一夜明けると、クニカたちは、再び国道二十二号に沿って歩き出した。国道二十二号は、相変わらず山の中を蛇のようにうねっていたが、次第に上り坂は減り、下り坂が多くなってきた。
「リン、いいことを教えてあげましょうか？」
クニカの隣でリアカーを引っ張っていたシュムが、先頭を歩くリンに言った。
ちなみにリアカーは、モーテルの脇に打ち捨てられていたのを、リンが偶然発見したものだった。ひしゃげていた車輪は、クニカが“祈る”と、たちまち元どおりになった。
「な、何だよ？」
「地図を逆さまに見ています」
真顔になると、リンは、目にも止まらぬ速さで地図の上下を持ち直した。
「わ、分かってるよ。あれだよ、わざとだよ！」
「――この道、合ってるよね？」
「何だよクニカ、」
蚊を払いのけながら、リンがクニカをにらみつけてくる。
「お前、オレのこと信用してないだろ？」
「い、いや、別にそんなことは……」
助けを求めようと、クニカはシュムに視線を送った。しかし、シュムは猫のように爛々とした目で、クニカとリンをを眺めているだけだった。要するに、シュムは、慌てふためいているクニカを楽しんでいるようだった。
しかし、リンからげんこつが飛んでくる前に、リアカーの中から、声が上がった。
「この道でいいんだよ」
それは、チャイハネの声である。夜行性のチャイハネは、丸めたブルーシートを枕にして、リアカーの中に寝そべっていた。
「リン、地図を貸してくれ」
無言のまま、リンはチャイハネに地図をつき出した。それを受けとると、チャイハネは、地図上の国道二十二号線を指でなぞる。
地図上のある一点で、チャイハネは指を止めた。
「ここだ、カーブになってるだろ？ ここから、下の様子が見えるはずなんだ。上手くいけば、ウルトラも見える――」
「う、ウルトラ？！」
“ウルトラ”という単語に、リンが真っ先に反応する。
「ホントだな、チャイ？！」
「嘘ついてどうすんだよ、な、クニカ？」
「うん、」と言おうとしたクニカだったが、頷くだけで精一杯だった。
ずっとウルトラを目的地にして、クニカはこれまで旅をしてきたのだ。ただ街の名前を聞いただけだというのに、クニカの心臓は期待で高鳴っていた。
「おい、何グズグズしてんだよ！ 行くぞ！」
「あっ、待って――」
チャイハネの手から地図をひったくると、リンは早足で前へと進んでいく。残された三人も、リンの背中を追った。
◇◇◇
チャイハネの言っていた“カーブ”は、四人の前に唐突に現れた。
「あそこだ！」
飛び上がらんばかりの勢いで、リンが一目散に駆け出していく。
「ちょ、ちょっと、リン――」
「クニカ、待て待て……」
身を起こすと、チャイハネはクニカに包みを渡した。
「これは……？」
「双眼鏡だよ。リンに見えても、クニカには遠いだろ？」
「あ、ありがとう」
「先に行ってな、クニカ。あたしは空でも眺めながら、のんびり運ばれてくよ」
「ダメです、チャイ。今度は私がそこに寝る番です」
「えぇ……」
シュムの言葉に、チャイハネはけげんな顔をする。そんな二人をよそに、クニカは双眼鏡を小脇に抱えたまま駆け出していた。蒸し暑い大気がクニカの周りで渦を巻き、クニカの身体からも、汗が噴き出してくる。
とうとう、クニカもカーブの手前までたどり着いた。先に到着したリンは、眼下に広がる光景に立ちすくんでいる。
錆び付いたガードレールの側で立ち止まると、クニカは双眼鏡を取り出し、眼下の様子に目を細めた。
クニカのいる地点から、まっすぐ正面には、幾重もの山並みが確認できる。山間の平原はスプーンでくり抜かれたようになっており、クニカのいる地点からは、四本の川が見えた。
「あれが、」
と、リンが川の一本を指さす。
「イル川だ。一番奥のヤツな。その隣がアッシート川。両方とも、サリストク川から分かれた川だな」
リンがサリストク川の方角を示す。南の山脈から流れ出ている川が、そのサリストク川である。
そしてもう一本川がある。クニカたちが今いる山の、ちょうど真下を流れている川だ。
「これは――」
「――オミ川だよ」
