爾、栄光の裡に栄光となるべし。
『三体のプローテンノイア』、第20章
「クニカ!」
橋の下を飛び出し、最初の路地を曲がった途端、クニカは呼び止められた。
「シュム?!」
「クニカ――心配しましたよ」
近づくと、シュムはそっと、クニカの手を握り締めた。
「えっ……と、どうかしたの?」
「こっちのセリフです、クニカ」
シュムは上目づかいで、クニカにまなざしを送る。
「チャイから話は聞きましたよ?」
「う……」
シュムの口調はいつも通り丁寧だったが、語気は強かった。ばつが悪くなり、クニカはシュムから顔を背ける。それでも、シュムに手を握り締められているから、クニカはシュムから離れることができなかった。
「クニカ……そんな顔しないでください」
「ご、ゴメン……」
「――自分だけで何でも解決しようとしてはいけません」
「え――うわっ?!」
クニカの両手首を、シュムは引っ張る。よろめいたクニカの両肩に手を乗せると、シュムは諭すようにして言った。
「クニカ、一人じゃどうしようもないことだって、みんなで力を合わせれば、乗り越えられるんです。ウルノワにクニカたちが来てくれなかったら、私もチャイも死んでいたんですよ? 今度は私たちが、二人を助ける番です」
「シュム……ありがとう」
シュムの二の腕に、クニカも手を添えた。
「わたしさ……リンと、もう一度話をしようと思うんだ」
「いい考えです、クニカ」
「――あとさ、あのカイって子のことだけど……」
「クニカ、それは私にも協力させてください」
シュムはいたずらっぽく、クニカにウインクしてみせる。
「え、いいの?」
「もちろんです、クニカ。カイを放ってなんかおけません。チャイなら私がなんとか説得します」
「ホント?!」
「もちろんです、クニカ。チャイをその気にさせるのは、私の得意分野です」
猫のように目を光らせているシュムに対し、クニカはたじたじになった。シュムが「その気にさせる」とか言うと、ちょっとエロい。
「どうかしましたか、クニカ?」
「いや……何でもないです」
「それじゃ、行きましょう! 夜にぶらつくのは危険です」
クニカとシュムの二人は、並んで足早に“隠れ家”へと戻っていった。
夜のとばりが、サンクトヨアシェの街に下りつつあった。空に雲はない。そして、星の姿もなかった。
◇◇◇
「ただいまです、チャイ」
“隠れ家”の扉を開け放ち、シュムは言った。
「お帰り、シュム。――クニカもお帰り。気は済んだかい?」
背もたれに背を預けたまま、チャイハネはクニカに言った。頷きかけたクニカの鼻孔を、スパイスの香りがくすぐる。香草をまぶしたウサギの肉を、チャイハネは粥に混ぜたらしい。
「そのことですが、チャイ。話したいことがあるんです」
「あたしと?」
「そうです。クニカはクニカで、リンに話したいことがあるんです」
クニカとシュムの顔を代わる代わる見つめてから、チャイハネはフクロウのように首をかしげてみせた。
「なるほどね? まぁ、言いたいことは予想がつくけどね」
「本当ですか、チャイ?」
「何となく、だけどね」
「――チャイ、リンは……?」
「二階だよ」
腕組みをしたまま、チャイハネは顎で二階を示した。
「戻ったっきり、部屋から出てこない。ふさぎこんでるんじゃないかな?」
「――行ってくる」
肩をすくめているチャイハネを尻目に、クニカは二階へと駆け上がる。二階の廊下は静まり返っており、埃に覆われてうっそうとしていた。
「リン……?」
暗がりの中で、クニカはあちこちを見回してみる。リンは二階のどこかにいるはず。だから壁越しに“心の色”が見えるはず――そんなクニカの期待は、裏切られた。
手近にあるドアを開いて、クニカはかたっぱしからリンの姿を探す。書斎、物置、クロゼット――。開けられるところをしらみつぶしに開け放ったクニカだったが、リンの姿は影も形もなかった。
服の襟を、クニカはいつしか握りしめていた。と、そのとき。部屋の窓から、湿った風がかすかに吹き込んでくるのを、クニカは感じとった。クニカはそちらに目を向ける。中途半端に閉じられた窓の格子には、一枚の紙片がはさみ込まれていた。
すかさず窓辺に近づくと、クニカはその紙片を抜き取った。紙片に書かれた字を見て、クニカの全身が総毛だった。
《クニカへ》
手紙の冒頭は、そのような書き出しから始まっていた。
《お前には悪いことをした。悪いことをしたと、本気で思っている。オレはここを離れる。けじめはつけるつもり。探さないでほしい》
字は震えていたが、ちゃんと読むことができた。クニカのよく知っている、リンの文字だからだ。
◇◇◇
“隠れ家”へ戻るとき、雲はなかったはず。それなのに、自然は残酷だった。さきほどから降り始めた“黒い雨”はその強さを増し、今ではサンクトヨアシェの街を押し流さんばかりの勢いだった。虫の声も風の音も、今では雨音に塗りつぶされ、かき消えてしまっている。
リンの手紙を読み終えたあとも、チャイハネはしばらくの間黙ったままだった。そんなチャイハネに、クニカは視線を注ぐ。シュムはと言えば、そんな二人を不安そうに、交互に見つめるばかりだった。
「クニカ、」
一人言を呟くようにして、チャイハネがクニカに尋ねる。
「何を考えているのか、あたしとシュムに、分かるように説明して、ね?」
「リンを……助けに行く」
「どこに?」
