第24話:トスカ(Тоска)

【グロ注意! 食前食後の方はご注意ください】


なんじら、如何などか主に倍畔そむきて叫びたるか(お前たちは、どうして主の御心に背いて叫ぶのか)。

『アダムの黙示録』、第45節

 二階に広がる闇の中を、クニカとリンの二人は、手探りで進んでいく。前を歩いていたリンが、おもむろに

「静かだな」

 と言った。生唾を飲み込むと、クニカもうなずき返す。

 耳に入ってくる音は、一階から響くコイクォイの悲鳴と、二人の足音とだけである。病院の一階がコイクォイどもの巣窟そうくつだとするのならば、二階もまた、そうであるはずだ。ところが実際は、墓石のように静まり返っている。まるで何者かが、二人がわなへとはまり込んでいくのを、息を殺して待ち受けているかのようだった。

 そのときだった。唐突に

「わはははははは!」

 という笑い声が響いてきた。声がするや否や、前を歩いていたリンが横へと駆け出した。反射的に、クニカもリンの背中を追う。

 リンが男子トイレに飛び込む。――隠れるつもりなのだ。二人してトイレの一番奥に陣取り、そこで息をついた。

「なんだよ今の」

「わ、分かんないよ……」

 そう答えるのが、クニカにはやっとだった。不気味な笑い声は、クニカの耳にこびり付いたまま、なかなか離れようとしない。

 階段で聞いた「助けてくれぇ」という声も、今聞いた笑い声も、声音は違っている。しかし、複数の人間が二階にいることは、考えられなかった。

「行こう、クニカ」

 リンに促されるまま、クニカもナイフを構えた。

◇◇◇

 男子トイレの入り口から身を乗り出すと、二人は廊下に出た。出た瞬間、

「ママー!」

 という声が、進行方向から聞こえてくる。言葉とは裏腹に、甲高い老人のような声だった。クニカは逃げ出したかったが、リンがクニカの手首をつかんで離さなかった。

「クニカ、こっちだ!」

 またしても二人は、部屋の中へと逃げ込んだ。男子トイレの隣にある、待合室だ。

 待合室のテーブルにしがみつくと、クニカはお腹の底からため息を絞り出した。姿が見えないことが、これほどまでに恐ろしいことであるとは、クニカは夢にも思っていなかった。

「クニカ、大丈夫か?」

 クニカの脇にしゃがむと、リンが小声で話しかけてくる。

「リン……もうヤダ」

「バカ。オレだってヤだよ」

 かく言うリンの腕も、鳥肌で埋め尽くされている。

「クニカ、地図を思い出せ」

「地図……?」

「南階段ってのがあっただろ?」

 二階の壁にあったマップを、クニカは思い出す。二階と三階は北階段だけでなく、南階段によってもつながっているはずだった。

「そこへ行くんだ。そうすれば三階まで上れる」

「でも……今の声……」

 右手に持っているものを、リンはクニカの前に掲げてみせる。それは魔法銃だった。魔法銃の留め金を外すと、リンは魔法陣の描かれたカートリッジを、クニカに見せつける。

「これでおびき寄せる。カートリッジをオレが投げるから、クニカが火をつけるんだ。隙を見て、南階段まで行く。できるか?」

「うん……」

「よし、――これが最後のカートリッジだからな。ヘマすんなよ」

 言葉を切ると、リンは正面の扉まで近づく。扉をそっと開くと、リンはカートリッジを滑らせるようにして投げ込んだ。

 カートリッジに火がつく様子を、クニカは頭の中で思い浮かべる。外からの光を受け、まぶたの裏が明るくなった。祈りが届き、火がついたのだ。

「クニカ、もたもたするなよ――」

 リンが扉の脇へと寄った、そのときだった。

 建物全体が大きく揺れ、今までに聞いたことのないような破壊音が、二人の背後から聞こえてくる。音に混じって、化物の悲鳴も聞こえてきた。コイクォイの悲鳴である。

 待合室にひびが入り、背後の壁が吹き飛ぶ。扉の蝶番ちょうつがいが外れ、燃え上がったカートリッジが怪物の姿を照らした。

 怪物は、既に人間としての面影を留めていなかった。つき出した脚から、怪物がかつて人間だったことが、辛うじて分かるだけだ。全身は膨れ上がり、表面には乳房のようなものが無数に張りついている。乳房の一つ一つは不規則に膨れ上がり、黒い体液が滴っていた。

「逃げろ!」

 リンの叫び声が聞こえたのと、怪物の乳房が盛り上がり、クニカめがけて「ぶっ」という音とともに液体が吐き出されたのは、ほぼ同時だった。腰が抜けかけ、クニカ思わずよろける。しかし、それがクニカの命を救った。飛び出した黒い液体はクニカの脇に反れ、壁にぶつかって湯気をたてる。

「早く!」

 リンの声に従って、クニカも全速力で逃げ出す。どうすればいいのかという判断など、頭の中に全く浮かんでこない。

 ただ一つ分かることと言えば、怪物は正面にいなかった、ということだけだ。怪物はずっと、もう一本の通路の奥にいたのだ。大きすぎる叫び声は、二階の壁中を反響していた。そのせいで「怪物は正面にいるもの」と、クニカもリンも錯覚してしまったのだ。

