第40話:アキレスと亀(Ахиллес и черепаха)

我に近き者は火に近し。我に遠き者は御国に遠し。

『トマスによる福音書』、第82節

「リヨウ、おい!」

 クニカは、じっと見ていた。

「返事しろよ、リヨウ……!」

 目を閉じたままの自分に向かって、リンが妹の名前で呼びかけている映像を、クニカはじっと見ていた。

「リヨウ――!」

(違う)

 クニカは思った。違う、わたしはリヨウじゃない、と。

 クニカがリンに名を名乗ったのは、もう少し後になってからのことだ。川からクニカを引き上げた後、リンはクニカを引っぱって、ヤンヴォイの街外れにあったショッピングモールまでたどり着いたのだろう。

 リンの記憶へと介入したクニカは、影像の傍観者として、リンとリヨウとの一部始終を見守っていた。リヨウを目の当たりにしたとき、クニカは世界全体がぐらついたかのような、途方もないめまいに襲われた。リヨウは、クニカにあまりにも似すぎていた。――いや、違う。クニカが、リヨウとあまりにも似すぎているのだ。

 少なくとも、リンの心の中では。

「リヨウ!」

「――やめて」

 リンの肩越しに、クニカは言い放った。リンの記憶に、クニカの声が届くことはない。仮に声を掛けられたとしても、いまのかすれたクニカの声では、リンの耳にはそよ風にしか聞こえないことだろう。

 それでも、クニカは口にせずにはいなかった。

「リヨウ――!」

「――わたしはリヨウじゃない!」

 そう叫んだ瞬間、オミ川のほとりの風景が、蒸気にさらされたかのように揺らいで、消えた。

◇◇◇

 気付いた時には、クニカは夢から覚めていた。見開かれたクニカの目に、天井のくすんだ黄色が飛び込んでくる。

「う……っ!」

 クニカは声を漏らすと、シャツの胸元をわしづかみにした。心臓が高鳴り、痛いくらいだったからだ。体にまとわりついていたタオルケットを投げ捨てると、クニカは上半身を起こし、弾んだ息を整える。背中は汗びっしょりになり、喉は渇ききっていた。

《――おい!》

 そのとき、リンのくぐもった声が一階から響いてきた。

《いつまで寝てるつもりなんだよ、アイツ。もう昼だぞ? いいかげん――》

 リンの言葉をさえぎって、別の声音が響いてくる。言葉こそくぐもっていて聞き取れないが、チャイハネが台所に立ちながら、何かを喋っているのだろう。

 立ち上がったクニカだったが、これからどうすれば良いのか分からなかった。その意味で、クニカはまだ悪夢から目覚めていなかった。よろいの隙間から漏れてくる陽射しは、いつものようにまぶしい。外から聞こえてくるセミのうなり声は、いつものようにうるさい。ところがクニカは、そうした身近なものを見ても聞いても、いつも通りでないような気がしてならなかった。

 いったい、どんな表情を作って、どんな言葉を選んで、クニカはリンに向き合えばいいのだろうか? この後、クニカは階段を降りるだろう。降りて、リビングにいるリンに

「おはよう」

 と言うだろう。リンは眉根を寄せて

「なにが『おはよう』だ、このばか」

 と言うだろう。きっと、クニカは何も言えない。代わりにチャイハネが取り繕ってくれるだろう。リンも

「まったく、たるんでるんじゃないのか?」

 とは言うものの、椅子に座って食卓に肘をついたきりで、ことさらクニカのことをなじったりはしないだろう。

 それで?

 その先は?

(その先は――)

 ここに来て、クニカは怖ろしい事実に気付いた。その先もずっと、他愛のない、しかしぞっとするような、幸福で不幸なやりとりが続くのだ。リンと共に生き続ける限りにおいて、永遠に亀を追い越すことのできない長距離走者のような孤独を抱えたまま、クニカはリンに接していかなければならないのだ。

 はたしてそのとき、クニカは本当の意味で生きていることになるのだろうか?

