彼は潤すために来る者なり、神の楽園を、続きゆく世代を。彼、かの世代の歩みを穢さぬ者なり。
『ユダの福音書』、第43頁
あの後どうなったのか? ――クニカには分からない。川へ吸い込まれる最中に、リンが
「クニカ!」
と叫んでいた気もするが、それもクニカの記憶の中では曖昧だった。
そもそも、あのときまだ異邦人たちは、二人のすぐ側にいたはずなのである。リンがうっかり叫ぶとは、クニカにはどうしても思えなかった。
「うーん……」
しかし、クニカの脳裏には、自分に向かって腕を差し伸べるリンの姿が焼きついている。自分の記憶は正しいのか、間違っているのか。それが分からなかったために、クニカはかゆい足を、靴の上から掻いている感覚だった。
もどかしいのは、それだけではない。今のクニカは、自分がどこにいるのかさえ、ちゃんと分かっていなかった。
周囲が暗いことが、その原因の一つだった。塗り潰されたように暗くなっているのは、“黒い雨”が降っているせいだ。日の光は遮られ、あまりの寒さに、クニカは終始身震いしっぱなしだった。クニカの吐いた息だけが、暗やみの中で白くほのめいた。この寒さは、部屋の中ではけっして体験できないだろう。
そして、この場所がどこか分からないことの原因は、それだけではなかった。クニカの足元では、先ほどからずっと、小刻みな振動が続き、水のうねる轟音が、辺りを埋めつくしていた。
にもかかわらず、クニカの身体は“黒い雨”から守られている。どうしてか。――クニカは腕を伸ばしてみた。肘が伸びきるよりも前に、クニカの手のひらが「屋根」に触れた。触れてみる限り、「屋根」は石でできているようだった。おまけに、カーブがかかっている。
と、そのときだった。体育座りをしていたクニカの正面に、突然人影が現れた。
「うおっ?!」
「うおーっ?!」
クニカの叫び声に呼応し、相手もまた声を発した。
「起きてる! アハハ、起きたぞ!」
ランタンを握り締めたまま、相手は長い腕を上げ下げして、喜んでいた。
灯りに切り取られ、クニカも相手の姿を見た。声が高いのは、相手もまた少女だからだ。少女の背は、クニカよりもずっと高い。もしかしたら、リンよりも高いかもしれない。少女の振り上げるランタンを見るために、クニカはほとんど、天井を見上げなければいけないくらいだった。
寒さのことなど、少女はまったく意に介していないらしい。少女は紺色のオーバーオールの下に、黒いシャツを着ていた。しかし、シャツの袖をまくっているせいで、少女の白い肩はむき出しだった。おまけにどういうわけか、少女はずぶ濡れだった。見ているだけで、クニカはくしゃみをしそうになる。
「えっと……あの……」
「わーい。ちゃんと起きたぞ。」
目を白黒させているクニカをよそに、少女はクニカの周りでステップを踏み始める。このときになって、クニカはやっと、あることに気付いた。少女の握るランタンには、火が灯っていないのだ。この明るさは、少女の“心の色”が、まぶしく輝いているせいだ。
「死んでなくて良かったぞ。カイ、人が死ぬのを見るの、ツライぞ。」
しみじみとした少女の言葉を聞いて、クニカも合点がいく。川へと投げ出され、意識を失っていたクニカを、この少女が引き上げてくれたのだ。
「えっと――カイ?」
「ん?」
試しに名前を呼んだクニカに対し、少女は――カイは、首を傾げてみせた。カイの長くて白い、透きとおった色の髪が、肩からこぼれた。
「あ、えっと、初めまして、だよね? わたし、クニカ」
「おーっ、クニカー!」
カイが万歳をする。
「何だか、ほんわかした名前だぞー。」
「そ、そうかな……? ――えっとさ、カイ、ここってさ、橋の下……だよね?」
「ん。」
クニカの傍らで胡坐をかくと、カイははにかんでみせた。年齢は、カイの方がクニカより上だろう。しかし、カイは人なつっこい印象だったから、クニカは物おじせずに話すことができた。
「カイは、ここで雨宿りしてたの?」
「んーん。」
「『んーん』?」
「ん。」
