第39話:きっと良くなる(Все будет хорошо)

なんじら、眼前のせいある者を遺棄すてさり、死せる者を語るなり(お前たちは目の前にいた生きている者を捨て去り、死者について語った)。

『トマスによる福音書』、第56節

 両足に水の感触を覚え、リンは目を開けた。

「リヨウ?!」

 とっさに妹の名を叫び、リンは立ち上がろうとする。しかし、よろめいた拍子に、リンはぬかるみに足を取られ、後ろ向きに倒れ込んでしまった。泥水が鼻に入り、リンは咳き込む。

 リンが目を覚ましたのは、オミ川のほとりだった。

「リヨウ! どこだ?!」

 ずぶ濡れになったまま、リンは妹の名前を叫ぶ。川を見渡してみるものの、リンの呼びかけに反応するものはなかった。車両の残骸は、卵の殻のようにくしゃくしゃになっていて、川の中央部に突き刺さっている。列車の残骸を取り囲むように、無数の人々の亡骸が、油にまみれて重なっていた。

 と、そのときだった。河川敷に目を戻したリンの視界に、妹の姿が飛び込んでくる。

「リヨウ――!」

 リンは叫んだ。――いや、本当は叫んでなどいない。叫ぼうにも、声が出なかったのだ。妹の姿を目にしたと同時に、不安の塊に胸を押し潰され、リンは言葉に詰まってしまったのだ。

 うつ伏せになって倒れている妹のもとへ、リンは駆け寄った。リヨウはぐったりしていた。まぶたは小刻みにふるえ、口からはかすかな息が漏れている。

「あ……」

 リンの存在に気付き、妹は声をしぼり出した。

「あ……お姉……ちゃ……」

「リヨウ、しっかり――」

 妹を抱き起こすために、リンは妹の背中に腕を回そうとする。そのとき、リンの指先が、硬くてざらざらしたものにあたった。

 反射的に、リンは腕を引っ込める。リンの左腕は、妹の血で真っ赤に染まった。

「ウソだ……」

 妹の右のわき腹を、太い鉄骨が垂直に貫いていた。妹の存在に気を取られるあまり、リンは鉄骨の存在に気付かなかった。

「し、死にたくない……」

 かすれた声でつぶやくと、妹はリンの左手を握ろうとする。リンはと言えば、まるで奇妙なものでも見るかのようにして、ただ妹の顔を凝視することしかできなかった。リンの見ている最中にも、妹の肌は紙のように白くなり、唇はますます黒ずんでいった。

「し、しゃべるな、リヨウ……!」

 妹の差し出した手を握りしめながら、リンはかすれた声で言った。

「きっと良くなる、きっと良くなるから……!」

「死にたくない……」

 妹はうわごとのように、同じ言葉をくり返した。

「きっと良くなる」

 と、リンはそう言った。何を根拠にして、そんなことを言ったのか。それはリンにも分からない。むしろ「良くなる」のではなくて、「良くなってほしい」と、リンは願ったのだろうか? ――あるいは、そうかもしれない。

 だからリンは、川に広がりつつある妹の血をすくい取っては、妹の傷口に当てるという、理解しがたい行為をこうして続けているのかもしれない。この行為をやめてしまったら、自分自身が世界と切り離されてしまうのではないか――そんな漠然とした不安の中で、リンは一人溺れていた。しかし同時にリンは、この行為が「理解しがたい行為である」ということを、心のどこかで分かってしまっていた。分かっていながら、その分かっている内容について、分かっていないふりをしているのだ。

 これは愚かなことなのか? いつか、リンの見知らぬ誰かが、「愚かではないこと」を教えてくれるようになるのだろうか? そしてそれを学んだとき、リンは幸せになるのだろうか?

 そんなこと、リンには分からなかった。

「リヨウ……?」

 妹の目が閉じてしまっていることに、リンは気付いた。

「リヨウ……! おい、返事しろよ……!」

 妹の血と、砂利と、水とが混じった液体が、リンの手からこぼれる。

「リヨウ――!」

 妹の耳元で、リンはありったけの声をふりしぼった。しかし妹からの返事はなく、リンの叫びを妹が理解することもなかった。

 なぜなら、リヨウは死んでしまったからだ。

「あ……」

 右手を伸ばすと、堅く閉ざされた妹の口の中に、リンは自分の親指を押しこんだ。もう一度妹が、

「お姉ちゃん、」

 と、自分のことを呼んでくれるのではないかと、リンはそう期待した。妹の白い頬に、血と泥とがこびりつく。しかし、妹が口を開くことはなかった。

「神様……」

 妹の身体からだを抱きしめたまま、リンは泣いていた。足の震えが止まらない代わりに、リンは力いっぱい妹を抱きしめた。

 空は薄く曇り、太陽の光はまばらに拡散して、オミ川の川面を照らしだしていた。聞こえてくる音といえば、よどみなく流れる川のせせらぎと、燃えた油がかすかにはぜる音と、リンの嗚咽とだけだった。

