「泉の四方に人数多在れど、泉の裡に人在らざるなり((主よ、)泉の周りには多くの人がおりますが、泉の中には誰もおりません)」
『トマスによる福音書』、第74節
勝手口から外へ飛び出すと、クニカはごつごつした斜面を下って、リンの後を追いかけた。
クニカたちが滞在している家屋では、裏に小川が流れている。ちょっとしたあぜ道を通り抜け、菩提樹の根がこびり着いた石畳を下っていけば、小川にはすぐにたどり着けた。
川の手前では、人影が膝をついていた。リンだ。クニカに背を向けたまま、リンは手を洗うことに没頭しているようだった。
木漏れ日に照らされて、川面を流れる石鹸の泡が、七色に光る。
「リン、」
「クニカ……?」
呼びかけを受け、リンが振り向いた。Tシャツの裾で、リンは濡れた手を拭き始める。リンに近づこうとして、クニカは一歩踏み出した。その拍子に、つま先が当たって、小さな石が川に落ちる。
「どうしたんだ?」
「いや……別に……」
リンに尋ねられ、クニカは口ごもってしまった。いざとなると、リンの目を正面から見据えるのは、クニカには難しかった。
「何だよ」
ハーフパンツのポケットに、リンは手を突っ込んだ。
「おい、クニカ。お前、ひょっとして寝ぼけてるんじゃないのか? あんまりボンヤリしてるんなら、オレが――」
「――ねぇ、リン」
リンの話を遮ると、クニカは拳を握りしめる。
「あのさ、リンの家族ってさ、その……どんな人たちだった?」
「――前にも話しただろ?」
咳払いをすると、リンは左手で額の汗をぬぐった。
「オヤジと、オフクロと、オレと……そんだけだ。オフクロはさっさと死んじまったけどな」
「……ホントに?」
クニカは別に、この質問でリンを追い詰めるつもりなどなかった。ただ率直に、リンに訊いてみたかっただけだった。
しかし、クニカがリンへ訊き返すまでには、ぎこちない間が開いてしまった。そして、その沈黙は、クニカが語った言葉よりも、はるかに多くを語っていた。
リンの顔色が変わる。一瞬何かを口にしかけてから、リンは後ろを向いてしまった。
取り乱しているリンを、クニカはただ見守った。いや正確に言えば、ただ見ていることしかできなかった。どんな言葉をリンにかければいいのか、クニカには分からなかったからだ。
ややあってから、リンはもう一度クニカの方を向いた。リンの表情はこわばっており、何より青ざめていた。
「――チャイハネだな?」
うなるようなリンの言葉に対し、クニカは首を横に振った。
しかし、クニカの仕草は、リンには見えていないようだった。
「『言うな』って言ったのに……!」
「ねぇリン、聞いて」
「アイツ……やっぱりぶん殴って……!」
「聞いてってば、リン!」
とっさにクニカは、リンの手首を掴んだ。掴んだ瞬間、リンの身体からだは、電撃でも浴びせられたかのように震えた。
驚いたのは、リンだけではなかった。氷のように冷たくなっているリンの肌に触れ、クニカもぎょっとしていた。
「リン、違うの」
「何が違うんだよ?」
リンの声はかすれて、ほとんど聞こえないくらいだった。
「夢で見たんだ、わたし。夢で、リンと……リヨウのこと」
クニカがリヨウの名を口にした瞬間、リンはクニカの腕を振りほどき、打ち捨てられていた木材の上に座りこんだ。
「疎開する途中だったんだよね、リン?」
頭を抱えたまま身じろぎしないリンに対し、クニカは話しかける。小川は底が浅い。その気になれば、向こう岸まで渡るのは簡単だろう。
ともすればリンは、不意に立ち上がって、川の向こうまで行ってしまいそうだった。クニカの手の届かない、深い陽射しの向こう側へと。それがクニカには、何よりも怖かった。
「前の列車が止まってて、リンの乗ってる列車がぶつかって、リンだけが助かって……それで、わたしを見つけた……そうだよね?」
――で、どうして川を流れてたんだ?
大昔にリンが尋ねてきたことを、クニカは記憶の中で反芻した。あのとき、リンはクニカのことを見つけた。他にも大勢、人の群れがオミ川を流れていた中で、リンはクニカを見つけた。生きていたのは、クニカ以外にもいたかもしれない。にもかかわらず、リンは”クニカを”見つけたのだ。クニカにとって、それは「見つけられた」というよりも、ほとんど「選ばれた」といったほうが正しいのかもしれない。どうしてクニカは選ばれたのだろうか? 何かの偶然だろうか? しかし偶然は、すでに二つ準備されていた。
リンの妹が死んでしまっていたこと。
クニカはリンの妹に、そっくりだったこと。
「リン……どうしてわたしのことを助けたの?」
リンからの返事はなかった。
「――わたしがリヨウに似てたから?」
「やめろよ……!」
リンの言葉が、クニカの心に突き刺さった。どうしてリンは「やめろ」と言うのだろうか。どうしてリンは「違う」と言ってくれないのだろうか。それは自分自身が抱えている欺瞞から、リンが顔を背けているからだ。だからリンは、クニカの言葉を拒むしかないのだ。
「――『やめろ』? どうしてリンにそんなこと言われなくちゃいけないの?!」
旅の間中ずっと、リンはクニカを見ていなかった。リンはクニカを通して、死んでしまった妹の面影を追い続けていたのだ。
妹に似てさえいれば、リンにとっては誰だって良かった。たとえその人物が、クニカではなかったにしても。
「リン……わたしなんかどうでも良かったの……?!」
「そうじゃない! クニカ……」
クニカの声に、リンは顔を上げた。
「そうじゃないんだよ……!」
「信じてたのに……!」
自分の足から力が抜けていくのが、クニカにはよく分かった。立っているだけで、今のクニカは精いっぱいだった。
クニカとリヨウは似ている。だけどリヨウは、クニカよりも利口だ。リヨウはクニカよりも気が利いて、クニカよりも前向きだった。
「――わたしはリヨウなんかじゃない!」
だからクニカは、リヨウになどなれない。クニカは、リンに対して叫んだ。息を切らしているクニカを、リンはただ茫然と見つめているだけだった。
「――もういい」
溢れてくる涙を腕でぬぐうと、クニカは小川へと足を踏み入れた。いまのクニカは、建物の中へ戻る気にはならなかった。
「どこ行くんだよ……?」
「……関係ないでしょ」
「待ってくれよ――!」
すかさず立ち上がると、リンはクニカの手を握りしめる。激昂がクニカを襲った。
「――ほっといてよ!」
リンの手を、クニカは乱暴に振りほどいた。姿勢をくずしたリンは、そのまま川のぬかるみに膝をついた。
クニカの首筋に、鈍い痛みが走る。銀製のロケットの鎖が、クニカのうなじに食い込んだのだ。
(こんなもの……!)
ロケットを外すと、クニカはそれをリンに投げつけた。ロケットはリンの真正面に落ち、川面にせり出した石に当たって、鋭い音を発した。
「あ……ぁ……」
向こう岸へとたどり着いたクニカの耳に、リンの嗚咽が響いてきた。ロケットを握りしめたまま、リンは服が濡れるのも構わず、川面に突っ伏して泣いていた。
それ以上リンのことを見ていられず、クニカは足早に小川から離れた。