「え? どういうこと?」
「カイ、ここに住んでるぞ。ほら、あっち。」
ランタンに火を灯すと、カイはそれを掲げて、岸の向こう側を示した。向こう岸には、ちょっとした毛布や、ドラム缶や、新聞紙の束などが積み重なっている。
「もしかして、ずっとここに?」
透きとおった白い色の瞳を覗きつつ、クニカはカイに尋ねる。しかし、カイからの返事はない。
「――えっと、家族の人は?」
「んーん。」
「『んーん』?」
クニカは思わず、もう一度訊き返した。
「カイ、それってどういう――」
「どっか行っちゃったぞ。」
「どっか行っちゃ――」
カイの言葉を反芻しかけ、クニカは咳き込んだ。「死んでしまった」のならば、まだ分かる。しかし、「どっか行っちゃった」ということは、また別の意味を持つ。
(そういえば――)
のんきそうに鼻歌をうたっているカイの隣で、クニカは冷たい予感に身もだえしていた。思えば、リンの家族について、クニカはほとんど何も知らない。チャイハネとシュムの二人に至っては、どうしてあんなに深い仲になっているのかさえ、クニカには分からない。
足元を流れる川の轟音が、さっきよりも大きくなって、クニカの耳に響いた。
「じ、じゃあさ、カイ。あれだよね、さびしかった?」
「ん? ――ウーン……」
一定のリズムに従って、身体を左右に揺らしていたカイだったが、ここに来て、その動きがぴたりと止まってしまった。
銀製のロケットを握り締めつつ、クニカは息を殺してカイを見つめた。カイは、神妙な顔つきのまましばらくうなっていたが、やがておもむろに、
「ウーン……。――ワカンネ!」
と、とびきりの笑顔で答えた。
ロケットを握り締めていたクニカは、その答えを聞いてひっくり返りそうになった。
「わ、分かんない、ってさ……」
「ん。ワカンネ!」
「でも、自分のことじゃない?」
「ウーン……。――ワカンネ!」
同じ表情で、同じ返事を、カイはくり返す。クニカはここで、何かがおかしいことに気付いた。――いや、実際は薄々勘付いていたのだが、今のやりとりで、ある確信を抱いたのである。
「あのさ、カイ」
「ん?」
「カイってさ、その……他の人から『変わってるね』みたいなこと、言われたことある?」
「ウーン……。――ワカンネ!」
なるほど、カイには分からないかもしれない。しかしクニカには、その答えで十分だった。自分と他人との間に隔たりがあることに、カイは気付いていない。それどころか、自分がどのような立場に置かれているのかについてさえも、カイは分かっていないかもしれない。
この世の中で、カイは一人、他の人とは違う島にいる。
「カイ、その……ごめんね」
「『ごめんね』?」
「いや、だからその、変なこと訊いちゃって」
「『変なこと』?」
「いや、だからその――ハァッ……」
ため息をつくと、クニカはうなだれる。
「むーん……」
そんなクニカの様子を見て、カイはおでこにシワを寄せる。白く輝いていたカイの“心の色”が、まぶしさを失って闇のなかへと消えてしまう。
「カイ、そういうの嫌だぞ」
「ご、ごめん……」
「――アハハ!」
クニカが謝ったとたん、カイはく笑い出した。消えたはずのまぶしさが、カイの心の中に、再び宿った。
「か、カイ?」
「アハハ! クニカ、謝ってばかりだぞ。カイ、面白いぞ。」
「ご、ごめん……」
「あ、また謝った!」
「え? あ――」
「アハハ!」
長い身体を折り曲げて笑っているカイの姿は、クニカにとって無邪気さそのもののように映った。クニカが気に病んでいることなど、カイの心の中では、千分の一ほどの重みさえないのだろう。
「ウフフ……」
そう考えると、クニカもだんだんおかしくなってくる。
「おーっ。クニカも笑ってるぞ。」
「うん……なんか……おかしくなってきちゃって……」
「カイ、人が笑ってるの見るの、好きだぞ。」
左右に身体を揺らしながら、カイは鼻歌を歌う。カイの奏でるハミングを聞きながら、クニカは鼻からいっぱい、冷たい夜の空気を吸いこんだ。