第48話:彼女を怪物と呼べるか(Вы называете ее монстром)

なんじら我をもとむれども、我を見出さぬ日こそきたるなれ。

『トマスによる福音書』、第38-2節

「リン――!」

 リンの姿が、そこにはあった。リンの身体からだは、“竜”の心臓に埋没まいぼつし、鼓動こどうに合わせて、頼りなくゆらめいている。

「リ……ン!」

 声を張り上げようとしたクニカの口に、大量の水が押し寄せてくる。そしてとうとう、しがみついていた鉄パイプが折れ、クニカは、濁流だくりゅうの中へと投げ出されてしまった。

 岸へたどり着こうと、クニカは懸命にもがく。しかし、もがけばもがくほど、クニカの小さな身体からだは、木切れのようになって、渦の中へと呑まれてしまう。どちらが水面で、どちらが川底なのかさえ、いつしかクニカは分からなくなってくる。身体は上下左右に絶え間なくひっくり返され、全身は水にされ、鼓膜は痛くなる。

 息ができない、苦しい、助けて――。無我夢中で、クニカは手を伸ばした。

 その手を、誰かがつかむ。

(えっ……?)

 気付いたときにはもう、クニカは猛烈な勢いで、一定の方向へと導かれていた。三半規管のもつれがほどけてくるにつれ、クニカはようやく、自分が水面へ導かれつつあることを知った。

 水圧が減るにつれ、クニカの視界もはっきりしてくる。

(――カイ?!)

 声にならない声を、クニカは心の中でふりしぼった。クニカを導いていたのは、カイだった。クニカと手をつないだまま、カイは悠然と水の中を泳ぎ、クニカを水面まで引っ張ろうとしている。がれきや土砂が降ってくるせいで、水の流れは刻一刻と変化していた。しかしカイの泳ぎは止まらず、それどころかますます速くなっていった。まるで「水は自分の味方だ」と言わんばかりの泳ぎ方だった。そんなカイの姿を見て、クニカは自然と

 シャチ

 を連想する。

「――ぷはあっ?!」

 水面から顔を出すと、クニカは目の前の足場にしがみついた。足場は幅が広く、すでに先客が二人いた。

「ほら、クニカ、しっかりしろよ」

「大丈夫ですか、クニカ?!」

 チャイハネとシュムである。シュムがすかさずクニカの身体を筏まで引っ張り、チャイハネがクニカを楽な姿勢で横にさせる。

「チャイ……シュム……来てくれたんだ……」

「えぇ? 『来てくれたんだ』って、あたしもシュムも、キミに寝かされてたんだぜ?」

「もう、チャイ、クニカをいじめないであげてください」

 涙ぐんでいるクニカに対し、チャイハネもシュムもいつも通りの反応だった。

「おーい、クニカー、ダイジョウブかー?」

 何の予備動作もなしに、カイは水中から飛び出し、筏へと着地した。

「カイ、クニカなら平気だよ」

 クニカに代わって、チャイハネが答える。

「ちょっとした酸欠さ。だよな、クニカ?」

「――チャイ、見てください、あそこ!」

「え――?」

 一同は、シュムの指さす方角を見つめる。“竜”の身体は、基地全体を覆いつくしてしまうくらいに大きい。破壊しつくされた基地から、サリシュ・キントゥスの兵士たちが、散り散りになって逃げだしている。

 クニカたちの見ている前で、白い戦車が砲塔を回転させる。射出された砲弾が、がらんどうになった“竜”の腹部に着弾し、うごめいていた触手をなぎ払った。

 しかし、“竜”はびくともしない。戦車へ向けて長い首をのばすと、“竜”はくぐもった雄たけびをあげた。そしてそのふさがったくちばしが、腐った卵のようにはじけ飛ぶ。

「うわっ?!」

 次の瞬間には、まばゆい光線が発射され、戦車を横に薙いだ。クニカが目を開けたときにはもう、周囲は焼き尽くされ、肝心の戦車は跡形もなくなっていた。

「まずいな……ウルトラまで向かってる」

 双眼鏡を覗きながら、チャイハネが舌打ちした。クニカは息がつまる思いだった。あのような姿になりながら、そしてすべてを失いながら、それでもなお、リンはウルトラを目指しているのだ。