 正面扉を抜け、燃え上がるカートリッジの脇を、二人は駆け抜ける。駆け抜ける最中、黒い粘液にまみれて死んでいる一匹のコイクォイを、クニカは目撃する。

 クニカの思考の中で、全てが明白になる。二階が静寂に包まれていたのも、この怪物トスカのせいだ。怪物はその力を発揮し、二階のコイクォイをかたっぱしから叩き潰してしまったのだ。

「こっちだ――!」

 リンが正面の扉を蹴破る。【群病室】と書いてあるプレートが、扉と一緒に弾け飛んだ。クニカがその中へと転がり込んだ矢先、

「ああっ?! はっ?! はっ?! はっ?! はっ?! はぁっ?!」

 という、笑い声とも恐喝とも言いがたい声とともに、怪物が待合室の壁をぶち抜いてきた。火のついたカートリッジを踏み潰すと、怪物はそのまま群病室まで入り込んでくる。

 二階全体が墓場だとすれば、この群病室は地獄ゲヘナそのものだった。床に無造作に敷きつめられているマットレスには、シミのついていないものは一つもない。――いったい何のシミなのだろう? クニカには分からないし、分かりたいとも思わなかった。うろついているゴキブリが、クニカの足下で踏み潰される。前を走るリンの足跡が白い。ウジが潰されているのだ。何かの塊かたまりにたかっていたハエは一斉に飛び去り、カーテンレールにしなだれかかっていたカーテンの残骸に殺到する。

「クニカ――!」

 振り向くと、リンが叫んだ。群病室にあるもう一つの扉を抜け、南階段を上がるつもりなのだ。

 しかし、上に進んだところでどうなるというのだろう? 怪物は執拗しつように二人を追いかけてくるだろう。上手く逃げられるとは思えない。

「ママあああああああ?!」

 またしても怪物が叫ぶ。ハエのうなりとあいまって、叫び声はクニカの耳の中をのたうった。息をしないよう努力しても、猛烈な腐臭は容赦なくクニカの鼻孔に殺到し、嗅覚をえぐってくる。息をしないのならば、吐くしかない。

 クニカは限界だった。群病室の壁際、ハエの卵が無数に付着したカーテンに倒れこむ。倒れこんだ衝撃で卵がつぶれ、クニカのパーカーが汚れた。

「クソッ――!」

 扉の前に陣取っていたリンが、化物とクニカの間に割って入ろうとする。だがもう手遅れだ。化物の乳房が一つ膨らみ、クニカに黒い液体を吹きつけようとする――。

 その瞬間、クニカの背後から光が刺し込んだ。怪物の動きが止まり、膨らんでいた乳房が、二人の目の前で弾け飛んだ。

 カーテンにしがみついていたクニカだったが、そのカーテンが破け、外の光景が広がった。相変わらず空は雲に覆われている。しかし、雨は止んでおり、雲の亀裂から光が差し込んでいた。

 スコールは止んでいたのだ。ハエのうなる音にかき消され、二人はそのこと気付かなかった。

「イイイイイイイ?!」

 怪物が声を上げる。しかし、今までと異なり、その叫び声は苦痛に満ちていた。光を受け、怪物は身もだえしていた。

 左手で鼻をつまみながら、クニカは必死に念じる。部屋を覆っていたカーテンが、クニカの神通力バジェステネで一気に引き裂かれる。

 かすかな光で、群病室が明るくなった。怪物には、それで十分だった。

「おねえちゃああああんん?!」

 断末魔の叫び声が、怪物の体からほとばしった。体中の乳房が炸裂さくれつし、黒い液体が怪物の身体からだにかかる。かかった黒い液体が怪物の身体を溶かし、またしても乳房を弾けさせる――。

 クニカとリンの目の前で、怪物の身体からだはバターのように溶けていき、とうとう跡形もなくなってしまった。

「大丈夫か、クニカ?!」

「だ、だいじょ――ううっ……?!」

 立ち上がったクニカだったが、胸のえずきを抑えることができなかった。見られるのは嫌だったが、リンの眼前で腰を折り曲げると、クニカは吐いた。喉は痛くなり、胃液が鼻を逆流してむせ返る。むせ返っているクニカの背中を、リンは何度も叩いた。クニカの吐き捨てたものに溺れ、ハエが何匹か慌てふためいている。

 左手で口元を覆ったまま、クニカは群病室の外へ出た。出ると同時に、リンが扉を閉める。

 ハエを追い払い、膝に這いよるウジを払いのけると、クニカは空気を鼻から一杯に吸い込んだ。

「ハァ……ハァ……」

「――命拾いしたな」

「うん」

 リンの言うとおりだった。一歩間違えていたら死んでいただろう。膝に手をついていたクニカだったが、ようやくリンに向き直る。

 リンの顔色は、紙のように白い。

「リン……大丈夫?」

 答える代わりに、リンはかぶりを振った。

「行こう。とにかく」

 リンの声は小さかった。それでもクニカは言われるがまま、リンと一緒に南階段を上る。ここを登れば、三階に辿り着くはずだった。

 雲は消え、穏やかな日差しが、病院を照らし始めていた。

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