爾ら我を希むれども、我を見出さぬ日こそ来るなれ。
『トマスによる福音書』、第38-2節
「リン――!」
リンの姿が、そこにはあった。リンの身体からだは、“竜”の心臓に埋没し、鼓動に合わせて、頼りなくゆらめいている。
「リ……ン!」
声を張り上げようとしたクニカの口に、大量の水が押し寄せてくる。そしてとうとう、しがみついていた鉄パイプが折れ、クニカは、濁流の中へと投げ出されてしまった。
岸へたどり着こうと、クニカは懸命にもがく。しかし、もがけばもがくほど、クニカの小さな身体は、木切れのようになって、渦の中へと呑まれてしまう。どちらが水面で、どちらが川底なのかさえ、いつしかクニカは分からなくなってくる。身体は上下左右に絶え間なくひっくり返され、全身は水に圧され、鼓膜は痛くなる。
息ができない、苦しい、助けて――。無我夢中で、クニカは手を伸ばした。
その手を、誰かがつかむ。
(えっ……?)
気付いたときにはもう、クニカは猛烈な勢いで、一定の方向へと導かれていた。三半規管のもつれがほどけてくるにつれ、クニカはようやく、自分が水面へ導かれつつあることを知った。
水圧が減るにつれ、クニカの視界もはっきりしてくる。
(――カイ?!)
声にならない声を、クニカは心の中でふりしぼった。クニカを導いていたのは、カイだった。クニカと手をつないだまま、カイは悠然と水の中を泳ぎ、クニカを水面まで引っ張ろうとしている。がれきや土砂が降ってくるせいで、水の流れは刻一刻と変化していた。しかしカイの泳ぎは止まらず、それどころかますます速くなっていった。まるで「水は自分の味方だ」と言わんばかりの泳ぎ方だった。そんなカイの姿を見て、クニカは自然と
鯱
を連想する。
「――ぷはあっ?!」
水面から顔を出すと、クニカは目の前の足場にしがみついた。足場は幅が広く、すでに先客が二人いた。
「ほら、クニカ、しっかりしろよ」
「大丈夫ですか、クニカ?!」
チャイハネとシュムである。シュムがすかさずクニカの身体を筏まで引っ張り、チャイハネがクニカを楽な姿勢で横にさせる。
「チャイ……シュム……来てくれたんだ……」
「えぇ? 『来てくれたんだ』って、あたしもシュムも、キミに寝かされてたんだぜ?」
「もう、チャイ、クニカをいじめないであげてください」
涙ぐんでいるクニカに対し、チャイハネもシュムもいつも通りの反応だった。
「おーい、クニカー、ダイジョウブかー?」
何の予備動作もなしに、カイは水中から飛び出し、筏へと着地した。
「カイ、クニカなら平気だよ」
クニカに代わって、チャイハネが答える。
「ちょっとした酸欠さ。だよな、クニカ?」
「――チャイ、見てください、あそこ!」
「え――?」
一同は、シュムの指さす方角を見つめる。“竜”の身体は、基地全体を覆いつくしてしまうくらいに大きい。破壊しつくされた基地から、サリシュ・キントゥスの兵士たちが、散り散りになって逃げだしている。
クニカたちの見ている前で、白い戦車が砲塔を回転させる。射出された砲弾が、がらんどうになった“竜”の腹部に着弾し、うごめいていた触手をなぎ払った。
しかし、“竜”はびくともしない。戦車へ向けて長い首をのばすと、“竜”はくぐもった雄たけびをあげた。そしてそのふさがったくちばしが、腐った卵のようにはじけ飛ぶ。
「うわっ?!」
次の瞬間には、まばゆい光線が発射され、戦車を横に薙いだ。クニカが目を開けたときにはもう、周囲は焼き尽くされ、肝心の戦車は跡形もなくなっていた。
「まずいな……ウルトラまで向かってる」
双眼鏡を覗きながら、チャイハネが舌打ちした。クニカは息がつまる思いだった。あのような姿になりながら、そしてすべてを失いながら、それでもなお、リンはウルトラを目指しているのだ。
「シュム、“リン”の動きは見きれそう?」
「もちろんです」
チャイハネの言葉に、シュムはこぶしをかざしてみせた。
「――チャイが手伝ってくれれば、の話ですけど」
「当たり前じゃん。でなけりゃあたし、何のためにいるんだよ」
チャイハネはわざとらしく肩をすくめてみせる。
