爾らこそ、真理ならざる業に満ちたる者なれ。
『アダムの黙示録』、第45節
サンクトヨアシェの閑散とした街路を、クニカとリンは通り抜ける。
こま切れになった路地を縫うようにして進み、街外れの城壁にたどり着いた矢先、前を歩いていたリンが、いきなり立ち止まった。
「どうしたの、リン――？」
クニカの質問に答える代わりに、リンはまっすぐ前を指さした。
チャイハネから借りた双眼鏡を、クニカは目に当てる。双眼鏡の丸の中に、市街の内と外とを隔てる城壁が映り込んだ。
城壁の赤黒いレンガを、蔦がびっしりと覆っている。蔦の中に埋もれていた城門は、フェンスと鎖とで、厳重に封じこめられていた。
「なに、あれ……？」
息をのむクニカに対し、リンはかぶりを振っただけだった。バリケードならば、クニカだって何度も目にしている。しかし、こんなにしっかりと塞がれているのを見るのは、クニカにとって初めてだった。
「この道が――」
地図を開いていたリンが、露骨に舌打ちする。
「ウルトラまでの一番の近道なんだな。――クニカ、煙もあっちの方角だったよな？」
「う、うん……」
「クソッ、やっぱりウルトラの奴らが……」
「――待って、リン」
「え？」
「まだ決めつけるのは早いよ、ほら――」
双眼鏡を覗きこみながら、リンが見えていないものを、クニカは指で示す。門を塞ぐフェンスは、白く塗装されている。塗装の表面には、
Ｉ.Χ.Θ.Υ.Σ.
Ａ.Ｔ.Σ.Κ.
と、青い文字で印字されていた。
リンが眉をひそめる。
「何だよ、あれ？」
「分かんない」
「ばか。分かんないんじゃ――」
そこまで言って、リンは口をつぐんだ。クニカには分からない、リンにも分からない……つまり、そういうことだ。
フェンスに書かれた文字は、異邦人の言葉である。ウルトラの人間が設置したものではない。
「どうするの、リン？」
双眼鏡を降ろすと、クニカはリンの表情をうかがった。
城壁をくまなく見わたしていたリンだったが、やがてある一点で目を細める。
「あそこ、わかるか？」
歳月の重みは、城壁にも確実にのしかかっていたらしい。地面の隆起によって、城壁のある部分はひずみが入り、ある部分はレンガがこぼれている。
そんな城壁のさけ目の一つに、リンは目をつけた。その部分は土砂崩れで壊れたまま、ずっと放置されつづけていたのだろう。城壁の裂け目は土で埋もれ、背後にある小高い山とつながってしまっている。
「あそこを通ろう。山に入れば、いざというとき隠れられる」
「わかった」
「行こう。ぐずぐずするなよ……」
リンのかけ声に合わせ、クニカも先を急いだ。
◇◇◇
斜面に手をつきながら、クニカとリンは山の中を進んでいく。斜面は、木の根に覆われて滑りやすく、木の蔓があちこちを巡っており、視界が悪かった。
しかし、木の幹に手を伸ばし、バランスを保つこともままならなかった。周囲に自生しているゴムの木が、二人の行く手を遮っていたからだ。
ゴムの木の樹液に触ろうものなら、手はたちどころにかぶれてしまうだろう。雨が降った後、水分を含んだゴムの樹液は、さらさらとして透明になる。どのゴムの木が安全で、どのゴムの木が危険かは、ちょっと見たくらいでは分からない。クニカとリンは互いに手をつなぎ、安全を確かめ合いながら、先へ進むしかなかった。
黙々と歩いていた二人の耳に、虫の音とははっきりと異なる、きしんだ音が聞こえてきた。耳を澄ませているうちに、クニカはそれが、キャタピラの唸る音だということに気付いた。
反射的にクニカは、リンの手首を強く握った。
「リン……！」
「分かってるさ。――ほら、あそこを見ろ」
リンに促され、クニカも目線を上げた。ゴムの木の葉や、ヤシの木の葉に切り取られた空のすき間から、黒い煙が立ち上っている。
「慎重にいくぞ」
顎にまで流れてきた汗を、リンはぬぐう。
銀製のロケットを握りしめ、クニカも頷いた。
◇◇◇
