斯くて、火と硫黄と瀝青とが、彼の者どもの上に投ぜらるるなり。
『アダムの黙示録』、第23章
熱風を肌に感じ、リンは目を覚ました。全身に痛みが走り、耳には轟音がこびりついている。
「あ……」
リンが搾り出した声は、たちどころにしてかき消えてしまった。周囲を悲鳴が覆い尽くしていた。列車は炎の塊となって、土手に転がっていた。リンの周りには、人々の欠片かけらが飛び散っていた。ついさっきまで列車の中でしかめっ面をしていただろう人たちが、今は無残に引きちぎられたまま、ぴくりとも動かない(その癖に、表情は眠るように安らかなのだ)。生き残った人たちは、ほうほうの体で逃げまどっていた。
リンの視界を横切った男性が、死体につまずいて転んだ。転んだ男性めがけ、人影が追いすがった。先に倒れていた男性の悲鳴が、唐突に途絶えた。入れ替わりに、肉を嚙む音が聞こえてくる。
痛みをがまんし、リンは後ずさった。男性の亡骸を抱きしめながら、コイクォイはその軟らかい喉元を食っていた。コイクォイの頭は透明で、結晶のように角ばった形をしており、奥の光景が透き通って見える。やがて男性の血が頭の中に充満すると、コイクォイの頭部は熟れたトマトのようになった。
そのときにはもう、リンは立ち上がり、逃げまどう群衆の中に駆け込んでいた。どうすればいいのかなど分からない。しかし、リンは
「リヨウ……?」
と、何とはなしに妹の名を口にした。そしてすぐに、リンはその言葉の重みに気付いた。
リヨウがいないのだ。
「リヨウ――うっ?!」
正面からやってきた男に突き飛ばされ、リンは水溜まりの中に倒れ伏した。リンの肘は砂利にまみれ、口の中に血の味が広がる。
身を起こしたリンの前方に、ひしゃげた車両の姿があった。それを見た瞬間、リンの全身を稲妻のようなものが駆け巡った。妹は、あの車両にいる――どういうわけかリンは、直観的にそう思った。
いったいなぜ、列車はこんな状態になっているのか――。リンにもその答えが、おぼろげながら分かってくる。
ただ脱線するだけなら、列車はつぶれたりなどしないだろう。リンたちを乗せた列車は、前の列車に追突したのだ。どうして追突したのか? ――前の列車が止まっていたからだ。
なぜ止まったのか?
「うわあっ?!」
その答えが、リンの真横から飛び出してきた。トウモロコシのような頭を持ったコイクォイが、リンに飛びかかってきたのだ。
前を走る列車の中には、“黒い雨”を浴びた人がいたのだ。その人はコイクォイに変貌し、周囲の人々に次々と噛みついた。噛みつかれた人たちもコイクォイになり、ついに列車は止まってしまったのだ。
「くっそ――」
腕を伸ばすと、リンはコイクォイの頭を押し戻そうとする。コイクォイも腕をばたつかせながら、リンの喉笛を食いちぎろうと歯を打ち鳴らした。コイクォイの頭からしたたり落ちた血と膿とが、リンの白いTシャツを汚す。
もがいた拍子に、リンのかかとが何かを蹴り飛ばした。蹴り飛ばされたものは音を立てて、中身を周囲にぶちまける。中身は、油だった。油に足をとられ、コイクォイの身体が浮いた。
「あっ?!」
ほんの一瞬の出来事だった。リンの突きだした右足が、バランスを崩したコイクォイの腹を突く。コイクォイは前のめりの姿勢のまま投げ出され、リンの頭上を通りぬけた。上下がさかさまになったリンの視界の真ん中で、地面にたたきつけられたコイクォイの頭が、直角に折れ曲がった。
「り、リヨウ!」
こと切れたコイクォイには目もくれず、リンは口の中に入りこんだ油を吐き捨てる。油の中をもがきながら、リンはやっとの思いで列車にたどり着いた。
砕け散った列車の窓から、リンは内部に侵入する。リンの手がガラスに引っかかった。親指の腹がやぶれ、こぼれた血が油に交じる。
列車の中は煙たく、じっとしていられないほど暑かった。ショートした配電盤が、断続的に火花を散らしている。あの火花を被ろうものなら、リンはたちどころにして炎に包まれ、焼け死んでてしまうだろう。
「待ってろよリヨウ……!」
しかし、危ないのはリヨウだって同じなのだ。瓦礫をかき分けながら、リンは奥へと進む。
「リヨウ?! 返事しろ!」
妹からの返事はない。内部は暗く、油の臭いと血の臭いとで、息が詰まりそうだった。“鷹”の魔法が威力を発揮するのは、明るい場所でだけだ。配電盤の火花程度では、リンの目にはまるで役に立たなかった。
それでも諦めず、リンは何度も妹の名を叫んだ。
「リヨウ!」
「――お姉ちゃん……」
とうとう、暗がりの向こうから声が響いてきた。
「リヨウ?!」
「お姉ちゃん……?」
折り重なった座席の残骸に、リンは身体をもぐりこませる。木切れがリンの肘にあたり、はみ出したネジがリンの肌を刺した。
それでもリンは、少しも痛みを感じなかった。奥にうずくまっている人影に、リンはやっとの思いで手を伸ばす。
「あぁ、リヨウ! よかった……」
「お姉ちゃん……」
妹のか細い肩を抱きよせると、リンはその頬に口づけをした。
「外に出るぞ!」
「待って……お姉ちゃん……」
リンの手を、リヨウは強く握り締めた。
「足……折れちゃったかも……」
「立てないのか?」
リンの質問に、リヨウは首を縦に振った。
「分かった、リヨウ。オレに掴まれ。ほら、」
リュックサックを前に背負うと、リンはリヨウの腕を持ち上げ、リヨウの身体を背中に乗せた。
「ガマンしろよ――」
「うん――」
「手ェ絶対に放すな――」
「分かった――」
リヨウを背負ったまま、リンはもと来た道を戻る。車内はさっきよりも暑い。金属製の手すりにつかまろうものなら、それこそ手がただれてしまいそうだった。
ほとんど這いつくばるようにして、リンは列車の外に出る。
「――お姉ちゃん!」
冷えた空気を全身に感じたかったリンだが、休んでいる暇などなかった。リヨウが悲鳴を上げたときにはもう、リンは反射的に前へと駆け出していた。
脱線した場所が最悪だった。林の側ならば、木々に隠れることだってできただろう。しかし、リンたちの目の前に広がっているのは、むなしい平野に過ぎなかった。隠れることも、避けることもできない。となればひたすら、前に進むしかなかった。
「お姉ちゃん!」
後ろから、リヨウの声が飛ぶ。
「何だ?!」
「あそこ! 見て!」
リヨウの指さす方角を見て、リンは目をみはった。横転している車両のひとつが、別の車両の上に、ほとんど直角に、しかも無傷のまま乗っかっている。
あそこに逃げこんで扉を閉めれば、もしかしたら助かるかもしれない。
痛みをこらえ、リンは車両の入り口までよじ登る。リンの背後では、コイクォイの悲鳴が渦を巻いていた。コイクォイが人を噛み、人はコイクォイとなって、また人を噛む――。無数に増えたコイクォイだったが、油のぬかるみを避けて走るだけの知恵はなかった。立ち上がることもままならず、多くのコイクォイたちは荒れ野を不規則に滑っていた。滑稽で、しかし不気味な光景だった。
「リヨウ、大丈夫か――?」
「待てっ」
上の車両に手をかけたそのとき、リンの頭上から、男の声が響いた。見上げたリンの眼前に、銃口が向けられている。黒い制服からして、男は列車の車掌だろう。
男の指が引金にかかった。それにつられ、銃の上部に取り付けられたカートリッジが回転する。“魔法銃”だ。
「お前……噛まれてないな?」
「車掌さん……頼むよ……!」
車掌の目は血走っており、鼻息は荒かった。背負われているリヨウが、苦痛のせいでうめき声をあげる。
リンの眉間から照準を離すと、車掌はリヨウに向かって銃を構え直した。
リンの全身が総毛だった。銃把を握る車掌の手は、小刻みに震えている。
「なぁ……落ち着けって……」
「俺は……俺は自分の見たものしか信じないぞ……!」
リンの額から汗が吹き出してくる。車掌を説得する暇はない。だからといって、引き返すわけにはいかない。
車掌をなぎ倒してでも中に入るか? それもあり得るだろう――リン一人だったならば。背中ごしに伝わってくるリヨウの重みが、リンの感情を抑制していた。
「せめて妹だけでも――」
……リンが口を開いたのと、リンの網膜が閃光を感じとったのとでは、いったいどちらが早かったのだろうか? リンにもその答えは分からない。しかしこれは、“鷹”の魔法がなせるわざだった。
光を感じ取った瞬間、リンは反射的に身をよじり、入り口付近に据えてある手すりに掴まった。
車掌とリンが言い争っている間にも、列車は少しずつ、ほとんど目では分からないほどの遅さで、油の中へと沈みこんでいた。押し潰された金属片が、ほんの小さな火花を立てる。たったそれだけでも、揮発した油を引火させるのには充分だった。
沸き起こった炎は、鞭のようなしなやかさで、リンたちへ殺到した。リンが感じとった閃光は、この炎が発した光の第一波だったのだ。
リンと車掌との違いといえば、段差の下にいるか、上にいるかということだけだった。しかし、そのわずかな違いが、二人の明暗を分けた。
悲鳴を上げると、車掌は握っていた魔法銃を取り落した。熱波は複雑な軌跡を描き、リンたちを飛び越え、車掌の目を一突きにしたのである。
「目が――!」
車掌が最期に言えた言葉は、たったこれだけだった。よろめいた拍子に足を踏み外し、車掌は燃え盛る油の海へと、真っ逆さまに墜落していった。
「登る……ぞ、リヨウ……!」
噴き出した火の手は、既にリンの足下をなめていた。足場に残された魔法銃を目ざとく拾い上げると、リンはさらに上へと登る。車内へ逃げこんだところで、蒸し焼きになるのは間違いない――リンはそう判断したためだ。
列車の屋根にたどり着くと、リンは周囲を見渡した。吹き寄せる熱風で、リンは今にも焼け死んでしまいそうだった。周囲は炎で光り輝き、太陽の方が薄暗く見えるほどだった。
取り残された――リンがその事実に気付くのに、時間はかからなかった。じきに列車は崩れ、二人は火の海に投げされてしまうだろう。しかしそれより先に、熱風に巻かれて死んでしまうかもしれない。
どうする? 熱風の中で、リンは目を細める。そのときリンは、立ち込める煙の奥、ちらつく炎の向こう側に、青く輝くものを見た。
リンの喉が鳴る。川だ。青々とした川面が、燃え盛る車両の向こう側に広がっている。この列車から飛び立ち、断崖を飛び降りれば、崖下を流れる川・オミ川までたどり着ける。
「飛ぶぞ、リヨウ――!」
リンは叫んだ。声は炎の前にかき消え、リヨウの耳には届いていないようだった。しかしリンの首に回したリヨウの腕が、リンの叫びに呼応するように、リンの身体を抱き締めた。
リンにはそれで充分だった。ありったけの声で叫ぶと、リンは自らの魔力を解き放った。背中の翼で熱風を帆のように抱え込みながら、リンは不安定な車両の屋根を、一歩一歩前へと駆け出していく。
爆発音とともに、リンの足元が揺らいだ。リンは足を取られかけて、一瞬その場に立ちすくんだ。
ほんの一瞬だけ。
しかし、なぜ止まったのか? ――そんなこと、リン自身にだってよく分かっていなかった。
次の瞬間にはもう、リンは足場を蹴って空中へと飛び出していた。最後の、そして最大の爆発が、二人を後ろから追いかけ、その身体を叩きつけた。
「リヨウ――?!」
とっさに振り向いたリンだったが、爆風は容赦なくリンの身体を弾き、川面まで吹き飛ばした。空気が熱すぎて、リンは息ができなかった。ところが今は、水のせいで息ができない――その事実に気付いたときにはもう、リンは完全に意識を失っていた。