 クニカには、すぐにはその答えが出せなかった。

◇◇◇

「お、おはよう」

 一階へ降りたクニカは、意を決して口を開いた。クニカ自身は、自然と、それとない雰囲気を装って声を出したつもりでいたが、耳に入ってくる一音節一音節が、限りなく無様なように、クニカの耳には聞こえた。

 食卓で頬杖をついていたリンが、クニカの方を振り向いた。

「クニカ、」

 怒鳴られる――と肩をすくめたクニカだったが、リンは

「気をつけろよ。あんまり寝ると、夜に眠れなくなるんだからな」

 と言っただけだった。

 これまでのクニカだったならば、リンから怒鳴られずに済んで、ほっとしていたことだろう。しかし、今は事情が違った。リンの言葉の裏に、あり得ないほどの馴れ馴れしさが隠れていることを、クニカは敏感に察知した。今と同じような口調で、今と同じようなセリフで、リンは何度も、寝坊した妹をたしなめていたのだろう。

 しかしクニカは、リンの妹ではない。

「――あはん。そうだな、クニカ。リンの言うとおりだよな。ハハハ、参ったね?」

 チャオー(お粥のこと)を煮詰めていたチャイハネが、リンの言葉を受けて、乾いた笑い声を上げた。チャイハネはおどけていたが、「参ったね?」という最後の言葉に、チャイハネの本音の全てが詰まっているように、クニカには感じられた。クニカと同じように、チャイハネも、リンのおとなしさに不吉さを感じ取っているようだった。

「えっ、と……シュムは?」

「ここです、クニカ」

「――うわっ?!」

 耳元で発せられたシュムの声に、クニカは思わずのけ反った。朝一番に、シュムは外へと繰り出していたのだろう。シュムの額は汗ばんでおり、手には何かをぶら下げていた。

「シュム、それは――?」

「ウサギです、クニカ」

「う、ウサギ?!」

「お、やったじゃん、シュム――」

 チャイハネはシュムから、二羽のウサギを受け取った。黒いウサギと、白いウサギである。

「リン、ナイフ貸してくれよ」

「さばくのか?」

 ナイフを渡しつつ、リンがチャイハネに問うた。

「リンもやるか?」

「ああ」

「クニカは? やってみるか?」

「えっ? い、いや、エンリョしとく……」

 クニカが言い終わらないうちに、チャイハネの“心の色”が灰色にかげった。

(えっ? あ……)

 クニカも間もなく、自分の失敗に気付いた。クニカとリンが二人きりになれるよう、チャイハネは機会をうかがっているのだ。

「えっ、と、チャイ、わたしやっぱり――」

「しかしあれだな、リン、ウサギほど食われるために存在してる生き物はいないな?」

 まごついているクニカには目もくれず、チャイハネは慣れた手つきで、白いウサギをまな板にのせた。人の失敗をいちいちとがめたりしないのが、チャイハネのいいところだ。しかし、ここまで何ごともなかったかのように振る舞われると、かえってクニカは、心に穴が開いたような気分になってしまう。

「どうだか。ウサギをさばくのは初めてだから――」

「そうかい? じゃあ、まあ見てなって」

 ウサギの背中の皮をつまむと、チャイハネはそこにナイフを差しこんだ。できあがった切り口に親指を入れ、チャイハネはウサギの皮をはぐ。皮は靴下のようにすんなりとめくれ、すっかりはぎ取られてしまった。

「ほら、シュム、チャオーのこと見ててよ。焦げちゃうだろ? ――とまぁ、こんなカンジだ、リン。簡単だろ?」

「あぁ……かもな?」

 手際よくウサギの頭を切り取っているチャイハネに対し、リンは首をかしげたままだった。ぎこちなくナイフを逆手に構えると、黒いウサギの首筋に、リンはそっと切っ先をあてる。

「――こうか?」

「勇気出せよ、リン。手術オペじゃないんだから」

「んなこと分かってるさ――なんだよ、これ、切れないぞ?!」

「――シュム、見たかい? あたしの隣にいるヤツ、ウサギの首と喋ってるぞ? 暑さにやられちまったんだなァ、きっと。アッハッハ!」

「うるさいなぁ! こっちだって真剣に――うわっ?!」

 まな板に顔を近づけていたリンが、急にのけ反った。噴き出したウサギの血で、リンの腕が、肘まで赤黒く染まった。

「やっちまったな、リン」

「あー、最悪だ――」

 手についた血を振り落としながら、リンは台所を離れた。

「手、洗ってくる」

「リン、紙せっけん使いますか?」

 チャオーをつまみ食いしていたシュムが、ポケットから紙せっけんを取り出した。

「いいのか? ありがとう」

 投げ渡された紙せっけんのケースを掴むと、リンは裏口から外へと出ていってしまった。下った先にある小川で、リンは手を洗うつもりのようだ。

「クニカ、」

 成行きを見守っていたクニカに、チャイハネが声をかける。ウサギの内臓を切り取ると、チャイハネはそれをシンクの中に捨てた。

「行ってやれよ」

「あっ……!」

 チャイハネの言葉に合点がいったクニカは、ようやく台所を離れ、裏口からリンの後を追った。

▶ 次のページに進む

▶ 前のページに戻る

▶ 『ラヴ・アンダーグラウンド』に戻る

▶ 連載小説一覧に戻る

▶ ホームに戻る

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする