第49話:ただ『愛している』と言ってください(Просто сказать:Я люблю тебя)

 “竜”のはらわたを覆う触手は、すべてが人間の手の形をしていた。クニカを引きずり下ろそうとする手もあれば、反対にクニカを引き上げようとする手もあった。

 がむしゃらにもがきながら、それでもクニカは一歩一歩、着実に前へと進んでいった。疲れと、痛みとで、クニカの身体はとっくに限界を迎えていた。“竜”の心臓から響く鼓動だけが、クニカを前に進ませる原動力となっていた。

「リ……ン!」

 無数の“手”をかいくぐって、クニカは心臓を支える腱の上にたおれ込んだ。張りつめた腱の先では、ぶら下がっている心臓が、不規則に脈打っていた。

「リン――!」

 力と声とをふりしぼって、クニカはリンに近づいた。リンはさかさまになったまま、“竜”の心臓にへばりついていた。

「リン、聞こえる?!」

 リンの耳元で、クニカは呼びかける。しかし見開かれたリンの瞳孔には、なんの光も宿っていなかった。

「ねぇリン! ……リンってば!」

 リンの身体を抱きよせようとして、クニカは気づいてしまった。リンの背中が“竜”の心臓に張り付いているわけではないのだ。むしろリンの背中がやぶれ、肥大化し、それが“竜”の心臓を形作っているのだ。

「そんな……」

 これでは、リンを引きはがすことなどできない。リンをはがしたら、“竜”は死ぬだろう。そしてそのとき、リンもまた命を落とすだろう。

 祈れば助かるのだろうか? しかし、いったい何を祈ればよいというのだろうか? 「リンの身体がはがれますように」とでも、祈ればよいのだろうか?

(ちがう)

 クニカはリンに、そんなことを言いに来たのではないのだ。

(……そうか)

 クニカは悟った。クニカはここに、祈るために来ているわけではないのだ。リンに伝えたいことを、どうしても伝えたいことを、クニカは言いに来たのだ。

「――リン、」

 クニカは、リンの名前を呼んだ。

 リンからの返事はない。銀のロケットをたぐり寄せると、クニカはそれを、リンの手のひらに乗せ、上から自分の手をかぶせた。

「リン、その……ごめんなさい」

 重ね合わせた手のひらに、クニカは自然と力を込めた。

「あのさ、リン。……わたし、リンのこと怒ってたよ? でもさ、……でも、でもね……」

 クニカは大きく息を吸ってから、

「でもね、リン……あなたのこと、愛してる」

 と言った。

 うつろに見開かれたリンの瞳を、外からの陽射しが穏やかに照らした。

 リンはクニカの内側に、リヨウの影を見ていた。もしかしたらリヨウこそが光であって、クニカはずっと影だったのかもしれない。

 それが、クニカには苦しかった。自分の居場所が無いように、クニカには感じられたからだ。リヨウはクニカよりも頭がいいし、リヨウはクニカよりも気がきくし、リヨウはクニカよりも希望に満ち、いつだって前を向いていた。クニカがどれだけ努力しようとも、リヨウになることなどはできないだろう。

 しかしそれは、当たり前のことなのだ。クニカはリヨウにはなれない。ちょうどリヨウが、クニカになれないのと同じように。クニカはヤンヴォイの街で、リンと同じ悲しみを悲しみ、べスピンの街で、リンと同じ恐怖を恐れた。ウルノワではリンが踏んだ影をクニカも踏み、このサンクトヨアシェでは、まさにリヨウの死を二人して死んでいる。――そうした経験のすべては、みなクニカでなければできないことなのだ。

 クニカだって、リヨウと同じくらい、そしてリヨウとは違ったやり方で、リンのことを愛している。

 リンのことを「愛している」と言える!

「リン……!」

 リンの手を、クニカは握りしめる。

「ウルトラまで行こうよ……! 約束したじゃん……!」

 うるさいくらいだった“竜”の鼓動が、次第に穏やかになってゆく。

「ウルトラに行ったら、リンのいとこに会わせてくれるんでしょ?! ――約束したじゃん!」

 遠くで聞こえていた“竜”の咆哮も、いつしか聞こえなくなる。

「ナイフの研ぎ方教えてくれるんでしょ?! ねぇリン、約束したじゃない――!」

 クニカが叫んだそのとき、“竜”の全身がぴたりと動かなくなった。まるで一瞬のうちに、氷漬けにでもされてしまったかのようだった。

 しかし、クニカはそのことに、すぐには気づかなかった。

 リンがクニカの手を、強く握り返してきたからだ。

「リン……!」

「クニカ……」

 リンは泣いていた。

「なんでここにいるんだよ……ウルトラまで行けって言っただろ……ばかじゃないのか……」

「リンだって……リンだってそうじゃん……」

 さかさまになったままのリンの身体を、クニカは抱きしめた。腕越しに伝わってくるリンの身体の重みが、次第に増していった。いびつに膨れ上がった心臓が溶け出して、リンの身体が解き放たれつつあったのだ。

