心臓をわしづかみにされた気がして、クニカは跳ね起きる。起きた弾みでバランスを崩し、クニカは床に転がった。
「痛いッ!」
痛くなどないのだが、声を発せずにはいられなかった。先ほどまで真裸だったというのに、今のクニカはオレンジ色のTシャツに、青いハーフパンツをはいていた。
クニカは胸に手を当て、それから背中に腕を回した。巨人に刺されたところをひとしきり触ってみたが、血が流れているわけでも、孔が空いているわけでもなかった。
では、さっきのは夢だったのだろうか?
(ちがう)
立ち上がると、クニカは自分の身体をなで回す。脚の付け根には、あるべきはずのものがなく、胸には、あってはならないはずのものが、付いていた。
「うわぁ……」
声を上げることだけが、クニカができた唯一の抵抗だった。気の済むまで、クニカは何度も「うわぁ」と繰り返す。収まりかけた動悸が、また激しくなってきた。
「死んだ」と思ったが、そうではない。「生きてる」かと言われると、それも怪しい。そして、女の子になっている。
(ていうか……ここ……どこなんだろう?)
それさえも分からず、クニカは辺りを見渡した。部屋には、ロッカーと段ボール箱とが並んでいる。きっと、控室か何かだろう。
クニカの視線が、部屋の一角に集中する。洗面台の上に、鏡が据えられていた。駆け寄ると、クニカは鏡をのぞき込む。くぐもった鏡の表面に、自分の顔が映った。
大きくつぶらな瞳に、丸い輪郭。
おまけに髪はピンク色で、瞳は青かった。
(やっぱり)
最後に、クニカはほっぺたを引っ張ってみる。
鏡に映っている少女も、同じ仕草をしていた。
正真正銘、今のクニカは女の子だった。
(でも……生きている……ってこと?)
クニカは自問する。確信は持てないが、クニカは、完全に死んでしまったわけではないようだった。
(ここから出ないと……)
いずれにせよ、このままでは埒が明かない。部屋を見渡し、クニカは扉を発見する。
(あれ……?)
扉には、
He выходите из комнаты.
と、張り紙がされていた。
クニカの背中を、悪寒が駆けめぐる。この張り紙は、ただ事じゃない。「キリル文字」だということは、クニカにも分かる。
それだけではない。
“ここから出ないように。”
(よ、読める……)
一ミリも知らないキリル文字を、クニカは読むことができた。「これは本当にただ事じゃないぞ」と、クニカの本能が、クニカに呼びかけてくる。
しかし、「出るな」と警告されようにも、クニカは外の様子を知らないのである。
(それに……)
それに、「張り紙がしてある」ということは「誰かがクニカをここに連れてきた」ということになる。わけの分からない環境で、わけの分からない人物に出会うのは、クニカには気が引けた。
「よし、行こう!」
自分を勇気づけるために、クニカはわざと声を出して、ドアノブをひねった。
クニカの覚悟とは裏腹に、扉はあっけなく開いた。
◇◇◇
扉の隙間から、クニカは外をのぞいてみる。向こう側は、開けた場所のようだった。
クニカは外へ出る。通路のあちこちに、テナントが設けてあった。真ん中には吹抜けがあり、下の様子が見える。
(ここは……)
構造からして、建物はショッピングモールのようだ。奥まで目を凝らせば、エスカレーターのようなものもある。ただし、
(動いてない)
エスカレーターは動いていなかった。それどころか、テナントのほとんどは、シャッターが降ろされたままだ。
人気のないモールは、異様だった。一歩踏み出した弾みで、クニカは足元の缶くずを蹴っ飛ばしてしまう。乾いた音がモールにこだまし、静寂を深めた。
辺りを見回しながら、クニカは歩きはじめる。背骨に沿うように、クニカの背中を汗がつたった。
と、そのときだった。曲がり角の向こうから、音が響いてくる。鉄扉を蹴り開く乱暴な音に、クニカは小さく悲鳴を上げた。耳に届く女の子らしい悲鳴に、クニカはイヤな気分になった。
クニカは通路をのぞいてみる。開け放たれたドアと、手すりにうずくまっている人間が見えた。格好からして、男のようだ。クニカに背を向けているため、男の表情は分からない。男は息切れしている様子だった。
「ごめんください、あの……」
言いかけ、クニカは口をつぐむ。
第一に、ニホン語で話しかけるつもりだったのに、クニカの口から別言語が流れたから。
第二に、うずくまる男の足元から、何かが漏れていたから。
生臭い臭いが、クニカの鼻をつく。
それは血だった。
クニカの全身が総毛だったのと、男が振り向いたのは、同時だった。
「ひいっ……」
情けない悲鳴を上げ、クニカは後ずさる。
男には頭が無かった。正確には、頭のある場所に、何か「別の物」がくっついている。「別の物」の中央の芯は、吸盤上の突起に覆いつくされており、芯の外側には、花弁のようなものがついている。フキノトウに似ているが、色は赤と青のまだら模様で、毒々しく脈打っていた。