「たぶん、基地へ行ったんだと思う。サリシュ・キントゥス人の」
「ダメだ」
「そんなこと……!」
そんなこと、チャイハネに決められたくはない――そう言いかけたクニカだったが、ただ黙って首を振るチャイハネを見ているうちに、言い返す勇気はしぼんでしまった。
「クニカ、リンの気持ちを汲んでやらないと……いや!」
唐突に言葉を切ると、チャイハネは椅子から立ち上がり、クニカに背を向けた。
「いや、違う、クニカ。そうじゃないんだ。今のは嘘だ。こんなときに嘘はつけない。だからはっきり言うよ――リンの気持ちなんかどうだっていい。ただあたしはクニカに危険な目に遭ってほしくないし、シュムにだってそうだし、あたし自身だってそうだ、って、ただそう言いたいだけなんだ」
「チャイ、いまの言葉は訂正してください」
チャイハネににじり寄ると、シュムはチャイハネの腕をつかんで、チャイハネを強引に正面へ向けさせた。そんなシュムの“心の色”は、真っ赤になっていた。シュムが怒っているのは、それも、チャイハネに怒っているのを見るのは、クニカにとって初めてだった。
「チャイがそんなことを言うのは嫌です」
「シュム……あたしがもうちょっと強ければ『リンを助けよう』って言えたんだよ」
詰問口調のシュムに対し、チャイハネは何かを切望しているかのように答えた。
「もしどうしてもって言うんなら……シュム、キミが残るんだ」
「――そんなのは、チャイのワガママです」
「どっちのワガママかな?」
チャイハネの問いに対し、シュムはうつむいただけだった。
「わたしだけ……」
服の胸元を、クニカは握りしめる。
「わたしだけでも……」
「話しただろ、クニカ? キミは“竜”の魔法使いだ」
「だったら、なおさら――!」
「ちがう。だからなおさら、キミはウルトラへ行くべきなんだ。ウルトラには巫皇がいる。彼女と力を合わせれば、“黒い雨”を止められるかもしれない。それでも……それでもどうしてもリンを救うんだって言うんなら、クニカ、選ぶんだ。リンを救うのか、世界を救うのか、って」
チャイハネの言葉に、クニカはすぐに答えることができなかった。鎧戸を叩く雨の音が、一層激しく三人の耳にこだました。
◇◇◇
サリシュ・キントゥス人は“竜”を探していた。リンはそのことを知っている。リンはサリシュ・キントゥス人のアジトへ向かった。「けじめをつける」と言い残して。
しかし、何の「けじめ」を? ――リンはきっと、みずからを“竜”と偽って、サリシュ・キントゥス人たちの前に出頭したのだろう。そうすれば、連中の注意はリンだけに向けられる。サンクトヨアシェからウルトラまでの道のりは、警備がゆるくなる。その合間をぬえば、クニカたちはやすやすとウルトラまでたどり着けるだろう。
「嫌だ――」
無意識のうちに発した自らのつぶやきで、クニカは目を覚ました。締め付けるような胸の苦しさから解き放たれると、クニカは額の汗をぬぐう。
三人の話し合いはまとまらないまま、翌日に持ち越しになった。打ちひしがれて横になっているうちに、朝を迎えつつあった。
こうしている間にも、リンはクニカから遠ざかっていく――。
そしてクニカは、唐突に気付いた、
「嫌」
なのだ、と。考えれば考えるほど、さまざまな感情がわだかまってくる。それでもやはり、リンがいないのは嫌なのだ。
チャイハネは言っていた。リンを選ぶか、世界を選ぶか、と。クニカはすぐに答えることができず、究極の選択の前で立ちすくんでいた。
けれども、それは当たり前のことなのだ。世界だけを選ぶことはできない――と同時に、クニカはリンだけを選ぶこともできない。リンのいる世界こそが、クニカにとっての全てなのだから。
雨どいを伝う水滴の音が途絶えた。
鎧戸のすき間から陽射しが差し込み、クニカの身体を照らし始める。
クニカは、立ち上がった。
覚悟はできていた。
(リン、待ってて――)
クニカの傍らでは、シュムが身体を丸めて眠りこんでいた。シュムはクニカのことを心配して、添い寝してくれていたのだろう。
「シュム……ありがとう」
小声でそう呟くと、クニカはシュムに対して
(眠れ)
と祈った。
しばらくの間、シュムは眠ったままでいてくれるだろう。クニカはうなずくと、そのまま静かに部屋を抜け出した。
階段を降りた先で立ち止まると、クニカはそっと居間をのぞき込んだ。居間ではチャイハネが、自分で作ったウサギ肉の粥を食べていた。
チャイハネは頭がいい。自分たちには何ができて、何ができないのかを、誰よりも分かっている。だからこそ、クニカを危険な目に遭わせたくないのだ。
そんなチャイハネの気持ちは、クニカにだって分かる。でも、できることの内側だけで、クニカは諦めたくなかった。できないと思っていたことが、本当にできないかどうか確かめるためには、やってみるしかない。
クニカにとって、今がその時だった。
「チャイ……ごめん!」
クニカはチャイハネに対し、シュムに祈ったことと同じことを祈る。
クニカの魔力を察知したのだろう。チャイハネは立ち上がると、辺りを見回そうと首を振った。しかし、クニカの姿を捉えるより前に、チャイハネは腰砕けのようになって、床に崩れ落ちた。クニカが近づいてみれば、チャイハネは静かに寝息を立てていた。
「ごめんね、チャイ。すぐ戻るから――」
もう一度、今度ははっきりした声でそう言うと、クニカは勝手口から外へ飛び出した。