近づくにつれ、煙の濃さは増していった。視界が暗いだけではない。息は苦しくなり、目は汗がしみたようになり、鼻の奥は痛くなった。
「大丈夫か？」
「う……ん」
クニカは先ほどから、タオルで口元を覆っていた。さっきからずっと頭が痛い。リンも苦しいのだろう。ことあるごとに目をこすっていた。
山の斜面が、ようやくなだらかになってくる。歩いているうちに、クニカとリンの二人は、切り立った崖の側までたどり着いた。
段差の下にあったくぼ地に飛び降りたリンが、突然
「あっ」
と、短く声を発した。
「どうしたの、リン？」
「こっちへ来い、クニカ」
段差へ降り立つと、リンに言われるがまま、クニカも崖の下を覗きこむ。
まず見えたのは、崖のすぐ下を流れている一本の川だった。サンクトヨアシェにも流れこんでいる、オミ川の支流だろう。川をまたいだ反対側には、ものものしい建造物が控えている。敷地全体はコンクリート製の塀に覆われ、塀のてっぺんには有刺鉄線が張りめぐらされている。建物からまっすぐ伸びている煙突が、黒い煙を吐き出していた。
「あれを見ろ……！」
クニカの着ているタオル地のパーカーを、リンが引っぱった。建物の裏手にある広い空地に、白いかたまりがずらりと並んでいる。双眼鏡をかざしたクニカは、はっきりと映り込んだそれを見て、息が止まりそうになった。
道路に沿って並んでいる白い塊は、全て戦車だった。それもこれも、べスピンの街でクニカたちが対峙したものと同じである。
しかしどうして、こんなところに？
砲塔を回転させている戦車の様子を、食い入るように見つめていたクニカだったが、とつぜんリンに強く引っぱられ、なすすべもなく後ろへと転がりこんだ。
「ちょっと、リン……」
「シッ――！」
「〈――お偉方は、何を考えてんだ？〉」
リンに抗議しかけたクニカも、背後から聞こえてきた男の声に、慌てて口を閉じる。
今、二人はくぼ地の中に身を潜めている。声はそんな二人の、すぐ上から聞こえてきた。
「〈まったく、参っちまうぜ。こんなところで立ち往生だなんて〉」
ちぇっ、という舌打ちとともに、男が足をふり上げる気配がした。蹴り飛ばされた小石はクニカの真上を通り過ぎ、そのまま崖の下へと吸いこまれていく。クニカとリンの頭上には、土ぼこりが降り注いできた。
身体を折り曲げると、リンが口元を覆って、肩を震わせはじめた。くしゃみを堪えているようだった。
「〈立ち往生してるだけましだろ？〉」
先ほどとは別の男の声が、舌打ちをした方の男をたしなめる。
「〈シャンタイアクティだとバタバタ死んでるって話だぜ？〉」
（シャンタイアクティ……）
懐かしい名前が、クニカの耳に流れ込んできた。南の大陸で一番大きい東の街が、シャンタイアクティである。クニカたちが目指している西の街・ウルトラとは、ちょうど反対方向にあるはずだ。
「〈マジかよ？ なんだってそんな手こずってんだ？〉」
「〈巫皇のしわざに決まってるだろ？ おまけに連れの聖騎士たちが強過ぎる〉」
「〈なるほど。そんで俺たちも様子見ってわけか〉」
（そうだったのか……！）
クニカの脳内に渦巻いていた数々の疑問が、一本の線で繋がりだした。
今の男たちの会話を、リンは理解できていない。クニカが言葉を理解できるのは、“竜”の魔法のおかげだ。
かれらはきっと、サリシュ＝キントゥス人だろう。海峡を隔てた北の帝国から、はるばるこの南大陸までやってきたのである。
なぜやってきたのか？ それはクニカにもまだ分からない。分からないがともかく、かれらは南の大陸を侵略しつつあるのだ。地理的に近いチカラアリを手始めに、西のウルトラ、東のシャンタイアクティへと手を伸ばしている。
ところが、サリシュ＝キントゥス人たちは侵攻にてこずっている。――べスピンの街でギャングたちがのさばっていたのも、サリシュ＝キントゥスの兵隊たちがギャングたちに力負けしたからだ。だからべスピンのギャングたちは、戦車や小銃といった高性能な武器を持っていたのだ。