「シュム、“リン”の動きは見きれそう?」

「もちろんです」

 チャイハネの言葉に、シュムはこぶしをかざしてみせた。

「――チャイが手伝ってくれれば、の話ですけど」

「当たり前じゃん。でなけりゃあたし、何のためにいるんだよ」

 チャイハネはわざとらしく肩をすくめてみせる。

「カイ、隙を見つけてクニカを“リン”まで運んでほしいんだ」

「おーっ! カイ、いつでも平気だゾ!」

 いつもと変わらない調子で、カイは両手を振った。

「ま、そんなところだ、クニカ」

 チャイハネはクニカに向き直った。

「あとは任せていいよな、クニカ?」

 銀製のロケットを握りしめたまま、クニカはうなずいた。

――……

 筏が岸へたどり着くやいなや、シュムは一目散に駆け出した。訓練された者でなければ、誰もシュムの動きを追うことなどできないだろう。“豹”の魔法使いは速さが命。シュムはそれをもっともよく体現している。

 木の幹を駆け上ると、シュムは跳躍し、“竜”の膝まで肉薄する。クニカから借りたナイフを逆手に構えると、シュムは“竜”の膝を一直線に切り裂いた。狙い澄まされた、鋭くて重い一戦は、“竜”のゼリーのように柔らかい肉を裂き、腱を断ち切った。

 体勢をくずした“竜”が、視界の中央にシュムをとらえる。“竜”が牙を打ち鳴らした刹那、極太の熱線がシュムに殺到した。

 しかし、熱線がシュムの身体を舐めることはなかった。“竜”がいつシュムを見つけ、いつ襲いかかってくるのか――チャイハネは、その答えをすべて知っていた。“梟”の魔法使いは何でも知っていて、何でも理解できる。

〈カイ、今だ!〉

「おっしゃー!」

 チャイハネの共感覚テレパシーに呼応し、カイが大声で叫んだ。クニカを背負ったまま川に飛び込むと、カイは川の流れに逆らって、“竜”の側までばく進する。沈んだがれきも、水面で燃える油も、カイの泳ぎを止めることなどできなかった。“鯱”の魔法使いは水をゆりかごにし、海に君臨する。たとえ泳ぐ場所が川であっても、そこに違いはなかった。

〈クニカ、振り落とされるなよ〉

〈わかってる――〉

 カイにしがみついたまま、クニカもやはり共感覚テレパシーで、チャイハネに呼応する。激流に圧され、クニカは息つく暇もなかった。

 しかしクニカは、目だけはしっかりと見開いて、“竜”からは視線を外さなかった。水の中にいようとも、白日の下にいようとも、クニカは視線を、リンに注ぎつづけた。

 リンを怪物と呼べるか? ――あるいは他の人ならば、リンを怪物だと言うかもしれない。

「クニカ! 行くぞ!」

 いつになく真剣な声で、カイがクニカに叫んだ。

「わかった――!」

 クニカが返事をしたときにはもう、カイは水上へと飛び出し、中空で身を躍らせていた。シュムの攻撃で体勢を崩した“竜”。その懐が、クニカとカイの眼前で、ぽっかりと口を開けていた。

 あるいは他の人ならば、リンを怪物だと言うかもしれない。そしてその中の何人かは、リンの心の弱さを責めるかもしれない。

 しかし、その人たちは忘れている。弱さゆえに怪物になってしまう人が、この世界には存在するということを忘れている。そして誰しもが、心の内側に、目に見えないような小さな怪物を巣食わせているという、本当に大切なことを忘れているのだ。

(まずい、クニカ、飛ぶんだ!)

「えっ……?」

 チャイハネの共感覚テレパシーが、クニカの脳内にこだました。次の瞬間、“竜”のはらわたにうごめいていた触手が、一本の太い触手となって、クニカのもとへ殺到したのである。

「アハハ――!」

「カ、カイ?!」

 しかし、丸太のように太い触手が、クニカを薙ぐことはなかった。クニカの腕をつかむと、カイがすかさず、クニカのことを投げ飛ばしたからだ。

「カイ――!」

「クニカ!」

 “竜”のはらわたの中へ転がりこんだクニカは、すかさず立ち上がって後ろを振り向いた。推進力をうしなったカイは、そのまま川へと落下していく最中だった。

「ニンゲンを捕る漁師!」

 着水する間際、カイはそう叫んだ。カイの言葉を聞いて、クニカもはっとする。今は行かなくてはならない。そして人間を捕る漁師にならなくてはならない。“黒い雨”の降る世界で、自分の運命におぼれ続けているひとりの少女を、クニカは救ってあげなくてはならない。

 そしてそれは、クニカにしかできないことなのだ。

「リン……待ってて」

 銀製のロケットを握りしめると、クニカはただ一人で、“竜”のはらわたの中をよじ登っていった。

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