――如何か此の憐れむべき子らに、名と声とが有らざりしか(どうしてこの憐れむべき者たちに、名前と声とが存在しないのか)。
『真理の福音』、第13章
リンの眠りを妨げたのは、正面の座席から聞こえてくる、赤ん坊の泣き声だった。
まどろみの世界から一気に現実へと引き戻されたリンは、目を半眼に開いて赤ん坊を見る。ちょうどそのとき、列車全体が縦に揺れた。それにつられて、赤ん坊の泣き声も一段と鋭くなる。
「ウルセェだろ!」
奥の席に座っていた男性が、赤ん坊の母親に向かって怒鳴った。そして、続けざまに何かを口走った。リンの耳には
「さっさと黙らせろよ」
と言ったように聞こえた。他の乗客の耳にも、そのように聞こえたことだろう。
男の態度は間違っている、しかし、男の言ったことは正しい――そんな重苦しい雰囲気の中に、列車の乗客たちはみな沈み込んでいた。
母親は必死になって赤ん坊をあやしつけていたが、その眼は血走り、歯茎はむき出しになっていた。いたたまれなくなったリンは、そっと視線を下に落とし、ただ貧乏ゆすりをするしかなかった。
リンの靴に止まっていたテントウムシが、振動に耐えかねて飛び立っていく。
この場に留まり続けることの難しさを悟ったのだろう、赤ん坊を抱えたまま席を立つと、母親は扉の向こう側へと引き下がっていった。空いた席めがけ、立ちっぱなしだった男がすかさず座りこむ。男から漂ってくる汗のにおいで、リンは鼻が曲がりそうになった。
溜息をつくと、リンは額の汗をぬぐい、窓の向こうに目をやった。手入れされていないだろう水田に、手入れされていないだろう赤茶けたあぜ道――見えるものといえば、それくらいだ。
それでもたまに、窓枠の向こう側に民家が見えることがある。ほんの一瞬の光景だが、リンはそれを食い入るようにして見てしまうのだ。自分たちと同じように、生きている人がいるのではないか、かれらは“黒い雨”にもめげず、今までどおりの生活を営んでいるのではないか……と。その期待が満たされたことは、これまでに一度もなかった。“鷹”の魔法使いの傑出した視力は、朽ち果てた人間の亡骸か、頭の変形したコイクォイの姿を、嫌でも捉えてしまうのだ。
チカラアリの街に“黒い雨”が降り注いでから、今日で三か月になる。この三か月に何があったのか(あるいは、何がなかったのか)、リンは思い出したくもなかった。しかし、目を閉じるだけで、リンはその光景をまぶたの裏側に思い出してしまう。血みどろになった二輪乗用車、全身に火をまとったコイクォイの姿、叩き潰された屋台、周囲に散らばる泥だらけの紙幣――。過去が強烈なせいで、リンは未来を思い描くことができないでいた。
それでも、前に進まなくてはならない。だからこそリンは、こうして列車に乗ってじっとしているのだ。列車はやがて、リンをウルトラまで連れていってくれるだろう。ウルトラは安全だ。少なくとも、チカラアリよりは。ウルトラにたどり着けさえすれば、未来が開けてくる――列車に乗る前、リンは自分にそう言い聞かせていた。
しかし、列車はそんなリンの努力を、早くもくじけさせようとしていた。環境なんか、いくらでもがまんできる。――ハエがうっとうしいのなら、すかさず叩き込んで踏みつぶせばいい。汗臭いのが嫌ならば、鼻をつまめばいい。
しかし、いくら我慢してもどうにもならないことが、この世界には確かに存在する。リンの気持ちを滅入らせているのは、車内を覆い尽くしている、よどんだ空気だった。
よく言えば「にぎやか」、悪く言えば「うるさい」――それがチカラアリ人の持ち味だ。しかし、そんな持ち味は、列車の中ではなりを潜めていた。ムダ口を叩いていられるような状況でないことくらい、リンだって分かっている。分かってはいるけれど、リンは落ち着かなかった。髪の毛一本で吊るされた剣が、ずっと自分の頭の上にぶら下がっている――そんな連想をするたびに、リンは自分の二の腕を押さえて、鳥肌をなかったことにしようとするのだ。
くるしい、苦しい――。それでも今は、辛抱しなくてはならない。それは何も、リンのためだけではない。
「お姉ちゃん……大丈夫?」
隣に座っている少女に訊かれ、リンは言葉を返した。
「当たり前さ。リヨウ、気にするな」
――辛抱するのは、リンの妹・リヨウのためでもあった。
「大丈夫そうには見えないけどな?」
軽口を叩くと、黒くつぶらな瞳で、リヨウは姉の顔をのぞきこんだ。膝に乗せていたポーチからハンカチを取り出すと、リヨウはそれでリンの額を拭おうとする。
「いいよ、リヨウ、やめろよ――」
リンは手を伸ばすと、妹のやわらかいほっぺたを、ちょっとだけ押した。
「自分でできるよ、そんなこと」
「ううん。わたしがやる」
言っても聞かないリヨウに対し、リンは眉をひそめる。
「ばか、オレだって子供じゃないんだし――」
「もう、いいから!」
リヨウの声に、力がこもった。目玉だけを動かして、リンは周囲の様子を盗み見る。ちょっとでも騒がしくしようものなら、周囲の人を逆なでしてしまう。しかし、幸いなことに、二人をにらみつけてくるような人はいなかった。
リンは胸をなで下ろした。怒りの矛先が妹へ向かわなければ、あとはどうでも良かった。
「――分かったよ」
「ホント?!」
目を輝かせると、リヨウは持っていたハンカチを、リンの額に当てた。
体を寄せてきた妹の首には、銀製のロケットがぶら下がっている。揺れるロケットを見つめていたリンだったが、いつしか視線は、リヨウの顔へと移っていった。
「どうしたの、お姉ちゃん?」
移ろった姉の視線を、リヨウも敏感に察知したようだ。
「いや、なんか……お前も成長したんだなァ、って」
「成長、って……何それ」
リンの言葉に、リヨウははにかんだ。笑みをこぼすとき、リヨウはすこし頬をふくらませる癖があった。そんな仕草は、まだまだあどけない。
「そんなの、当たり前じゃない」
「そうだよな」
「――ねぇ、それよりも、気付いた? 冷たいのに」
「え……?」
「もうっ、鈍いなァ――」
リンの目の前で、リヨウはハンカチを広げてみせる。絞り染めのハンカチは、白い部分が複雑な文様を描いている。
「どう? これ、おまじないなの。『熱を吸い取ってくれる魔法陣だ』って、魔法学校で習ったのよ」
「そうなのか――」
手を伸ばすと、リンは文様に触れてみた。リヨウの言うとおり、確かにヒンヤリとして心地いい。
「すごいな……」
「でしょ?」
「参ったよ」
背もたれに背を預けると、リンは得意気な妹の表情を流し目で見やった。そして何気なく
「何だか……似てきたな」
と呟いた。
「“似てきた”?」
「母さんに、だよ。母さんに似てきた。あの人ってさ、すごい世話焼きで、近所でも評判だったんだから」
そんな“母さん”は、もうこの世にはいない。リンが物心つく以前、リヨウが生まれてすぐのときに、二人の母親は感冒にかかって亡くなってしまっていた。それでもリンが、生前の母親のことを生き生きと語ることができるのは、リンの近所に住んでいる、お喋りの好きなおばさんたちが話し込んでくれるからだ。
そんなおばさんたちも、みんな死んでしまった。
「ホント?! えへへ……」
母親の話を聞くやいなや、リヨウは照れくさそうに、目線を下にした。
「何だよ、リヨウ。ニヤニヤしちゃって」
「だって……うれしいんだもん。わたし、母さんのこと知らないし」
「そうか……そういうもんか」
座席の手すりに、リンは肘をつく。
「まぁ……とにかく、お前がちゃんと勉強できてるようで良かったよ」
リンは褒めたつもりだったのだが、リヨウからの返事はなかった。
「リヨウ?」
神妙な表情のまま、リヨウは唇を引き結んでいた。それを見て、リンの心はざわついた。チカラアリ人にしてはびっくりするくらい、リヨウは気が利いて、感情が細やかだった。それは姉であるリン自身が、一番よく分かっているつもりだった。
「どうしたんだよ? 言わなきゃ分かんないだろ?」
「じゃあ、言うけどさ、お姉ちゃん。あのさ、わたし――学校辞めようかな、って、思ってるんだよ」
リンが口を開く暇さえ与えず、リヨウは言葉を畳みかける。
「その……今は学校なんて行ってる場合じゃないしさ、他にもっと、やるべきことが――」
「――本気で言ってんのか?」
「ほ、本気よ? わたし」
「バカなこと言うのはよせよ」
リヨウの肩に、リンは手を乗せた。
「なぁリヨウ。オレも父さんも、お前が学校に行ってくれてるのを誇りに思ってるんだぞ? 分かってるだろ? そんなことぐらい。確かに今はヤバいけどさ、ウルトラに着いたらきっとうまくいく。だからお前は、ちゃんと勉強するんだ」
「でも――」
「いいか、リヨウ。お前はオレなんかよりも頭がいいし、気も利くし、それに器用だろ? もったいないんだよ。学校辞めるなんて」
「――お姉ちゃんだって、学校辞めたくせに」
「バカだな、オレのことはどうだっていいんだよ。お前はちゃんと学校に行け。姉ちゃんと約束しろ。いいな?」
「そんなのイヤ」
目を潤ませたまま、リヨウはかぶりを振った。
「お姉ちゃん、わたしだってお姉ちゃんの役に――」
「――聞分けのないこと言うなよ!」
妹の肩を握り締めたまま、リンは声を上げた。喉をついて自然と出てきた声だったが、その声の大きさに、リン自身が他の誰よりも驚いていた。
押し黙ってしまったリヨウの姿に、リンはいたたまれなくなる。ふと周囲の視線を感じ、リンは席に座りなおした。
息を押しとどめ、再び湧いてきた額の汗を、リンは手の甲でぬぐった。次の言葉を大人しく待っているリヨウに対し、リンは何も言えないでいた。
リヨウを怒鳴るつもりなど、リンにはこれっぽっちもなかった。
列車の揺れる規則的な音が、リンの耳に大きく響く。
雲間からはみ出た午後の太陽が、列車の中を静かに照らした。
「……あのさ、リヨウ」
言葉を慎重に選びながら、リンはリヨウに語りかける。
「オレはただ――」
それ以上の言葉を、リンは口にすることができなかった。
初め、何が起きたのか、リンは全く分からなかった。程なくして、音がしないことに気付いた。何の音が? レールを軋ませているはずの、車輪の音が、である。
そのことに気付いたときにはもう、リンの身体は、座席から宙に浮いていた。座ったままの格好で、リヨウも宙に浮いている。周囲の乗客も、みんなそうだった。
「リヨウ――!」
リンは叫んだ。いや、叫んだつもりになっただけかもしれない。窓ガラスが押し寄せ、列車全体が缶くずのように圧縮され、油の臭いに殴られ、……一瞬のうちに世界がひっくり返ったときにはもう、リンは完全に意識の向こうへと放り投げられていた。