! お前の足――」
“足”と言われた瞬間、クニカをむず痒さが襲ってきた。
「――ふわぁっ?!」
ふくらはぎに視線を落とし、クニカは悲鳴を上げる。両脚のふくらはぎを、小さな白い虫たちが埋め尽くしていた。虫たちはクニカの身体を這い、更に登ろうとしている。
立ち上がると、クニカは足にたかる虫をはたいた。虫たちはクニカから転げ落ち、そそくさと退散する。傍らではもう一方の群れが、リンの持っていた地図に群がっている。リンは地図の表面を払うと、落っこちた虫をかかとで踏み潰している。
ほのめくカンテラの明かりを受けて、虫の正体が明らかになる。
「シロアリだ……」
「シロアリ?」
クニカはうめいた。小学生の夏休みに、祖父母の家で偶然シロアリの群れを見かけたことがある。
「なぁクニカ、シロアリって食えるのか?」
聞き捨てならないセリフが、クニカの耳に届く。奥歯を噛み締め、クニカはすばやくリンに振り向いた。リンはクニカが答えるのを待っている。残念なことに、リンは正気のようだ。
「ううん。毒があるから食べれない。お腹こわすよ」
本当は、毒があるかどうかなんて分からない。だがもしバカ正直に「分からない」とでも言ったらどうなるか?
「そうか。まぁ、すり潰しておだんごにして、燻製にでもすれば食えるだろう。よしクニカ、一緒に捕まえてすり潰そう!」
などと、リンは平気で言いそうな雰囲気だった。
「なんだ、そうなのか。……くそっ。残念だな」
(ざ、ザンネン……?)
「クニカ、虫の出どころを探そう。そこを塞ぐんだ」
「無駄だよ、リン。シロアリって何でも食べちゃうから」
「なんだよ、クソッ! せっかく人が気持ちよく寝てたのに……」
拳を握りしめると、リンが地団駄を踏んだ。リンの足元で、シロアリたちが踏み潰されてゆく。
クニカはシロアリたちを見つめていた。どこから入り込んだかは分からないが、部屋は惨憺たる有様だ。一刻も早く部屋を抜け出したかったが、外に飛び出すのはもっと危険だ。
(シロアリなんて、いなくなっちゃえばいいのに)
クニカは心の中で吐き捨てた。
そのとき、
「――うわっ?!」
隣でリンが声を上げる。続けざまに、ランタンが強い光を発した。眩しさに、クニカも目をつぶる。光は収まり、消えてしまう。辺りが真っ暗になった。
「ううっ……まったく」
鼻をすすりながら、リンがランタンに火をつけなおす。強い光を見ると、リンはくしゃみが出る体質のようだ。
「――あれっ?」
不思議そうに、リンが部屋を見渡している。
「どうしたの?」
「虫がいないぞ」
「え?」
クニカも周囲を見回してみた。リンの言うとおり、あれだけ部屋を埋め尽くしていたはずのシロアリたちが、影も形もない。
「なんだよ、クニカ。何かしたのか?」
「えっ……わたし?」
「そうだよ。おかしいだろ? ……魔法でも使ったのか?」
「魔法って……。わたし、そんなの使えないよ」
クニカは真面目に答えたつもりだったが、リンは鼻を鳴らした。
「バカ言え……って、お前記憶が無いんだよな、そういえば」
「あ、うん……そう」
「ハァ、参ったな」
リンがうなじの辺りを掻いた。リンの長いポニーテールが揺れて、ランタンに映し出される影が震える。
「まぁいいさ。いなくなったんだし」
二人は再び眠りについた。シロアリが消えたのはクニカにとっても不思議だったが、深く考える暇もなく、クニカはすぐに睡魔に襲われた。