雲と其の裡なる光耀、而して其を円環る星を見よ。皆を導く星こそ、爾が歳星なれ(雲の内にある光、そして、それを囲む星々を見なさい。皆を導くあの星こそが、お前の星である)。
『ユダの福音書』、第57頁
「ウ……ン」
ちょっとした弾みで、クニカは目を覚ました。外では、雨が降っているようだった。モーテルのくすんだ白壁を、雷鳴がきしませていた。
「あ……行かなきゃ――」
頭を振って眠気を追い払うと、クニカは立ち上がった。寝る前に、皆で
「誰かが起きて、外の様子を見張ろう」
ということに決めたのだ。
初めにシュム、次にクニカ……ということになっている。ところが肝心のシュムは、クニカの隣で横になっている。
(シュム……どうして起こしてくれなかったんだろう?)
訝りつつも、クニカはダイニングへと向かった。
◇◇◇
ドアの隙間から光が漏れていることに、クニカは気付いた。ドアをそっと押すと、クニカはダイニングをのぞき込む。
ダイニングでは、チャイハネがテーブルに肘をついていた。一本のろうそくが、かすかな光を放っている。チャイハネはその光の中で、所在なくマッチ箱をいじっていた。
いつもは長袖の白いシャツに身を包んでいるチャイハネだったが、この時ばかりは、チャイハネは腕まくりをしていた。
チャイハネの腕を見て、クニカはどきりとする。チャイハネの腕には、青い花の刺青が施されていたからだ。
「チャイ……?」
「――おっと?」
クニカの声に気付くと、チャイハネはシャツの袖を引っ張り、腕の刺青を隠してしまった。
「変なモノを見せちゃったかな?」
「いや、別に……そんなことは……」
クニカは、しどろもどろな返事をするしかなかった。クニカが一目見た限りでも、チャイハネの刺青は、出来心で施した刺青ではないことが明らかだったからだ。
テーブルに近づくと、クニカは椅子に腰かけた。
「チャイは……眠くないの?」
「夜行性だからね」
チャイハネの言葉にピンとこなかったクニカだったが、よく考えてみれば、チャイハネは“梟”の魔法使いである。夜に目が冴えてしまうのは、チャイハネにとって当然のことなのだ。
「見張りの交代に来てくれたんだろ? だったら悪かったね。今夜はあたし一人で十分さ。明日の昼にはお世話になるよ」
「あ、分かった」
会話への興味を失ったのか、チャイハネは再びマッチ箱を転がしだした。皆が寝静まり、することがない以上、チャイハネは長過ぎる夜をじっとして過ごさなくてはならない。そんなチャイハネに同情はするものの、クニカは具体的にどうすればよいのか分からなかった。
が、とりあえず会話をつなげようとする。
「あの、チャイ?」
「なに?」
「その……えっと、『どうしてタトゥー入れてるの?』って、訊いていい?」
「なんだそりゃ」
「だ、だって……」
「別にいいけどさ、クニカ。その前にあたしにも質問させてくれよ」
「な、何?」
「クニカの父さんって、何の仕事してたんだ?」
「それは……その、えっとー―」
クニカは天井を見上げた。
「じ、実はね、チャイ、わたし、記憶がなくってさ――」
「へぇ?」
「う、うん。リンには言っておいたんだけど、チャイにはまだだったよね? あ、シュムにも言っておかなきゃ。そうしないと――」
ここでクニカは、言葉に詰まってしまった。チャイハネが唇を引き結んだまま、クニカをじっと見ていたためである。チャイハネは、クニカの瞳の奥を覗きこんでいるかのようだった。
「クニカ、」
「は、ハイッ?!」
「目は右上を向いてるし、瞬きはさっきよりも多い」
いじっていたマッチの箱を、チャイハネは机に置いた。
「瞳孔は開いているし、指はせわしなく動くし、声は上ずってるし、息も荒い――」
「うっ……」
「つまりクニカは、あたしに嘘をついている」
「ご、ゴメンナサイ……」
「しかし、これはどういう意味だろうか?」
うなだれているクニカをよそに、チャイハネは語り続ける。
