第27話:一癖も二癖も(Автоприцеп)

 かび臭い図書館の内部を、チャイハネは縫うようにして進んでいく。図書館の中は荒れ果てていた。本は無造作に床に投げ出され、埃にまみれている。ブラインドは隙間無く閉められているため、外からの光が届かない。

「こっちだよ」

 と、チャイハネは階段を上がる。二階は吹抜けになっていた。

 扉の前で立ち止まると、チャイハネはその扉を開ける。

「入ってくれ」

 言われるがまま、クニカもリンも中へ入ろうとする。しかし、中から漂ってきた悪臭のために、二人は扉の手前で立ちすくんでしまった。それは、血の臭いと、雨の臭いとが入り混じったような臭いだった。

 クニカの見る限り、部屋は狭かった。元々は資料の閲覧室か、雑誌のバックナンバーを保管しておくためのスペースだったのだろう。部屋の資料は全て片付けられ、代わりに一台のベッドが我が物顔で陣取っていた。もっとも、このベッドさえもが、分厚い本を敷き詰めて作られた、簡易的なものだった。

「あ……ぁ……」

 部屋の中から、人の声が聞こえてきた。と同時に、毛布が捲れ上がり、ベッドの隅から、人の腕が突き出してきた。褐色の指が、何かをつかもうとするかのようにうごめく。顔を見ることはできないが、チャイハネの親友だろう。

「シュム、」

 ベッドの側に行くと、チャイハネは、突き出された手をいたわるようにつかんだ。チャイハネの友がシュムという名前であることを、クニカは思い出した。

「今助けるからね、待ってな」

 水の入った盆を寄せると、チャイハネはその中に血漿けっしょうを浸した。手を伸ばし、チャイは積まれた本の上から、何かを手に取った。天井の照明を受けて鈍い光を放つそれは、メスだった。

「シュム、ガマンして――」

 左手でシュムの手首をつかんだまま、チャイハネがメスをシュムの間近まで持ってくる。チャイハネは、メスをシュムの手に突き立てたの“だろう”。――“だろう”というのは、クニカがその瞬間に視線を逸らしていたからである。シュムの喉から、しぼり出すような悲鳴がほとばしる。隣では、リンが拳を固く握りしめていた。

「ダメだな、これ以上はダメだ」

 シュムの手から血を搾り出しながら、チャイハネが言った。

「これ以上はムリだ――血圧が下がりすぎる――」

 言いながら、チャイはガーゼを手際よくシュムの手に当てる。チャイハネは、自分自身に話しかけながら行動するタイプの人のようだ。

 壁に張られている模造紙をつかむと、チャイハネはそれを、下に向かって引きちぎった。壁の表面には、魔法陣が描かれている。魔法陣は赤黒い色をしていた。どうしてそんな色なのか、クニカはできるだけ考えないようにする。

「クニカ、リン、ちょっと手伝ってくれ」

 血漿製剤の蓋を取ると、チャイハネは盆の中に、数滴の血漿を垂らす。

「反対側の模造紙を取ってくれないか? 魔法陣を書き足してほしい」

「書き足すって……、オレもクニカも魔法陣なんか知らないぞ」

「繋ぐだけだよ。できるだろ? インクはこれだ」

 乳鉢に溜まっているシュムの血を、チャイハネは盆の中に移す。シュムの止血を終え、包帯を縛った後、今度はチャイハネが自分の手にメスを通した。バターをナイフでかすめ取るかのように軽やかな動きだったが、血が水鉄砲のように噴きだした。チャイハネは顔色一つ変えなかったが、心の色が真っ赤に輝いたのを、クニカは目撃してしまった。

「頼んだよ」

 盆に溜まった血を、チャイハネはリンに手渡す。リンは無言のまま盆を受け取った。チャイハネの言葉は平静で、平静であるがゆえに、鬼気迫るものが感じられた。

 壁際に寄ると、クニカとリンはさっそく作業に入る。魔法陣はほとんど完成していた。円が欠けていたり、線が途切れているところには、チョークで下絵が施されている。クニカが血生臭い盆を握りしめ、リンがその中にブラシを浸し、インクを下絵の上から重ねてゆく。インクは滲むこともなく、壁に密着した。

「……やったぞ」

「よし。二人とも離れて」

 チャイハネに言われるがまま、クニカとリンは小部屋を抜け出した。残った血漿製剤は、点滴として繋がれている。壁に描かれた魔法陣を確かめながら、チャイハネは飛ぶような速度で手元の本のページをめくっている。

 チャイハネのめくる本のページを遠くから見たクニカは、そこに多種多様な魔法陣が描かれているのを垣間見た。チャイハネがやろうとしているのは手術ではない。人の命を救うという、神秘そのものなのだ。

「シュム、いくよ」

 そう呼びかけると、チャイハネは血だらけの手で親友の手をつかんだ。声こそ上げないものの、彼女がチャイハネの手を握り直しているのが、クニカにも分かった。

 空いた片方の手で、チャイハネが魔法陣に触れる。触れた瞬間、魔法陣から火花が飛び散った。と同時に、部屋の両側面に描かれた魔法陣から、強烈な閃光がほとばしる。片方の魔法陣は鮮やかな赤色を、もう片方の魔法陣は褪せた青色を放ち、部屋に留まっているチャイハネたちに降り注ぐ。

