第28話:キャラバン(Караван)

「うぐっ……?!」

 便器に腰かけたまま、クニカは先ほどから身もだえしていた。お腹が痛い。いや「痛いバリィト」などという生やさしい言葉では済まない。足の付け根からペンチを突っ込まれ、そのまま下腹部をかき回されているかのような痛みだった。

「うっぎ……?!」

 気が遠くなりかけるのを、クニカはかかとで踏ん張ってこらえる。“リエゴーイ”が終わるのが先か、それともクニカが終わるのが先か、である。しかし、今回ばかりはクニカの方が先にへばりそうだった。お腹は痛いし、トイレは――ひかえめに言って――汚い。

こんにちはズドラーズドヴィチェ、メタンガスです」

 と、臭いが激しく自己主張してくるし、電球の周りでは、ハエが我がもの顔で飛びかっている。クニカの身の回りにある、ありとあらゆるものはべとついていた。このベタつきは、亜熱帯特有の湿気のせいなのだ……と、自分自身に言い聞かせるだけで、今のクニカは精一杯だった。

「あ、イタタタタタタ……!」

 便器に座ったまま、クニカは体を直角に折り曲げる。折り曲げた際に、クニカの首にぶら下がっていたものが、視界を下から上へ通り過ぎた。

 それは銀製のロケットである。べスピンでの一件以来、リンは銀製のロケットをクニカに預けている。このロケットが何なのかは、クニカには分からない。リンも「お守り」と言う以外、くわしく語ろうとはしなかった。

 それでも、今のクニカには何の不自由もなかった。不安なとき、あるいは勇気が必要なときになると、クニカはいつしか、自然とロケットを握りしめるようになっていた。ロケットを握りしめているだけで、クニカは不安がやわらぎ、勇気が湧いてくるような気がした。

 今回もロケットは役に立った。下腹部の張りは和らぎ、痛みはしぼんでゆく。両手足の力が抜け、肩から背骨にかけて、きしんだように痛くなった。足の付け根の部分から、生暖かいものが流れ落ちてゆく。

「ハァ……」

 上体を起こすと、クニカは便器の中をのぞいてみる。黒ずんだ便器の表層に、白い液体が張り付いている。精液スピェルマである。クニカは憂鬱な気持ちになった。

 リンから渡された小袋から、クニカは中身を取り出す。が、使う気にはなれなかった。壁際に腕を伸ばし、クニカは紙を取ろうとした。

 しかし、クニカの左手は、紙を支えているはずの留め金の前で空ぶる。

(ヒイーッ?!)

 声にならない叫び声が、クニカののどにこだました。紙がない。トイレットペーパーの芯さえない。クニカの視線が宙を泳ぐ。これだけ汚いというのに、トイレの個室の中には、歯磨き粉宣伝のくだらないビラもなければ、小便にまみれて朽ち果てているエロ本もない。

(どうしよう……)

 別の意味でもだえはじめていたクニカだったが、そのとき

「おい、クニカ!」

 と、せわしない足音とともに、外から声が響いてきた。リンの声である。

「あっ、リン!」

「クニカ、今な、ちょっとだけ……」

「り、リン、あのさ……」

「どうした?!」

「か、紙……そこらへんに無いかな?」

「――はぁ?!」

 リンのすっとんきょうな声が、クニカの耳に飛び込んでくる。

「お前……そういうオッチョコチョイなところ、どうにかしろよ」

「ご、ゴメン……」

「もう……ちょっと待ってろ……」

 その言葉と同時に、クニカの隣にある扉が開け放たれる音がした。どうやらリンは、用具入れの中から使えそうなものを取り出しているらしい。

「おっ……?!」

 リンが声を上げる。

「リン、あった?!」

「いや……まぁでも、無いよりはマシかな? ――ほら、クニカ」

 リンの白くて細長い腕が伸びる。クニカの個室へ、何かが投げ込まれた。

「ひぃぃぃぃっ?!」

 クニカの足元に投げ捨てられたそれは、湿り気を帯びて朽ち果てているエロ本だった。

「何が『ひぃぃぃぃっ?!』だ、バカ!」

 リンの怒号が飛ぶ。

「用が済んだらさっさと出るんだ」

「も、もしかしてリンも……?」

「バカ、ちがうよ! 一緒にすんな!」

 ようやく出たクニカだったが、そんなクニカの腕を、リンはすかさずつかみ取る。

「さっさと出るぞ。とにかくまずいことなんだ」

「『まずいこと』……?!」

 クニカの背筋にも、冷たいものがつたう。

「出るぞ。チャイが呼んでる――」

 二人はトイレを後にする。

◇◇◇

 ウルノワを抜け出してから、三週間が経とうとしている。今二人がいるのは、国道二十二号線沿いにあるガソリンスタンドだった。

 国道二十二号線は、山の中を蛇のようにうねっている。他の道よりもさびれているし、何よりもウルトラを目指すにあたっては遠回りになってしまう。だからリンははじめ、国道二十二号線を使うことをしぶった。