男――いや、異形は起き上がると、クニカの正面に立ちはだかった。目などないはずなのに、クニカは怪物の視線を感じた。
「ちょっと……嫌だ!」
クニカは道を駆け戻る。逃げられるというクニカの期待は、男の追走によって打ち砕かれた。
「助けて!!!」
モールに、クニカの声が響きわたる。
通路を走る二人の距離は、狭まりつつあった。クニカは混乱していてまともに走れない。それに、もどかしい気持ちが混乱に拍車をかけた。女体化と同時に身長が縮んでいる。思ったように歩幅が稼げない。
怪物が腕を伸ばし、クニカに掴みかかろうとする。怪物の指が、クニカのシャツの裾すそに触れた。
「ふわぁっ?!」
間一髪のところで、クニカは身をひるがえす。怪物は前につんのめり、ベンチに激突して体勢を崩した。
逃げるには絶好のチャンス――。だが尻餅をついたまま、クニカは立ち上がれなくなっていた。心臓は早鐘のように鳴っているし、足は震えて力が入らない。
「おい!」
クニカの後方から、誰かの声がする。振り向こうとした矢先、
「伏せろッ!!!」
と叫び声があがった。頭をかかえ、クニカは上半身を床に倒す。
声の主の姿が、クニカの視界に少しだけ映る。相手も少女のようだった。
少女が握っているものから、火花がこぼれる。続けて「かちん」と、ばねの弾ける音がした。
炎に包まれ、怪物が悲鳴を上げる。熱風はクニカにまで届き、額と背中から汗が噴き出してくる。頭のフキノトウは形を変じ、煙の中で弾けとんだ。飛び散った黒い汁が、怪物の上着を濡らす。黒い煙を発しながら、怪物は倒れ、動かなくなる。
クニカの側に、少女が近づいてくる。少女は緑のハーフパンツに、白のTシャツを着ている。首にぶら下げたロケットが、残り火を受けて銀色に輝いていた。背はクニカよりも高い。長い黒髪をポニーテールにしている分、より一層背が高く見える。金色の瞳に、ナイフのような鋭い目つき。尖った顎あごに、引き結ばれた唇――。
「あ、あの……」
言いかけたクニカに対し、少女はむすっとしたまま手を差し伸べる。おっかない雰囲気だったが、色白の腕はほっそりとしている。クニカはその手を取って、立ち上がる。
「その、ありがと……うげっ?!」
クニカの視界がぐらついた。乾いた音が、クニカの耳に響く。少女が、いきなりげんこつをかましたのだ。
目の裏に火花が飛び散り、クニカはまた尻餅をついた。
「ちょっと! いきなり……」
「ばかやろう!!!」
少女の怒号が響き渡る。稲妻のような少女の声に、クニカの抗議の声などかき消えてしまった。
「お前……」
うなだれたまま、ポニーテールの少女がクニカに話しかける。
「どういうつもりなんだ?」
「『どういうつもり』って、こっちだって――」
「正気なのか、お前?!」
少女はクニカの胸ぐらをつかんだ。
「あとちょっとで死ぬところだったんだぞ?!」
「だって……仕方ないじゃん!」
「『仕方ない』? 本気で言ってるのか?! あんなにでかでかと書いといただろ?! オレが戻って来なかったらどうしてたって言うんだよ?!」
「それは――」
言いよどみつつも、クニカは少女の瞳を見つめた。
「ていうか、あれって……あなたの……」
「そうだよ!!!」
少女が手をゆるめ、クニカを放した。クニカは首もとを押さえ、少女から距離をとる。
怒りが収まらないのか、少女は汚い言葉をあれこれ口走りながら、地団駄を踏んでいる。その間にも手はせわしなく動き、装置をいじっていた。
クニカが目を凝らしてみると、ピストルのようだった。銃身のところに円盤が付いている。少女はその部分を、別の円盤に換えている。
「まったく……無駄遣いした……」
「えっ?」
「――おまえがふらふら出歩かなきゃ、一回分使わなくて済んだんだ!」
円盤をクニカにかざしてから、少女はそれを怪物の死体に投げつける。状況が呑み込めずにいるクニカも、円盤に文様が刻まれていることに気づいた。
クニカを助けるために、少女は貴重な戦力を浪費したらしい。
「その、ごめんなさ……」
「――シッ!」
謝ろうとするクニカを、少女は制す。クニカの耳にも、異様な音が届いてきた。人間の金切り声だ。複数の声が合わさり、モールの中をどよめいている。
クニカに近づくと、少女は手を握りしめる。どぎまぎしたクニカも、指に力を込めた。
「今のは……?」
「怪物の仲間たちだよ。分かるだろ?」
「う……ん」
はっきりしないクニカの態度に、少女は鼻を鳴らす。
(あれ?)
クニカは新しいことに気付いた。少女の胸の辺りに、赤いもやもやしたものが見えたのだ。
(なんだろう?)
「……ここにいたら危険だ。逃げるぞ」
もやもやに、少女は気づかない様子だった。