“竜”のはらわたを覆う触手は、すべてが人間の手の形をしていた。クニカを引きずり下ろそうとする手もあれば、反対にクニカを引き上げようとする手もあった。
がむしゃらにもがきながら、それでもクニカは一歩一歩、着実に前へと進んでいった。疲れと、痛みとで、クニカの身体はとっくに限界を迎えていた。“竜”の心臓から響く鼓動だけが、クニカを前に進ませる原動力となっていた。
「リ……ン!」
無数の“手”をかいくぐって、クニカは心臓を支える腱の上にたおれ込んだ。張りつめた腱の先では、ぶら下がっている心臓が、不規則に脈打っていた。
「リン――!」
力と声とをふりしぼって、クニカはリンに近づいた。リンはさかさまになったまま、“竜”の心臓にへばりついていた。
「リン、聞こえる?!」
リンの耳元で、クニカは呼びかける。しかし見開かれたリンの瞳孔には、なんの光も宿っていなかった。
「ねぇリン! ……リンってば!」
リンの身体を抱きよせようとして、クニカは気づいてしまった。リンの背中が“竜”の心臓に張り付いているわけではないのだ。むしろリンの背中がやぶれ、肥大化し、それが“竜”の心臓を形作っているのだ。
「そんな……」
これでは、リンを引きはがすことなどできない。リンをはがしたら、“竜”は死ぬだろう。そしてそのとき、リンもまた命を落とすだろう。
祈れば助かるのだろうか? しかし、いったい何を祈ればよいというのだろうか? 「リンの身体がはがれますように」とでも、祈ればよいのだろうか?
(ちがう)
クニカはリンに、そんなことを言いに来たのではないのだ。
(……そうか)
クニカは悟った。クニカはここに、祈るために来ているわけではないのだ。リンに伝えたいことを、どうしても伝えたいことを、クニカは言いに来たのだ。
「――リン、」
クニカは、リンの名前を呼んだ。
リンからの返事はない。銀のロケットをたぐり寄せると、クニカはそれを、リンの手のひらに乗せ、上から自分の手をかぶせた。
「リン、その……ごめんなさい」
重ね合わせた手のひらに、クニカは自然と力を込めた。
「あのさ、リン。……わたし、リンのこと怒ってたよ? でもさ、……でも、でもね……」
クニカは大きく息を吸ってから、
「でもね、リン……あなたのこと、愛してる」
と言った。
うつろに見開かれたリンの瞳を、外からの陽射しが穏やかに照らした。
リンはクニカの内側に、リヨウの影を見ていた。もしかしたらリヨウこそが光であって、クニカはずっと影だったのかもしれない。
それが、クニカには苦しかった。自分の居場所が無いように、クニカには感じられたからだ。リヨウはクニカよりも頭がいいし、リヨウはクニカよりも気がきくし、リヨウはクニカよりも希望に満ち、いつだって前を向いていた。クニカがどれだけ努力しようとも、リヨウになることなどはできないだろう。
しかしそれは、当たり前のことなのだ。クニカはリヨウにはなれない。ちょうどリヨウが、クニカになれないのと同じように。クニカはヤンヴォイの街で、リンと同じ悲しみを悲しみ、べスピンの街で、リンと同じ恐怖を恐れた。ウルノワではリンが踏んだ影をクニカも踏み、このサンクトヨアシェでは、まさにリヨウの死を二人して死んでいる。――そうした経験のすべては、みなクニカでなければできないことなのだ。
クニカだって、リヨウと同じくらい、そしてリヨウとは違ったやり方で、リンのことを愛している。
リンのことを「愛している」と言える!
「リン……!」
リンの手を、クニカは握りしめる。
「ウルトラまで行こうよ……! 約束したじゃん……!」
うるさいくらいだった“竜”の鼓動が、次第に穏やかになってゆく。
「ウルトラに行ったら、リンのいとこに会わせてくれるんでしょ?! ――約束したじゃん!」
遠くで聞こえていた“竜”の咆哮も、いつしか聞こえなくなる。
「ナイフの研ぎ方教えてくれるんでしょ?! ねぇリン、約束したじゃない――!」
クニカが叫んだそのとき、“竜”の全身がぴたりと動かなくなった。まるで一瞬のうちに、氷漬けにでもされてしまったかのようだった。
しかし、クニカはそのことに、すぐには気づかなかった。
リンがクニカの手を、強く握り返してきたからだ。
「リン……!」
「クニカ……」
リンは泣いていた。
「なんでここにいるんだよ……ウルトラまで行けって言っただろ……ばかじゃないのか……」
「リンだって……リンだってそうじゃん……」
さかさまになったままのリンの身体を、クニカは抱きしめた。腕越しに伝わってくるリンの身体の重みが、次第に増していった。いびつに膨れ上がった心臓が溶け出して、リンの身体が解き放たれつつあったのだ。
抜け殻と化した“竜”の身体が、急速に朽ち果てていく。穴だらけだった“竜”の翼は、木々の上に覆いかぶさると、そのままオブラートのように溶けだし、消えてしまった。頭部はみずからの重さに耐えられなくなり、首ごともげて、川の中へところげ落ちる。はらわたの触手は硬直し、石灰と化し、クニカの目の前でこぼれ落ちていった。
「リン、行こう!」
足取りのおぼつかないリンを支えつつ、クニカは崩壊しつつある“竜”の身体から抜け出そうとする。
しかし二人の歩みよりも、“竜”の身体が腐っていく方が早い。すでに肉全体がゼリーのように柔らかく、太い骨も木切れのように砕けつつあった。
「リン、飛ぼう!」
意を決し、クニカはリンに呼びかけた。このままでは崩壊に巻き込まれ、クニカもリンも“竜”の腐った身体に押しつぶされてしまうだろう。
「え……?」
「飛ぼうよ、リン。……どうしたの?」
「オレは……」
口をつぐむと、リンは目を伏せた。ここでクニカも、リンが怯えていることに気づいた。列車で飛び立つことに失敗し、妹を喪った記憶が、いまだにリンを苛んでいるのだ。
ロケットを首から外すと、クニカはそれを、すかさずリンの手のひらに置いた。
「クニカ……?」
「一緒に飛ぶんだよ。リン、そうでしょ?」
ロケットの上からもう一度手を重ねると、クニカはリンの手をつよく握りしめた。
リンの唇が、かたく引きむすばれる。
「……わかった」
「リン、手を離さないでね」
「お前もな。――行くぞ!」
二人は同時に、ぽっかりと空いた竜のはらわたから、空へと一歩を踏み出した。“鷹”の魔法使いは空を統べる狩人。リンはみずからの翼をはためかせ、クニカはつないだ手を通じて、リンに魔力を送り込む。
“竜”の全身が森の奥で崩れ落ち、クニカたちの背後で恐ろしい地鳴りとなって響き渡った。しかし二人はもう、後ろをふり向いたりなどしなかった。二人の心は前を向いていたからだ。二人の心はすこやかで、たえまなく流動し、重力の制約を免れていた。二人の心をひきつけているのは、愛の死んだ世界ではないからだ。
――……
降りそそぐ太陽の光を全身に浴びながら、クニカとリンの二人は、そろってオミ川に着水した。水中から顔を出した二人を、チャイハネとシュムとがそれぞれ筏に引っ張り上げる。
「リン、久しぶりだな!」
チャイハネが、わざとらしく声を張り上げた。
「しばらく見てないから、死んじまったかと思ったんだけどな?! 調子はどうだい?」
「最高だよ、チャイ。『天にも昇れるくらい』さ」
「そうか? やったな! ハッハッハ――」
取り出したタバコを、箱ごとくしゃくしゃに丸めると、チャイハネはそれを川へぶん投げた。チャイハネは気分が高揚していて、自分でも何をやっているのかよくわかっていないようだった。
「クニカ……無事でよかったです」
クニカの右手を、シュムがいとおしげに撫でる。
「ありがとう、シュム。……シュムは平気?」
「ええ。ちょっと太ももにかすり傷ができてしまったんですが、これは後でクニカになめてもらえばきっと――」
「あ、ダメです」
「おーい! クニカー!」
ちょっと欲求不満げなシュムをさえぎって、カイが割り込んできた。
「カイ! 無事だったんだね?!」
「ん。カイ、あのくらいへっちゃらだゾ。――それと、ほら!」
焼き魚の串を、カイはクニカに手渡した。
「ありがとう、カイ!」
「ん。――リンも食べるゾ。ほら!」
「え……オレも?」
カイから受け取った焼き魚を、リンはほおばった。
「ん……おいしい」
「アハハ!」
リンの言葉を受けて、カイが朗らかに笑う。
何気なく川岸に目を向けたクニカは、そこで誰かが、自分に向かって手を振っていることに気づいた。
「ニコル!」
クニカは歓声をあげる。手を振っていたのは、ニコルに他ならなかったからだ。クニカが手を振りかえすと、ニコルは満足げな笑みを浮かべ、馬たちと一緒に森の中へと引き返していった。どこか良い場所を見つけ、ニコルは馬たちと一緒に暮らしていくのだろう。ニコルならば、きっとうまくやっていけるにちがいない――と、クニカはそう確信した。
「クニカー?」
「何でもないよ、カイ」
五人を乗せた筏は、順調に川の上を滑っていった。