リンに代わり、チャイハネが答える。結局チャイハネは、シュムに押し負けたらしい。リアカーを脇に据えると、チャイハネはもう青息吐息といった様子だった。
「こんなところから……」
「南大陸を、東西に分けてるのさ。で、オミ川も南北に分かれてる。……いや、サリストク川が南北に分かれてる、って言った方がいいのかな？ オミもサリストクも同じ川だよ。呼び方が違うだけさ」
「どうして違うんですか、チャイ？」
リアカーで寝転がっていたシュムが、肩で息をしているチャイハネに問いかける。
「ウルトラから北がオミ川で、ウルトラより南がサリストク川なんだ。何でかって？ 知るかい、そんなこと」
イル、アッシート、サリストク、オミ――。この四つの川の結節点に、一つの島がある。双眼鏡では豆粒ほどの大きさだが、周囲の川幅から類推しても、その島がひときわ大きいことは理解できる。
その島こそが、ウルトラ――クニカたちの目的地である。
「あと少し……」
クニカの目の前で、リンが拳を固く握り締める。
「あと少し……そうすれば……」
「水を差すようで悪いけど、今日は天気がいいから、実際よりも近くに見えるよ」
チャイハネの言葉に、リンは返事をしなかった。
「リン、聞いてるかい？」
「聞いてるさ」
（リン……？）
リンの“心の色”が赤く光ったのを、クニカは見逃さなかった。どうしてリンはいら立っているのだろう？ チャイハネの言葉ががしつこかったようには、クニカには思えない。
「どのくらいかかりますか、チャイ？」
「二、三日かな？ 歩いてくのならね。山の下にサンクトヨアシェっていう町があるから、今日は――」
「おい、」
チャイハネが言い切る前に、リンが声を上げた。
「あれ何だよ？」
リンが指さす先に、クニカも双眼鏡を向ける。大地を塗り潰している木々の緑のすき間に、黒い塊が見えた。黒い塊は、クニカの目の前で膨らみ、上空へ発散される。
「煙――だよね？」
「クニカ、私にも見せてください」
クニカから双眼鏡を受け取ると、シュムはガードレールに手をつき、煙の立ち込めているところに双眼鏡を向けた。
「山火事かな？」
「いいえ、チャイ。下に何かあります」
「建物だな」
“鷹”の魔法のお蔭で、誰よりも遠目の効くリンが、ジャングルの合間に埋もれているものを見破った。
「工場か何かじゃないのか？」
「かもしれませんが――」
双眼鏡を降ろすと、シュムはチャイハネに視線を送る。
「――工場が動いてるとも思えないな」
「同感です、チャイ」
「この辺りなら、まだ工場が動いてるんじゃないのか？ ウルトラは無事なんだろ？」
「『比較的マシ』ってだけだぞ、リン。工場動かすだけの余裕なんてないさ」
ブルーシートを枕にして、チャイハネはぼんやりと空を見ている。
「だいたいさ、工場が動いたとして、いったい誰が製品なんて買うんだよ」
「そうか――ああ、クソッ、何でもいいさ。じきに分かるだろ？」
「う、うん……」
「さっさと行こうぜ。時間がもったいない」
そのままカーブを曲がり、リンは山道を下っていく。リアカーの後ろにつきながら、クニカはできる限り、今しがた見た光景を、記憶に焼きつけようとした。
◇◇◇
サンクトヨアシェの街は、クニカに鉢を連想させた。道路を横断するようにして石壁が張りめぐらされており、そんな石壁でできた鉢の内側には、植物の代わりに建物が並んでいる。
「『サンクトヨアシェの成立は、降天暦754年にまでさかのぼります』――」
観光案内所から拾ってきた資料を、クニカは読み上げる。
「『741年に発生した即位灌頂戦争に際し、当時のウルトラ巫皇・ヨアシェの聖令の下に、ウルトラ市の外郭に打ち捨てられていた砦を修復したことが、この町の起源です』――」
路地裏の階段を回避し、四人は町の中心部へと進んでいく。
「『以来、サンクトヨアシェ市はオミ川をまたいで、西へ西へと発展していきました。全ての町は、皆西へ西へと発展するものだからです。旧市街と新市街を結ぶ橋は、今では市の名所の一つとして数えられています。キリクスタン国の建国と同時に、サンクトヨアシェ市もまた、新たな百年を踏み出そうとしています』――アイテッ？！」