「カイ、隙を見つけてクニカを“リン”まで運んでほしいんだ」
「おーっ! カイ、いつでも平気だゾ!」
いつもと変わらない調子で、カイは両手を振った。
「ま、そんなところだ、クニカ」
チャイハネはクニカに向き直った。
「あとは任せていいよな、クニカ?」
銀製のロケットを握りしめたまま、クニカはうなずいた。
――……
筏が岸へたどり着くやいなや、シュムは一目散に駆け出した。訓練された者でなければ、誰もシュムの動きを追うことなどできないだろう。“豹”の魔法使いは速さが命。シュムはそれをもっともよく体現している。
木の幹を駆け上ると、シュムは跳躍し、“竜”の膝まで肉薄する。クニカから借りたナイフを逆手に構えると、シュムは“竜”の膝を一直線に切り裂いた。狙い澄まされた、鋭くて重い一戦は、“竜”のゼリーのように柔らかい肉を裂き、腱を断ち切った。
体勢をくずした“竜”が、視界の中央にシュムをとらえる。“竜”が牙を打ち鳴らした刹那、極太の熱線がシュムに殺到した。
しかし、熱線がシュムの身体を舐めることはなかった。“竜”がいつシュムを見つけ、いつ襲いかかってくるのか――チャイハネは、その答えをすべて知っていた。“梟”の魔法使いは何でも知っていて、何でも理解できる。
〈カイ、今だ!〉
「おっしゃー!」
チャイハネの共感覚に呼応し、カイが大声で叫んだ。クニカを背負ったまま川に飛び込むと、カイは川の流れに逆らって、“竜”の側までばく進する。沈んだがれきも、水面で燃える油も、カイの泳ぎを止めることなどできなかった。“鯱”の魔法使いは水をゆりかごにし、海に君臨する。たとえ泳ぐ場所が川であっても、そこに違いはなかった。
〈クニカ、振り落とされるなよ〉
〈わかってる――〉
カイにしがみついたまま、クニカもやはり共感覚で、チャイハネに呼応する。激流に圧され、クニカは息つく暇もなかった。
しかしクニカは、目だけはしっかりと見開いて、“竜”からは視線を外さなかった。水の中にいようとも、白日の下にいようとも、クニカは視線を、リンに注ぎつづけた。
リンを怪物と呼べるか? ――あるいは他の人ならば、リンを怪物だと言うかもしれない。
「クニカ! 行くぞ!」
いつになく真剣な声で、カイがクニカに叫んだ。
「わかった――!」
クニカが返事をしたときにはもう、カイは水上へと飛び出し、中空で身を躍らせていた。シュムの攻撃で体勢を崩した“竜”。その懐が、クニカとカイの眼前で、ぽっかりと口を開けていた。
あるいは他の人ならば、リンを怪物だと言うかもしれない。そしてその中の何人かは、リンの心の弱さを責めるかもしれない。
しかし、その人たちは忘れている。弱さゆえに怪物になってしまう人が、この世界には存在するということを忘れている。そして誰しもが、心の内側に、目に見えないような小さな怪物を巣食わせているという、本当に大切なことを忘れているのだ。
(まずい、クニカ、飛ぶんだ!)
「えっ……?」
チャイハネの共感覚が、クニカの脳内にこだました。次の瞬間、“竜”のはらわたにうごめいていた触手が、一本の太い触手となって、クニカのもとへ殺到したのである。
「アハハ――!」
「カ、カイ?!」
しかし、丸太のように太い触手が、クニカを薙ぐことはなかった。クニカの腕をつかむと、カイがすかさず、クニカのことを投げ飛ばしたからだ。
「カイ――!」
「クニカ!」
“竜”のはらわたの中へ転がりこんだクニカは、すかさず立ち上がって後ろを振り向いた。推進力をうしなったカイは、そのまま川へと落下していく最中だった。
「ニンゲンを捕る漁師!」
着水する間際、カイはそう叫んだ。カイの言葉を聞いて、クニカもはっとする。今は行かなくてはならない。そして人間を捕る漁師にならなくてはならない。“黒い雨”の降る世界で、自分の運命におぼれ続けているひとりの少女を、クニカは救ってあげなくてはならない。
そしてそれは、クニカにしかできないことなのだ。
「リン……待ってて」
銀製のロケットを握りしめると、クニカはただ一人で、“竜”のはらわたの中をよじ登っていった。