 隣でリンが、何かを叫んだ。クニカには、ただ叫んだことだけしか分からない。意味ある言葉を口にしていたとしても、クニカがそれを理解する術は無かっただろう。

 部屋全体から、不気味な鼓動が伝わってくる。突発的で不安定な鼓動により、盆はひっくり返り、溜まっていた血液が床を染めつくした。点滴を支えている支柱が、せわしなく揺れる。吊るされていた血漿製剤の袋が、急速にしぼんでいくさまが、クニカにも見て取れた。

 部屋全体の鼓動も大きく、強くなっていく。クニカも鼓動の意味に気付いた。小部屋全体に伝わる振動は、心臓の鼓動なのだ。

 やがて光が収まった。あたり一面が、急に暗くなったような錯覚を受ける。脈打っていたはずの小部屋は、血とカビの中に埋もれる。

「シュム――?」

 親友の名前を呼ぶと、チャイハネが彼女の手を握りしめた。握りしめたまま、チャイハネは動かない。クニカもリンも、その場で固まっていた。ほかにどうしようもなかったのだ。

 しばらく、誰も動かず、誰も言葉を発さなかった。クニカが逃げ出したい衝動に駆られた、そのとき、

「あ……」

 という小さなため息が、ベッドの中から聞こえてきた。チャイハネが、ベッドの脇にしゃがみ込む。

「お嬢さん、気分はどうだい?」

「さ、最高です……チャイ」

 チャイハネの手が、親友によって強く握り締められた。

「て……天にも昇る気持ちです」

「あはん。そうかい? フフフ――」

 チャイハネの表情に、ゆっくりと、目に見えないほどゆっくりと、微笑の波が広がっていった。押さえきれない興奮の火花が、チャイハネの瞳の中にちらついていた。チャイハネの閉ざされていた心の色が、クニカの目の前でほとばしった。それは白く、どこまでも澄み渡った、光そのものの色だった。

「う……っ」

 いつの間にか、クニカは泣いていた。目頭が熱くなり、呼吸をするたびに心臓が高鳴る。リンに見られたら恥ずかしいから、クニカはそっと後ろを向き、吹き抜け部分の手すりに寄った。

「ばか。何でお前が泣いてんだよ」

 ――が、すぐにリンに見つかってしまう。

「だって……だって……」

「まったく……ホントお人よしだな、お前。――でも助かって良かったよ」

「うん……」

「ひやひやしたけどな。――あ、言っとくけどな、クニカ。オレは許したわけじゃないからな? 許すとしても、半分ぐらいだからな? シュムだっけ? 元気になったら、チャイハネもろとも一発ぐらいぶん殴っておかないと――」

 リンが言い終わらないうちに、突然衣を裂くような悲鳴があがり、図書館の中にこだました。悲鳴は一階から聞こえる。コイクォイの発した声に違いなかった。

「あそこだ」

 薄暗い一点を、リンがすかさず指差した。数匹のコイクォイが、図書館の入り口から内部へと侵入している。コイクォイが動くたび、積もっていた埃が舞い上がる。

「どうした?!」

 声を聞きつけ、チャイハネが飛び出してきた。

「コイクォイだ。三匹いる」

 チャイハネは舌打ちする。手すりから身を乗り出すと、チャイハネは一階を見渡した。

 立ち込める埃の中を、クニカも見渡してみる。コイクォイが悲鳴を上げたのは一回きりだった。今は物音一つしない。

「隠れてる……のかな?」

「ばか。そんなわけ――」

「いや、隠れてるよ」

 チャイハネの答えに、リンが眉をひそめる。

「そんな知恵あんのかよ?」

「目が見えない分、音に敏感なんだよ。周囲の物音を聞いたり、自分の悲鳴がどうこだますかを聞いて、物の場所を把握するんだ。それができないときは、静かにしている。待ち伏せてるんだな」

「へぇ? 最高だな?!」

「だろ? あたしはそれで親友を失いかけた」

 クニカはクスリとも笑うことができなかった。

「それに、三体じゃない。四体だ。あそこにもいるよ」

 と、チャイハネは暗がり指をさした。クニカは目を凝らしたが、何も見えなかった。

「ホントかよ?」

 リンも見えないらしい。

「嘘ついてどうすんだ。……さぁ、さっさと片付けよう。あ、音は立てないように」

「クニカ、お前はここに残ってろ。おれとチャイハネとで――」

「いや、クニカも一緒だ」

「何でだよ! クニカのことを決めるのはオレだぞ!」

「せめてクニカに決めさせてやれよ……」

 あまりと言えばあまりのリンの発言に、さすがのチャイハネもしかめっ面をした。

「よくこれまで上手くやってこれたね? なぁリン、キミ、クニカに足を向けて寝れないよ?」

「えっと、その……役に立つんだったら……」

「大助かりさ。あそこに彫像があるだろ?」

 チャイハネの指示する方角には、大理石製の彫像が立っている。

「あれをそのまま、右へ真っ直ぐ投げるんだ。念力で」

「や、やってみる……」

 彫像に意識を集中させると、クニカはそれが右へ飛ぶさまを、頭の中でイメージした。イメージに続けて、彫像が右へふっ飛ぶ。彫像は激しくスピンしながら、本棚の間に飛び込んだ。その瞬間、コイクォイの悲鳴が聞こえ、すぐに途絶えた。