「『あたしに嘘をついている』というところが、一つのポイントだ。つまり、あたしはクニカに信用されていない、ということになる。では、どうして? ――実はクニカは、なにか良からぬことを企んでいて、あたしたち全員をワナにはめようと――」
「え? いや、そんなことは――」
「フフフ……」
慌てふためいているクニカを尻目に、チャイハネは肩をすくめてみせた。
「いいのさ、別に。訊かれちゃ困ることの一つや二つくらい、誰だって持ってるものさ。生きてりゃ色々ある。そうだろ?」
(「生きてりゃ色々」か)
チャイハネの言うとおり、色々なことがある。というより、クニカの今の生は、まさに「色々」の典型のようなものだろう。
そもそも、前の世界で死んでしまったがために、クニカは今、この世界にいるわけである。「生きてりゃ色々」のレベルではない。
「話は変わるけどさ、クニカ」
物思いにふけりかけたクニカをよそに、チャイハネは話を続ける。
「自分の才能には、いつから気付いてる?」
「さ、才能?」
「そうだよ、クニカ」
机から身を乗り出すと、チャイハネはクニカに耳打ちした。
「クニカには才能があるだろ?」
クニカの脳裏に、シャワールームにおける、シュムの言葉がよみがえってくる。
――クニカには才能があります。
(し、しまった?!)
クニカは絶望した。
「シュムを追い払ってくれたのだから、チャイハネはきっと味方だろう」
と、クニカは思い込んでいた。
しかし、思い出してみてほしい、チャイハネはあのシュムに、直腸検査という離れ技をやってのける人物なのである。このままぼんやりしていたら、クニカなどひとたまりもないだろう。
しらばっくれるなら、今しかない。
「あの、わたしそんな才能ありません」
「なに言ってんだよ」
きっぱりと言い放ったクニカに対し、チャイハネはけげんな様子だった。
「リンだって言ってたぞ、『クニカは特殊だ』って」
(り、リンも……?!)
クニカは、椅子から転げ落ちそうになった。
「そんな……信じてたのに……」
「そうそう、それだよ」
「――え?」
「いや、正確には“祈り”ってヤツかな?」
だらしなく口を開けていたクニカだったが、ようやく全てを理解した。リン、チャイハネそしてシュムの聖三位一体にもみくちゃにされる――という話ではなくて、チャイハネは、単にクニカの魔法について聞きたかっただけなのだ。
「なんだ、そんなことか。――ほっ……」
「『そんなこと』って言い草はないだろ……」
あきれ返った口調で、チャイハネは背もたれに背を預ける。
「もっと感動したっていいじゃないか。クニカにしか使えない、特別な魔法なんだからさ」
「『特別な』って……」
クニカの心の内に、ある予感が芽生える。
「チャイ……もしかして、分かるの?」
「“竜”の属性さ」
「“竜”……?」
竜という音がイメージに結びつかず、クニカはチャイハネの発音をなぞる。
「あたしもさ、初めは信じてなかったさ」
チャイハネは話を続ける。
「でも、クニカは人の心が読める。人にテレパシーを送れるし、テレパシーを受信することだってできる。人の怪我も治せるし、……要するに、だ。クニカが、『そうなってほしい』と思って祈ったことの全てを、クニカは現実に置きかえることができるんだ。あたしの知っている伝承の限りでは、“竜”属性に間違いない。――なぁ、クニカ、すごいことなんだよ? 分かってる?」
「でも……伝承上、って……」
「良かったじゃないか、喜べクニカ。クニカは伝説の生き証人になってるんだ。歴代の巫皇にだって、”竜”の魔法使いは、ひとりだっていなかった。でもクニカ、クニカのその才能は、“竜”の属性としか説明できない。何かがあるんだな、きっと。何か宿命みたいなものが」
(宿命、か――)
宿命という単語が、自分の肩にのしかかってくるような錯覚に、クニカは襲われた。
「あの……チャイ?」
「何だい?」