 しかし

「やめとけ、平野の道を通ろうとすれば、ギャングのエジキになる」

 とチャイは言うし、

「山沿いには建物があります。そこを伝っていけば、平野よりかは安全でしょう」

 と、シュムもチャイハネに加担するのだった。

 ――早い話、ウルノワでの一騒動以降、チャイハネとシュムの二人もクニカたちに合流していた。ウルトラ出身の二人は、リンやクニカよりも、このあたりの事情に通じていた。

 そんな二人の意見を尊重し、クニカたちのちょっとしたキャラバンは、山道を歩きながらウルトラを目指しているのだった。

◇◇◇

 外に出てみれば、空は夕焼けに覆い尽くされていた。眼下に茂るシュロやソテツの木とか、赤茶けたラテライトの土壌とかを見なかったことにすれば、美しい夜景である。

 トイレのそばのベンチに、チャイハネが座っていた。チャイハネは足を組んだまま、タバコを吸っている。二人が近づいてきても、チャイハネは微動だにしなかった。

 まごついているクニカのそばを、シュムが通り過ぎる。

「フンフンフーン……」

「あっ、シュム……!」

 リンの呼びかけに、シュムは全く気付いていないようだった。トイレ素通りすると、シュムはそのまま密林の中へと分け入ってしまう。

「どこ行くんだ、アイツ?」

「さ、さぁ……?」

 シュムの姿は、あっという間に見えなくなる。にもかかわらず、チャイハネはシュムを気にかけるそぶりさえない。

 近寄ると、リンはチャイハネの服の袖を引っ張った。

「おい、シュムがどっかに行ったぞ、いいのか?」

 リンを一瞥しただけで、チャイハネは何も言わない。

「ちょっと待て、オレのナイフはどこだ?」

 ベンチの背もたれに手をつくと、リンがあちこちを探し始める。

「チャイ、オレのナイフ知らないか?」

 顔を上げ、チャイハネはリンを見つめる。チャイハネはにこやかにほほ笑んでいたが、やはり何も言わなかった。

 リンの心に、灰色のもやがかかる。

「なぁ、オレの話聞いて……!」

「道路の向こうに森があるだろ? ちょうどこのベンチからまっすぐのところだ。盗賊がいる」

 笑顔を崩さないまま、さも世間話をするかのように、チャイハネが言い放った。

「……何だって?!」

「大声出すなよ、リン」

 足を組み直すと、チャイハネはくつろいだ様子で、タバコの灰を地面に落とす。

「あとそっち見るのも禁止だ。クニカも。いいね?」

「う、うん。えっ、でもシュムは――?」

「シュムはトイレの裏を回って、ソイツらのところに行ってる。懲らしめる気マンマンだ。……あ、あと『ナイフは借りる』だとさ」

「なんだ、そういうことか――って、おい!」

 リンはチャイハネにつっかかる。

「いいのかよ? 一人で行かせて」

「問題ないね。シュムをサポートしてるのはあたしだ」

 タバコを投げ捨てると、チャイハネは自分のこめかみを指でつついた。

「相手の注意をこっちに引き寄せておけば問題ない。だから自然に振る舞うんだ。世間話をしているようにね。質問は?」

「わ、分かった」

「わかったよ、クソッ――」

 ふくれっ面をしていたリンだったが、やはり茂みの奥に潜んでいる野盗が気になるらしい。ベンチに腰かけると、リンは腕組みをしたまま、しばらく身もだえしていた。しかしふと目を見開くと、リンは空を眺めながら

「――はぁーっ。しかし今日は暑いなぁ!」

 とか言い出した。

「夏にこんだけ暑かったら、フユハドウナルンダロウ?! ナァ?! チャイ?」

「死ね」

「はぁ?!」

「いや、ゴメンよ、リン。前言撤回だ。黙っててくれ、後生だからね。一分でいい」

「何だよ……ちぇっ」

 ふてくされたリンは、ベンチから足を投げ出してそっぽを向いた。クニカはひやひやしていたが、森の奥からは何の殺気も伝わってこない。

 日は刻一刻とかげってゆく。空はすでに墨色に染め抜かれ、星々が亜熱帯の夜空を照らしだしていた。“黒い雨”の降らない夕暮れには、虫の羽音や、鳥の鳴く声が、より際立って聞こえてくる。

 パーカーのポケットに手を突っ込んだまま、クニカは所在なくつっ立っているしかない。リンは腕を組んだまま、貧乏ゆすりをしていた。チャイハネはと言えば、マッチ箱をせわしなくいじっている。もう一本タバコを吸うか、がまんするかで迷っているらしい。

 すると突然、森の中から悲鳴が上がった。風船から空気が抜けるかのような滑稽な悲鳴に続き、オウムの群れが一斉に木々から飛び立ってゆく。叫び声は断続的に聞こえてきたが、