「残りは三匹――」

「ちょっと待て。お前何でクニカの――」

「後で説明するから。今はほら、早く」

 淡々と語るチャイハネの隣で、リンがすっぱいような表情をしていた。クニカとリンは、そろって一階まで降りる。その後ろからチャイハネが続いた。

(あそこだ)

 クニカの脳内に、チャイハネからの声が流れ込んでくる。と同時に、チャイハネがどの方角を指しているのか、クニカにも直感的に分かった。

 うさん臭そうな顔をしながらも、リンはナイフを取り出した。本棚の本にナイフを突き立てると、リンはナイフを振って、本を床に落とす。

 落ちた本の音に反応して、一匹のコイクォイが飛び出してきた。コイクォイの頭が本棚の間から飛び出した瞬間、リンがすかさず飛び蹴りを喰らわせる。リンの足についた鷹のかぎ爪が、コイクォイのもろい頭を粉々にした。首無しになったコイクォイは吹き飛び、机に激突して動かなくなった。

(“鷹”の魔法使いか、なるほどね)

 テレパシーに乗って、チャイハネの呟きが届いた。今の物音に反応したのだろう。リンの側にある本棚の奥から、もう一匹のコイクォイが姿を現した。

 コイクォイの足が、うずたかく積まれた本に引っ掛かる。本の山がぐらつき、脇にあった本棚にもたれかかる。金属のはじける音が、クニカの耳に届いた。――本棚を支えていたリベットが弾けたのだ。

 すかさずナイフを構えたリンだったが、真の敵はコイクォイではなかった。

「ちょっ、おい――!」

 本棚が傾き、積まれていた本がリンへふり注ぐ。

「リン――?!」

 声を上げたクニカだが、本と埃の中に埋もれ、リンの姿は見えない。本の崩れた音に反応したのか、コイクォイがリンの方向へ肉薄している。

 クニカはすかさず、コイクォイめがけて腕を伸ばした。コイクォイの体が地面を離れ、横へ吹き飛ぶ。コイクォイの身体からだは本棚にぶつかり、叩きつけられた衝撃で動かなくなった。

「リン、大丈夫?!」

「大丈夫だ、クニカ。クッソー……引っ張ってくれないか?」

 傾いた本棚が、リンの上にのしかかっていた。本を脇にどけつつ、クニカはリンを山から引きずり出そうとする。

 リンの腕に、クニカが手をかけた、そのとき。クニカの背後で悲鳴が上がったかと思うと、何かが倒れる音がこだました。

「おい、クニカ、チャイが――!」

 最後のコイクォイが、無防備なチャイハネに飛びかったのだ。チャイハネはかわすのに失敗し、床に倒れ伏している。コイクォイは、チャイハネに牙を剥こうともがいている。

 チャイハネは懸命にコイクォイの頭部を押さえているが、コイクォイの顎は、少しずつチャイハネの喉に近づいていく――。

 そのときだった。クニカの視界を、銀色に光る何かがかすめ、コイクォイの喉に届いた。途端、コイクォイの腕が、足が、そして頭が、がくりと垂れ下がる。垂れ下がったコイクォイの頭部には、短弓アーチの矢が刺さっていた。

「ハァ、ハァ……」

 暗がりの中に立っていた人物が、構えていたアーチを下ろす。銀色の長い髪に、アメジスト色の瞳を持った少女だった。

「シュム……」

 コイクォイの亡骸を脇にどけると、チャイハネが少女――シュム、に近づいた。体力を振り絞って、シュムはここまでやって来たのだろう。

 チャイハネの腕にすがるように、シュムはしなだれかかる。そのしなやかな動きは、クニカに

 豹

 を連想させた。

「あんがと、シュム。助かったよ」

「お互い様です、チャイ」

 チャイハネにもたれかかったまま、シュムは自分の顎をチャイハネに差し出した。チャイハネも目を閉じ、シュムの唇にそっと自分の唇を近づける。

「おい?! ちょっと?! ええっ?!」

 自力で本の山から這い出してきたリンが、口づけを交わしている二人を見て、すっとんきょうな声をあげた。

「どうした、リン? どうしてもやりたいんだったら、クニカと一緒にやりな」

 唇を離すや否や、チャイハネはわざとらしく肩をすくめてみせた。

「二人とも、ありがとうございます。私もチャイも助かりました」

 シュムが、礼儀正しく二人にお辞儀をした。礼はきびきびしており、身のこなしは優雅である。声もよく通るし、品がいい。

「そ、そうですか……」

 クニカには、そう返事するのが精一杯だった。どうやらこの二人、一筋縄ではいかないらしい。

 日の没したウルノワの上空に、稲光がほとばしった。“黒い雨”がゆっくりと、大地を濡らしていった。

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