「その……もしダメだったら?」
「ダメ? 何が?」
「だから……もしわたしが宿命に応えられなかったら、どうなると思う?」
「応える? 何のために?」
「それは……」
クニカは言いよどんだ。チャイハネの言うとおり、いったいクニカは、何のために宿命に応じようというのだろうか? どうしてこの世界に転生したのかもわからず、なぜ性別が女に変わっているのかもわからず、これからどうなるかも分からず、仮に死んだとして、どこへ行くのかも分からない。そんな状況の中で、しかし宿命にだけは生真面目に応じようとするのは、不自然なことのように、クニカには思えた。
「分かってないじゃん、クニカだって」
「ご、ゴメンナサイ……」
「いや、それでいいんだよ」
「え……?」
「だってそうだろ?」
溶けて傾いたろうそくを、チャイハネは立て直した。
「あのさ、クニカ、歌を歌いながら、『私は今歌っています!』なんて言う奴いないだろ? もし言える、っていうんなら、そいつは本当の意味で歌った経験なんてないんだろうな。とにかくさ、宿命だって、そんなもんだと思うよ。宿命を自覚して生きている奴なんて、世の中にはいないね。だから、分かんなくていいんだよ。好きに生きればいいんじゃないかな? だからこそウルトラに行くんだろ? 自分の意志でさ」
「そう……かもしれない」
「『かもしれない』じゃなくて、『そう』なんだよ」
とは言われたものの、クニカには、いまいち実感が沸かなかった。それは、背負っているだろう宿命についてもそうだったし、その宿命を背負わなくてもいいという、チャイハネの言葉に対してもそうだった。
心全体が分厚い膜に覆われているようで、クニカは心細くなる。そして、いつものように、クニカは首からぶら下げている銀製のロケットを握りしめていた。
「ところでさ、クニカ」
チャイハネは、そのロケットを指さした。
「そのロケットは、どうしたんだい?」
「あ、“お守り”。リンからの」
「リンから?」
チャイハネが目を丸くする。
「へぇ……アイツもかわいいところあるんだな」
「そう……かな?」
クニカはロケットに視線を落とした。銀製のロケットは、留め金の部分が壊れていて、中に入っているだろう写真を見ることはできない。
(写真か……)
あるいは、誰かの肖像画が収められているのかもしれない。この時になって初めて、クニカは“お守り”の中身が気になりだした。
「ねぇ、チャイ。ここの留め金って開けられる?」
「どれ、貸してごらん。――いや、これはずいぶんと……」
チャイハネの唇が、「ふ」という音を発しかけて止まる。
きっと、チャイハネは「古ぼけた」と言おうとしたのだろう――クニカはそう考え、チャイハネの言葉を受けたつもりで、そのまま話を続けた。
「うん。古いんだけどさ……何だろう、リンにとっては、すごく大切なモノらしいんだよね? だから、わたしもそれを着けてると、その――守られてるっていうか、大切にされてるな、って感じるっていうか……」
照れくさかったので、クニカはずっと、床に視線を落として話していた。だから、チャイハネの “心の色”が、瞬間的に
真っ黒
になったのを、クニカは見逃してしまった。
「どうかな、開けられそう?」
チャイハネは何かを言ったが、クニカは聞き取れなかった。
「ゴメン、チャイ、もう一回言って」
「――いや、ちょっときついかな? ハハハ」
早口気味に言うと、チャイハネはロケットをクニカに返した。
「留め金がくっついちまってるから、開けるのは無理かな。悪いね」
「そっか……ごめんね、チャイ。無理言っちゃって」
「気にすんな」
チャイハネが言葉を切ると、周囲は沈黙に包まれた。
「ま、とにかく今日は寝ることだ。あとはあたしに任せな」
「うん。おやすみ、チャイ」
「おやすみ。良い夢を!」
寝所に戻ってゆく途中、自分の背中にチャイハネの視線が投げかけられているのを、クニカは何となく感じとっていた。