子ども向け観光教材『良い子のためのサンクトヨアシェ』を読み終えたと同時に、クニカの頭にリンのげんこつが降り注いだ。
「ムダ口叩くな、このばか」
「り、リンだって読んでたじゃん……」
「う、うるさいな、このばか！」
「まぁまぁ」
もめているクニカとリンを、チャイハネがたしなめる。
「そんなにカッカとするなよ。もうすぐ橋に出るから」
「しかし妙ですね。人の姿がありません」
リアカーを引いていたシュムが、並ぶ建物を見回している。
ヤンヴォイよりもべスピンよりも、そしてウルノワよりも、このサンクトヨアシェの街は快適そうだった。人気こそないものの、焼け焦げている家もなければ、崩れ落ちている家もない。コイクォイの姿だって、一匹も確認できない。それだけ「ウルトラへ近づけばマシ」というわけだ。
それゆえに、四人には妙だった。ウルトラにこれほど近い街なのならば、難民でひしめいていてもおかしくないはずである。
「隠れてる……とか？」
「暗がりに潜んでるようには見えないけどね」
あごのあたりを、チャイハネはなでる。
「だいたい、心の色だって見えないわけだろ？」
「……あ、そっか」
チャイハネに言われて、クニカもそのことに気付いた。人が壁の向こう側に隠れていたとしても、クニカならば、人の心が見分けられるはずなのだ。
それが見えないということは、そもそも人がいないということである。
「むしろあたしたちを見て逃げ出した……ってのが筋じゃないかな？」
「どうしてです？」
と尋ねてきたシュムだったが、クニカも含めた他の三人は、ただシュムに視線を送り返すしかなかった。
シュムは、わざとらしくまばたきした。
「私が何かしましたか？ クニカはどう思います？」
「いや……あんだけやったら……」
「シッ、待て！」
リンが声を上げた。
「人がいる」
「どこに……？」
クニカの問いを受けても、リンは返事をしなかった。リンの視線の先を、クニカも目を細めて追ってみる。シャッターの降りた商店、打ち捨てられた屋台、ひしゃげた自転車の束――そんなものが見えるだけで、遠くの光景はクニカには分からない。
湿り気を帯びた風が、クニカたちの間を通り抜けた。
「迂回しよう」
ややあってから、リンが口を開いた。
「面倒に巻き込まれるのはゴメンだ」
◇◇◇
市街の南を抜け、四人は川のたもとまでやってきた。ヤンヴォイを抜ける際に、その川幅でクニカを圧倒したオミ川も、サンクトヨアシェの街中では分岐し、細い川となっていた。
そんな川の全てに、橋がかかっている。橋は全て石製で、深々と刻まれたわだちには、水が溜まっていた。
川沿いにある一軒の家に、四人は目をつけた。ここならば見晴らしがよく、周囲の様子がよく分かる。建物は密集していたが、却って好都合だった。いざとなれば窓を飛び越え、隣の家へと避難できる。
「ハァッ……ようやく一息つけるな」
塩化ビニル製の安っぽいテーブルクロスからほこりを払うと、リンがダイニングにある椅子の一つに腰かけた。
「もうクタクタだよ。ところでチャイ、お前ちゃんとアレ持ってるんだよな？」
ふところから封筒を取りだすと、チャイハネはそれを机に投げた。投げた弾みで、封筒の中身が外へはみ出る。
薄い紙には、
【市民証】
と印字されている。ウルノワの街でチャイハネが言っていた報酬とは、これのことだった。
「心配すんなよ。ひぃ、ふぅ、みぃ……ちょうど四枚だ」
「――ねぇ、シュムは……？」
「ここです、クニカ」
「――うわっ？！」
耳元で聞こえてきたシュムの声（と息づかい）に、クニカはのけ反った。その際、シュムが踏みつけているものを垣間見てしまい、クニカはほとんど飛び上がらんばかりになる。
「おい、誰だお前？！」
椅子を蹴飛ばすようにして、リンも立ち上がる。
シュムが足蹴にしているのは、見知らぬ男だったからだ。
「この人、私たちの後ろにこっそりついてきていたんです」
「イテッ……た、頼む……離してくれ……」