手こずっている原因はなにか？ ――最大の原因は、“黒い雨”だろう。
では“黒い雨”は、何が原因で降るようになったのか？ ――サリシュ＝キントゥス人たちが雨の原因であるはずがない。自分たちが降らせている雨が原因で、自分たちを困らせるなどということを、かれらはしないだろうから。
リンの深く吐いた息が、クニカのうなじにあたる。ようやくリンは、くしゃみの呪縛から解き放たれたらしい。
一気に現実へと引き戻されたクニカは、あまりのくすぐったさに肩をすくめた。その拍子に、視線が下へ向く。そしてばっちり、ヘビと目が合ってしまった。
「い――？！」
口を開きかけたクニカの腕を、リンが指でつねる。とぐろを巻いているヘビが、鬼火のように舌をちらつかせながら、クニカのおしりのあたりまで近づいてくる。
「〈ところが、だ。そろそろ事情が変わるらしい〉」
頭上では相変わらず、異邦人の兵隊たちが話し込んでいる。
「〈なんでまた急に……？〉」
「〈――“竜”が復活したらしいのさ〉」
「竜」の言葉に、クニカの足が意に反してピクリと動く。蹴り上げられた土ぼこりが、ヘビに降りかかった。ヘビはクニカをにらみつけると、口を大きく開き、牙をむき出しにする。
「〈ひっひっひ……よせよ〉」
押し殺した笑い声が、クニカたちの頭上から響く。
「〈そんな話、オレは信じらんねぇな〉」
「〈オレだって初めから信じたわけじゃないさ。でもよ、そう考えるとつじつまが合うんだよ。研究所の連中は、最近やけに騒がしい。出動は多くなっている。何でだ？ “竜”を探すためさ〉」
「〈研究所の連中……？ 何であいつらが騒ぐんだよ？〉」
「〈“最終兵器”を使うためさ〉」
訊き手の男がすぐに返事をしなかったせいで、奇妙な沈黙があたりを支配した。
沈黙が続く間じゅう、クニカの心は二重の問題に引き裂かれていた。視界の真ん中に居座るヘビも問題だったが、クニカにはそれ以上に、男たちの話が気になった。
“竜”――これはきっと、自分のことを指しているのだろう。しかしどうして、サリシュ・キントゥスの兵隊たちが、自分のことを血まなこになって探す必要があるのだろうか？
「〈“最終兵器”？〉」
「〈そうさ〉」
「〈うさんくせぇなあ……〉」
沈黙の重苦しさに対し、男の返事は軽かった。
「〈だいたいな、『最終ナントカ』って名前のヤツにはな、ロクなものがねぇんだよ〉」
「〈オレの知ったことかい。とにかく“最終兵器”ってもんがあって、それを使うには“竜”が必要になるのさ。”竜”の持つ、膨大な魔力がな――〉」
「〈あぁ、そうかい。なぁ、そろそろ戻ろうぜ、時間だ〉」
なおもしゃべりたがる同僚を制し、聞き役だった方の兵士が咳払いする。
「〈まったく……この基地にいると喉がやられちまう〉」
「〈なあに、じきにどうでもよくなるさ〉」
鼻歌まじりに、もう一人の男が答える。
「〈“最終兵器”がちゃんと動けば、ウルトラなんて一発でおしゃかさ。オレたちも待ちぼうけから解放、ってところだな〉」
「〈だといいけどな〉」
男たちの声が、次第に遠ざかっていく。これ見よがしとばかりに、リンが持っていたナイフを逆手に構える。ヘビを始末するつもりなのだ。
しかし、そんなにうまくはいかなかった。クニカのうなじの後ろあたりから、地面を強く踏みつける振動が響いてきた。と同時に、立ち去るまぎわだった兵士が、何かをこちらへ吐き捨てる、汚い音が聞こえてくる。――兵士が痰を吐いたのだ。痰は、そのまま草むらのなかへ消えていったが、ヘビを驚かせるのには十分だった。
「やばっ――！」
牙をむき出しにして、ヘビはクニカのすねに齧りつこうとする。すぐさま立ち上がろうとしたクニカだったが、思うように足がついてこない。そして
「あっ――」
と、悲鳴になりきらない悲鳴をあげる。
そのときにはもう遅かった。クニカの身体は中空を躍り、背後に横たわっている川へと向かって真っ逆さまに墜落していたからだ。