◇◇◇

 火のついたマッチを、リンは瓦礫がれきの山へと放り投げた。瓦礫がれきの大半は列車の座席で、そのどれもが水を吸っていたが、こびりついた油のおかげで、たちどころにして巨大な炎の渦となった。

 瓦礫がれきの中心には、リンの妹が横たわっている。妹の亡骸は炎に包まれ、すぐに見えなくなってしまった。

 炎が消えて灰になる様子を、リンは立ち尽くしたまま、じっと見守っていた。

◇◇◇

 炎が尽きたのを見届けると、リンは灰の中へと分け入って、妹の骨を拾いはじめた。ところが、それらしきものを拾ってみても、リンの両手のひら収まるほどしか、骨のかけらは集まらなかった。

 ついさっきまで一緒だったはずの妹は、いまリンの手の中に収まる、わずかばかりの骨になってしまっている。そんな事実を目の当たりにして、リンの足はすくんだ。妹は死んでしまった。自分は生きている。この間には、薄いけれど深い断絶がある。列車から飛び立つ際に、リンがもっと勢いよく踏み切っていれば、もしかしたら妹は死なずに済んだかもしれない。――もっとも、その代わりに、リンが死んでいたかもしれないが。しかし妹が死ぬくらいだったならば、自分が死んでしまった方がマシなように、リンには思えた。むしろ、あまりにも多くの人が命を失っているわけである。その意味で、ほんとうに死んでしまっているのはリンの方ではないのか? ではリンは、妹と離ればなれになって良かったのか? ――そんなはずは断じてなかった。

 リンの頭は、無理やりにでも、妹が死んでしまったことの意味をこじつけようとする。しかしリンが考えれば考えるほど、「妹の死」という事実がくっきりと浮き出てしまった。

 両手ですくった骨と灰とを、リンはオミ川の中へと投じた。川の深い青の中に沈みこんで、妹の亡骸はリンの視界から消えていった。

 引き返してすぐ、リンは燃えかすの中に、白く光るものを発見した。近づいて拾ってみれば、それは妹の首にかかっていたはずの、銀製のロケットだった。留め金の部分は熱でよじれてしまっていたが、ほかに目だった傷はない。

 ふたたび川まできびすを返すと、リンはそれを川へ投じようとした。しかし投げ入れようと振りかぶった瞬間、握りしめたロケットの重みが、リンの心を迷わせた。このロケットを投げ捨ててしまったら、妹とのつながりが永遠に絶たれてしまうように、リンには思えたのだ。

「う……っ」

 不安と、悲しみとに押し潰され、とうとうリンは、その場に座りこんだ。

「リヨウ……!」

 あふれてくる涙をどうすることもできず、リンはひたすら泣くしかなかった。涙でかすむリンの視界には、ただオミ川の川面だけが映りこむ。オミ川は何ものをも拒まない。川面に浮かぶものが生者であっても、あるいは死者であっても。

 川の流れに沿って、西から東へ、死者たちが流されていく。ひときわ大きい板の周辺には、大量の死体が引っかかっていた。

 何ということもなく、ごく無意識のうちに、リンはその板の様子を目で追っていた。板の上に、あおむけに倒れ込んでいる死体がある。

 その死体は、リヨウとうり二つだった。

 前のめりになって、リンはその死体を凝視する。死体はリヨウとそっくりだった。ほとんど生き写しと言ってもいいくらいだ。違いと言えば、せいぜい髪の毛の色が違うくらいだ。いつしかリンは必死になって、その死体とリヨウとの違いを見つけ出そうとしていた。しかし、違いを見つけようと躍起やっきになればなるほど、ますますそっくりにリンの目には映る。

「リヨウ……?!」

 それがありえないことだということは、リンにだって分かっていた。それでもリンは、妹の名前を口に出さずにはいられなかった。そしてリンが妹の名を口にした瞬間、板に横たわっていた少女は寝返りをうち、そのまま川の中へとすべり落ちてしまった。

 そのときにはもう、リンは川の中へ飛び出していた。服は水を吸って重くなり、傷口には水がしみ込んで、刺すような痛みにかわる。それでもリンはもう、そんなことにはお構いなしに、ただひたすら泳いで、少女のもとに近づこうとしていた。がむしゃらに泳ぎ、口に水が入ることも構わず、とうとうリンは、少女のところまでたどり着いた。桃色の髪をした少女を、ほとんど宝物のようにして抱きかかえると、リンは半分おぼれかけながら、岸へと引き返していった。岸へとたどり着いたときにはもう、「あり得ない」などと思う気持ちは、リンの心の中からはすっかり消え去っていた。

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