「ふんふーん」
男は声をしぼり出すものの、シュムはまったく耳を貸していないようだった。男の背中の上であぐらをかいたまま、シュムは男の左腕を抱きかかえ、反対側へと体重をかけている。男の関節のあたりから、湿った音が聞こえてきた。
「痛い、痛いっ？！」
「痛くしてるんです」
平然と答えるシュムだったが、クニカはこれ以上見ていられなかった。
「あ……あ、怪しいヤツじゃねえよ、オレは――あ、いっ？！」
「怪しくない奴は、ウロウロしたりしないんだな」
椅子に腰かけていたチャイハネが、しみじみと言ってのける。
「お前らに、た、頼みごとがあんだよ」
「人に頼ってばかりでは、道は開けませんよ？」
「そう、道！ 道のことだっ！」
“道”という単語に反応して、男は口から泡を飛ばした。
うさんくさそうなまなざしを、リンは男に向ける。
「道？ 道がどうしたんだよ？」
「き……北から来たんだろ、あんたら？ だったら見たろ？ 基地があるのぐらい！」
「基地って……煙を吐いていたアレですか？」
「そうそう、それだ！ そこの奴らが道を塞いでるせいで、ウルトラまで近づけねぇんだ！」
「……で、その話が本当だっていう証拠は？」
「行ってみりゃ分か――あぎいっ？！」
男が悲鳴を上げる。無理もない。抱きかかえていた男の腕を、シュムが体をよじって急旋回させたためだ。梱包用の「ぷちぷち」を一気にぷちぷちさせたような音が、男の肩から響く。男の目は血走り、全身に汗を掻き、声にならない声で息を吐いていた。
「た……すけて……」
「そんなに痛くないでしょう。明日には元通りになっているはずです」
「シュム、それはね、右にひねったときだ」
眼鏡を外すと、チャイハネは自分の目のあたりをこする。
「え。そうだったんですか？」
「左腕を左に回しちゃダメでしょ……」
「ひぃーっ、ひーっ？！」
シュムが重心をどかした一瞬の隙をついて、男は文字通り這いつくばりながら玄関から転がり出ていった。男は本当にやましいことなどなかったのだろう。クニカは気の毒に感じたが、シュムが腕をひねったときの
ぷちっ
という音が生々しすぎて、男のことを気遣っている場合ではなかった。
「でも、誰がそんなことを……」
「……考えられるとするなら、ウルトラの奴らかな？」
「ウルトラの？！ 何でだよ？！」
「難民が収容できなくなったから――とかじゃないのかな？」
チャイハネの言葉に、シュムも神妙な表情で頷いた。
「おい、そんなわけあるかよ。オレもクニカも聞いたんだぞ、『ウルトラへ避難するように』っていうラジオの放送を――」
「事情が変わってしまった可能性は大いにあり得ます、リン」
「何だよ、ここまで来たんだぞ。……クソッ！」
腕を組むと、リンはいら立たしげに周囲を歩き回る。リンがそんな行動を取る理由は、クニカにはよく分かっている。理屈で納得できるようなタイプでないリンにとって、チャイハネの言っていることは、筋が通っていても度し難いのだ。
「基地に行けば、何かが分かるかもしれないんだよね？」
リンの気持ちを代弁するように、クニカがチャイハネに質問する。
「何もしないよりかはマシだな」
「なら、オレが行く」
間髪入れずに、リンがチャイハネに応じた。
「危険ですよ、リン？」
「そんなの当たり前だろ？ どこだって危険なんだ、だろ、クニカ？」
「え？ う、うん――」
「よし、じゃあ決まりだ。オレとクニカとで基地を見てくる」
「クニカと？」
テーブルに肘を突いたまま、チャイハネがリンに聞き返す。
「なんだよ、いいだろ？」
「悪いとは言っちゃいないさ」
チャイハネは意外そうな様子だったが、リンの言葉はクニカにとっても意外だった。いつもなら、リンは「クニカはここに残ってろ」とでも言うだろう。
そう考えていたがゆえに、クニカはちょっと嬉しかった。それだけリンに認められているような気がしたからだ。
「ほら、さっさと行くぞ、クニカ！」
「うん！」
リンにけしかけられ、クニカも外へと飛び出す。
「雨が降る前に帰れよ！」
チャイハネの言葉が、二人の後ろから飛んだ。