「いてえええええっ?!」

 という悲鳴を最後に、あたり一帯は不気味な沈黙に包まれた。

「おい、ちょっと」

 リンが肘でチャイハネをどつく。

「どうなってるんだよ? シュムは? あいつは大丈夫か?」

「どうもしちゃいないよ。なるようになっただけさ。……そうら、シュムが帰ってきた」

 肩をすくめていたチャイだったが、暗闇に向かって突然手を振りだした。ほどなくしてシュムがやってくるのを、リンは目を細めて見ている。

 鷹の魔法使いであるリンは、誰よりも遠目が効いた。しかしそれは、あくまで昼間限定だ。夜になったら、梟の魔法使いであるチャイハネの方がずっと遠くまで見渡せる。

 暗闇の中から、シュムが姿を現した。褐色の肌に銀色の髪、そして紫水晶アメジスト色の瞳を持っているのが、このシュムという少女である。

 ウルノワにいた際、リンは

「シュムだっけ? 元気になったら、チャイハネもろとも一発ぐらいぶん殴っておかないと――」

 と口走っていたが、チャイハネはともかくとして、リンがシュムをぶっ飛ばすことは一生ないだろう。

 ウルノワを抜けてすぐのときならば、リンにも勝ち目はあったかもしれない。しかしシュムの体調が万全になった今となっては、リンといえどもシュムには勝てないだろう。シュムの体は筋肉質で、それでいながらきれいに引き締まり、女性らしい稜線りょうせんが維持されている。ゴツゴツした印象はなく、むしろしなやかさがきわだっていた。これでもう少し背が高ければ、完璧だったにちがいない(実際のところは、クニカよりもちょっと低かった)。

 「完璧なプロポーション」という言葉は、おそらくシュムのための言葉なのだろう――と、クニカは内心思っている。転生する前、性別が転換してしまう前にこんな少女に会っていたら、クニカなどイチコロだっただろう。正直クニカは、ややもすればシュムにくぎ付けになってしまう。

 それは今回も同じだった。

「どうかしましたか、クニカ?」

「え、いや……別に……」

 シュムに尋ねられたクニカは、あわてて目をそらした。誰に対しても言葉づかいがていねいなのが、シュムの特徴だった。

「シュム、お帰り」

「ただいまです、チャイ」

 チャイハネの言葉に、シュムが肩をすくめる。

「シュム、オレのナイフを返してくれよ――」

「あ、ごめんなさい、リン」

 シュムは自分の唇に指をあてると、いたずらっぽく微笑んでみせる。

「いや……別に……」

 そんなシュムの様子に、リンはばつ悪げに頭を掻く。リンのポニーテールの房が、クニカの前でゆらめいた。

「そんなに気にしてるわけじゃなんだけどさ……うおっ?!」

 シュムが右手で、何かを放り投げる。大きくて長いものが地面に落下し、音を立てた。いち早くそれに気づいたリンが後ずさり、

「ひいっ?!」

 どんくさいクニカは、リンから一テンポ遅れてのけぞった。シュムが投げ捨てたのは、蛇だった。リンのポニーテールよりも長く、クニカの腕よりも太い。

 蛇はとっくに死んでいた。ヘビの脳天には、リンのナイフが深々と突き刺さっている。

「四の字固めをしているときに、脇を通ったんです」

「四の字固め……」

 クニカの言葉を受け、シュムの目がきらりと光った。

「クニカ、かけてあげましょうか?」

「へ? い、いや、いいです」

「遠慮はいりません、クニカ。優しくかけてあげます」

 獲物を狙うネコのような、やけに爛々とした瞳で、シュムはクニカの方をじっと見つめてくる。そんなシュムのまなざしを受け、クニカはどきりとする。ときめいているわけではない。どきどきしているだけだ。

「――そんで? 野盗の方は?」

 蛇からナイフを抜き取ると、リンはぼろきれで刀身を拭う。

「シュム。二人に説明してやれよ」

 口から煙を吐きながら、チャイハネが言った。結局チャイハネは、タバコの誘惑に負けたらしい。

「全部で三人いました。とりあえず鎖骨は全員分折ってあります」

 爛々とした目のまま、シュムが答える。

「一人はあごの骨と、肋骨とを、もう一人は手首の骨と、足の骨とをそれぞれ折りました。後の一人には……ちょっとかわいそうなことをしました。蛇にナイフを突き立てているときに思わず力んでしまって、膝の関節が反対方向に――」

「おい、クニカ、泣くなよ、バカ!」

「だ、だって……」

 だって、怖いのである。クニカには、骨の折れる湿った音が耳元で聞こえるような気がしてきた。

「ま、いいんじゃないかな?」

 タバコを口に咥えたまま、チャイハネは地面に伸びきっているヘビに近づく。蛇の亡骸をつかみ取ると、チャイハネはそれを自分の首に巻きつけた。

「三人とも、もうちょっと先へ進みましょう。野郎たちの話では、もう少しでモーテルがあるそうです」

「いいねぇ! シャワーでも浴びたいもんだけど」

「チャイと一緒なら、私はどこだって平気です」

 二人の背中を見送りながら、リンがしきりにクニカに目配せしてきた。

 それに対し、クニカもあいまいにうなずくしかなかった。チャイハネとシュムの二人でなくて良かった、と考えるだけで、今のクニカには精一杯だった。

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