 抜け殻と化した“竜”の身体が、急速に朽ち果てていく。穴だらけだった“竜”の翼は、木々の上に覆いかぶさると、そのままオブラートのように溶けだし、消えてしまった。頭部はみずからの重さに耐えられなくなり、首ごともげて、川の中へところげ落ちる。はらわたの触手は硬直し、石灰と化し、クニカの目の前でこぼれ落ちていった。

「リン、行こう!」

 足取りのおぼつかないリンを支えつつ、クニカは崩壊しつつある“竜”の身体から抜け出そうとする。

 しかし二人の歩みよりも、“竜”の身体が腐っていく方が早い。すでに肉全体がゼリーのように柔らかく、太い骨も木切れのように砕けつつあった。

「リン、飛ぼう!」

 意を決し、クニカはリンに呼びかけた。このままでは崩壊に巻き込まれ、クニカもリンも“竜”の腐った身体に押しつぶされてしまうだろう。

「え……?」

「飛ぼうよ、リン。……どうしたの?」

「オレは……」

 口をつぐむと、リンは目を伏せた。ここでクニカも、リンが怯えていることに気づいた。列車で飛び立つことに失敗し、妹を喪った記憶が、いまだにリンをさいなんでいるのだ。

 ロケットを首から外すと、クニカはそれを、すかさずリンの手のひらに置いた。

「クニカ……?」

「一緒に飛ぶんだよ。リン、そうでしょ?」

 ロケットの上からもう一度手を重ねると、クニカはリンの手をつよく握りしめた。

 リンの唇が、かたく引きむすばれる。

「……わかった」

「リン、手を離さないでね」

「お前もな。――行くぞ!」

 二人は同時に、ぽっかりと空いた竜のはらわたから、空へと一歩を踏み出した。“鷹”の魔法使いは空をべる狩人かりうど。リンはみずからの翼をはためかせ、クニカはつないだ手を通じて、リンに魔力を送り込む。

 “竜”の全身が森の奥で崩れ落ち、クニカたちの背後で恐ろしい地鳴りとなって響き渡った。しかし二人はもう、後ろをふり向いたりなどしなかった。二人の心は前を向いていたからだ。二人の心はすこやかで、たえまなく流動し、重力の制約を免れていた。二人の心をひきつけているのは、愛の死んだ世界ラヴ・アンダーグラウンドではないからだ。

――……

 降りそそぐ太陽の光を全身に浴びながら、クニカとリンの二人は、そろってオミ川に着水した。水中から顔を出した二人を、チャイハネとシュムとがそれぞれ筏に引っ張り上げる。

「リン、久しぶりだな!」

 チャイハネが、わざとらしく声を張り上げた。

「しばらく見てないから、死んじまったかと思ったんだけどな?! 調子はどうだい?」

「最高だよ、チャイ。『天にも昇れるくらい』さ」

「そうか? やったな! ハッハッハ――」

 取り出したタバコを、箱ごとくしゃくしゃに丸めると、チャイハネはそれを川へぶん投げた。チャイハネは気分が高揚していて、自分でも何をやっているのかよくわかっていないようだった。

「クニカ……無事でよかったです」

 クニカの右手を、シュムがいとおしげに撫でる。

「ありがとう、シュム。……シュムは平気?」

「ええ。ちょっと太ももにかすり傷ができてしまったんですが、これは後でクニカになめてもらえばきっと――」

「あ、ダメです」

「おーい! クニカー!」

 ちょっと欲求不満げなシュムをさえぎって、カイが割り込んできた。

「カイ! 無事だったんだね?!」

「ん。カイ、あのくらいへっちゃらだゾ。――それと、ほら!」

 焼き魚の串を、カイはクニカに手渡した。

「ありがとう、カイ!」

「ん。――リンも食べるゾ。ほら!」

「え……オレも?」

 カイから受け取った焼き魚を、リンはほおばった。

「ん……おいしい」

「アハハ!」

 リンの言葉を受けて、カイが朗らかに笑う。

 何気なく川岸に目を向けたクニカは、そこで誰かが、自分に向かって手を振っていることに気づいた。

「ニコル!」

 クニカは歓声をあげる。手を振っていたのは、ニコルに他ならなかったからだ。クニカが手を振りかえすと、ニコルは満足げな笑みを浮かべ、馬たちと一緒に森の中へと引き返していった。どこか良い場所を見つけ、ニコルは馬たちと一緒に暮らしていくのだろう。ニコルならば、きっとうまくやっていけるにちがいない――と、クニカはそう確信した。

「クニカー?」

「何でもないよ、カイ」

 五人を乗せた筏は、順調に川の上を滑っていった。

▶ 次のページに進む

▶ 前のページに戻る

▶ 『ラヴ・アンダーグラウンド』に戻る

▶ 連載小説一覧に戻る

▶ ホームに戻る

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする