第38話:なぜ止まったのか(Почему она остановилась)

くて、火と硫黄と瀝青れきせいとが、の者どもの上に投ぜらるるなり。

『アダムの黙示録』、第23章

 熱風を肌に感じ、リンは目を覚ました。全身に痛みが走り、耳には轟音がこびりついている。

「あ……」

 リンが搾り出した声は、たちどころにしてかき消えてしまった。周囲を悲鳴が覆い尽くしていた。列車は炎のかたまりとなって、土手に転がっていた。リンの周りには、人々の欠片かけらが飛び散っていた。ついさっきまで列車の中でしかめっ面をしていただろう人たちが、今は無残に引きちぎられたまま、ぴくりとも動かない(その癖に、表情は眠るように安らかなのだ)。生き残った人たちは、ほうほうのていで逃げまどっていた。

 リンの視界を横切った男性が、死体につまずいて転んだ。転んだ男性めがけ、人影が追いすがった。先に倒れていた男性の悲鳴が、唐突に途絶えた。入れ替わりに、肉を嚙む音が聞こえてくる。

 痛みをがまんし、リンは後ずさった。男性の亡骸を抱きしめながら、コイクォイはその軟らかい喉元を食っていた。コイクォイの頭は透明で、結晶のように角ばった形をしており、奥の光景が透き通って見える。やがて男性の血が頭の中に充満すると、コイクォイの頭部はれたトマトのようになった。

 そのときにはもう、リンは立ち上がり、逃げまどう群衆の中に駆け込んでいた。どうすればいいのかなど分からない。しかし、リンは

「リヨウ……?」

 と、何とはなしに妹の名を口にした。そしてすぐに、リンはその言葉の重みに気付いた。

 リヨウがいないのだ。

「リヨウ――うっ?!」

 正面からやってきた男に突き飛ばされ、リンは水溜まりの中に倒れ伏した。リンの肘は砂利にまみれ、口の中に血の味が広がる。

 身を起こしたリンの前方に、ひしゃげた車両の姿があった。それを見た瞬間、リンの全身を稲妻のようなものが駆け巡った。妹は、あの車両にいる――どういうわけかリンは、直観的にそう思った。

 いったいなぜ、列車はこんな状態になっているのか――。リンにもその答えが、おぼろげながら分かってくる。

 ただ脱線するだけなら、列車はつぶれたりなどしないだろう。リンたちを乗せた列車は、前の列車に追突したのだ。どうして追突したのか? ――前の列車が止まっていたからだ。

 なぜ止まったのか?

「うわあっ?!」

 その答えが、リンの真横から飛び出してきた。トウモロコシのような頭を持ったコイクォイが、リンに飛びかかってきたのだ。

 前を走る列車の中には、“黒い雨”を浴びた人がいたのだ。その人はコイクォイに変貌し、周囲の人々に次々と噛みついた。噛みつかれた人たちもコイクォイになり、ついに列車は止まってしまったのだ。

「くっそ――」

 腕を伸ばすと、リンはコイクォイの頭を押し戻そうとする。コイクォイも腕をばたつかせながら、リンの喉笛を食いちぎろうと歯を打ち鳴らした。コイクォイの頭からしたたり落ちた血と膿とが、リンの白いTシャツを汚す。

 もがいた拍子に、リンのかかとが何かを蹴り飛ばした。蹴り飛ばされたものは音を立てて、中身を周囲にぶちまける。中身は、油だった。油に足をとられ、コイクォイの身体からだが浮いた。

「あっ?!」

 ほんの一瞬の出来事だった。リンの突きだした右足が、バランスを崩したコイクォイの腹を突く。コイクォイは前のめりの姿勢のまま投げ出され、リンの頭上を通りぬけた。上下がさかさまになったリンの視界の真ん中で、地面にたたきつけられたコイクォイの頭が、直角に折れ曲がった。

「り、リヨウ!」

 こと切れたコイクォイには目もくれず、リンは口の中に入りこんだ油を吐き捨てる。油の中をもがきながら、リンはやっとの思いで列車にたどり着いた。

 砕け散った列車の窓から、リンは内部に侵入する。リンの手がガラスに引っかかった。親指の腹がやぶれ、こぼれた血が油に交じる。

 列車の中は煙たく、じっとしていられないほど暑かった。ショートした配電盤が、断続的に火花を散らしている。あの火花を被ろうものなら、リンはたちどころにして炎に包まれ、焼け死んでてしまうだろう。

「待ってろよリヨウ……!」

 しかし、危ないのはリヨウだって同じなのだ。瓦礫がれきをかき分けながら、リンは奥へと進む。

「リヨウ?! 返事しろ!」

 妹からの返事はない。内部は暗く、油の臭いと血の臭いとで、息が詰まりそうだった。“鷹”の魔法が威力を発揮するのは、明るい場所でだけだ。配電盤の火花程度では、リンの目にはまるで役に立たなかった。

 それでも諦めず、リンは何度も妹の名を叫んだ。

「リヨウ!」

「――お姉ちゃん……」

 とうとう、暗がりの向こうから声が響いてきた。

「リヨウ?!」

「お姉ちゃん……?」

 折り重なった座席の残骸に、リンは身体からだをもぐりこませる。木切れがリンの肘にあたり、はみ出したネジがリンの肌を刺した。

 それでもリンは、少しも痛みを感じなかった。奥にうずくまっている人影に、リンはやっとの思いで手を伸ばす。

「あぁ、リヨウ! よかった……」

「お姉ちゃん……」

 妹のか細い肩を抱きよせると、リンはその頬に口づけをした。

「外に出るぞ!」

「待って……お姉ちゃん……」

 リンの手を、リヨウは強く握り締めた。

「足……折れちゃったかも……」

「立てないのか?」

 リンの質問に、リヨウは首を縦に振った。

「分かった、リヨウ。オレにつかまれ。ほら、」

 リュックサックを前に背負うと、リンはリヨウの腕を持ち上げ、リヨウの身体を背中に乗せた。

「ガマンしろよ――」

「うん――」

「手ェ絶対に放すな――」

「分かった――」

 リヨウを背負ったまま、リンはもと来た道を戻る。車内はさっきよりも暑い。金属製の手すりにつかまろうものなら、それこそ手がただれてしまいそうだった。

 ほとんど這いつくばるようにして、リンは列車の外に出る。

「――お姉ちゃん!」

 冷えた空気を全身に感じたかったリンだが、休んでいる暇などなかった。リヨウが悲鳴を上げたときにはもう、リンは反射的に前へと駆け出していた。

 脱線した場所が最悪だった。林の側ならば、木々に隠れることだってできただろう。しかし、リンたちの目の前に広がっているのは、むなしい平野に過ぎなかった。隠れることも、避けることもできない。となればひたすら、前に進むしかなかった。

「お姉ちゃん!」

 後ろから、リヨウの声が飛ぶ。

「何だ?!」

「あそこ! 見て!」

 リヨウの指さす方角を見て、リンは目をみはった。横転している車両のひとつが、別の車両の上に、ほとんど直角に、しかも無傷のまま乗っかっている。

 あそこに逃げこんで扉を閉めれば、もしかしたら助かるかもしれない。

 痛みをこらえ、リンは車両の入り口までよじ登る。リンの背後では、コイクォイの悲鳴が渦を巻いていた。コイクォイが人を噛み、人はコイクォイとなって、また人を噛む――。無数に増えたコイクォイだったが、油のぬかるみを避けて走るだけの知恵はなかった。立ち上がることもままならず、多くのコイクォイたちは荒れ野を不規則に滑っていた。滑稽で、しかし不気味な光景だった。

「リヨウ、大丈夫か――?」

「待てっ」

 上の車両に手をかけたそのとき、リンの頭上から、男の声が響いた。見上げたリンの眼前に、銃口が向けられている。黒い制服からして、男は列車の車掌だろう。

 男の指が引金にかかった。それにつられ、銃の上部に取り付けられたカートリッジが回転する。“魔法銃”だ。

「お前……噛まれてないな?」

「車掌さん……頼むよ……!」

 車掌の目は血走っており、鼻息は荒かった。背負われているリヨウが、苦痛のせいでうめき声をあげる。

 リンの眉間から照準を離すと、車掌はリヨウに向かって銃を構え直した。

 リンの全身が総毛だった。銃把を握る車掌の手は、小刻みに震えている。

「なぁ……落ち着けって……」

「俺は……俺は自分の見たものしか信じないぞ……!」

 リンの額から汗が吹き出してくる。車掌を説得する暇はない。だからといって、引き返すわけにはいかない。

 車掌をなぎ倒してでも中に入るか? それもあり得るだろう――リン一人だったならば。背中ごしに伝わってくるリヨウの重みが、リンの感情を抑制していた。

「せめて妹だけでも――」

 ……リンが口を開いたのと、リンの網膜が閃光を感じとったのとでは、いったいどちらが早かったのだろうか? リンにもその答えは分からない。しかしこれは、“鷹”の魔法がなせるわざだった。

 光を感じ取った瞬間、リンは反射的に身をよじり、入り口付近に据えてある手すりにつかまった。

 車掌とリンが言い争っている間にも、列車は少しずつ、ほとんど目では分からないほどの遅さで、油の中へと沈みこんでいた。押し潰された金属片が、ほんの小さな火花を立てる。たったそれだけでも、揮発した油を引火させるのには充分だった。

 沸き起こった炎は、鞭のようなしなやかさで、リンたちへ殺到した。リンが感じとった閃光は、この炎が発した光の第一波だったのだ。

 リンと車掌との違いといえば、段差の下にいるか、上にいるかということだけだった。しかし、そのわずかな違いが、二人の明暗を分けた。

 悲鳴を上げると、車掌は握っていた魔法銃を取り落した。熱波は複雑な軌跡を描き、リンたちを飛び越え、車掌の目を一突きにしたのである。

「目が――!」

 車掌が最期に言えた言葉は、たったこれだけだった。よろめいた拍子に足を踏み外し、車掌は燃え盛る油の海へと、真っ逆さまに墜落していった。

「登る……ぞ、リヨウ……!」

 噴き出した火の手は、既にリンの足下をなめていた。足場に残された魔法銃を目ざとく拾い上げると、リンはさらに上へと登る。車内へ逃げこんだところで、蒸し焼きになるのは間違いない――リンはそう判断したためだ。

 列車の屋根にたどり着くと、リンは周囲を見渡した。吹き寄せる熱風で、リンは今にも焼け死んでしまいそうだった。周囲は炎で光り輝き、太陽の方が薄暗く見えるほどだった。

 取り残された――リンがその事実に気付くのに、時間はかからなかった。じきに列車は崩れ、二人は火の海に投げされてしまうだろう。しかしそれより先に、熱風に巻かれて死んでしまうかもしれない。

 どうする? 熱風の中で、リンは目を細める。そのときリンは、立ち込める煙の奥、ちらつく炎の向こう側に、青く輝くものを見た。

 リンの喉が鳴る。川だ。青々とした川面が、燃え盛る車両の向こう側に広がっている。この列車から飛び立ち、断崖を飛び降りれば、崖下を流れる川・オミ川までたどり着ける。

「飛ぶぞ、リヨウ――!」

 リンは叫んだ。声は炎の前にかき消え、リヨウの耳には届いていないようだった。しかしリンの首に回したリヨウの腕が、リンの叫びに呼応するように、リンの身体を抱き締めた。

 リンにはそれで充分だった。ありったけの声で叫ぶと、リンは自らの魔力を解き放った。背中の翼で熱風を帆のように抱え込みながら、リンは不安定な車両の屋根を、一歩一歩前へと駆け出していく。

 爆発音とともに、リンの足元が揺らいだ。リンは足を取られかけて、一瞬その場に立ちすくんだ。

 ほんの一瞬だけ。

 しかし、なぜ止まったのか? ――そんなこと、リン自身にだってよく分かっていなかった。

 次の瞬間にはもう、リンは足場を蹴って空中へと飛び出していた。最後の、そして最大の爆発が、二人を後ろから追いかけ、その身体からだを叩きつけた。

「リヨウ――?!」

 とっさに振り向いたリンだったが、爆風は容赦なくリンの身体からだを弾き、川面まで吹き飛ばした。空気が熱すぎて、リンは息ができなかった。ところが今は、水のせいで息ができない――その事実に気付いたときにはもう、リンは完全に意識を失っていた。

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