第25話:異邦人(Нееврей)

なんじまった意思こころみってを究めんと欲すれば、なんじうちに在りしの善を知るべし(お前が完全な探求心をもって捜し求めるとするならば、お前は自らの心の裡に、あの善があることを知るであろう)。

『アロゲネス』、第9節

 南階段を登り、クニカとリンは三階にたどり着いた。スコールが降っていたことなど嘘のように、日差しが三階に降り注いでいる。

 死体さえなければ、拍子抜けするほど穏やかだった。

「リン。変じゃない?」

「何がだよ?」

「この人の服」

「服?」

 死体は白衣を身にまとっている。しかし、その白衣は厚手で、医者が着るものとは異なっていた。肩の辺りには青い線が刺繍ししゅうされており、一見したところ、制服のようだった。

「今はいいだろ。それより、これだよ」

 リンは、壁にある案内図を指さした。そこには、【院長室】と書いてある。

「ここだ。探すぞ」

「うん……」

 リンに言われるがまま、クニカも院長室を目指す。

◇◇◇

「――あった!」

 院長室の扉を蹴破ったリンが、部屋に入るなりそう言った。院長室の壁には、各部屋の鍵が、フロアごとに吊り下げられている。

「これだ!」

 駆け寄ると、リンは最下段にある鍵をつかみ取った。クニカがのぞき込んでみれば、鍵には【地下棟】とラベルが貼ってある。

「これで……」

 そう言ったきり、リンは口をつぐんでしまった。

「――リン?」

「クニカ、あれ、何だと思う?」

 リンの指さす先、院長の机の上には、機械があった。機械の表面には、幾つものダイアルがついており、アンテナが突き出している。

 見つめてくるリンに対し、クニカもかぶりを振るしかなかった。院長室にはふさわしくない機械だろうということは分かる。しかし、この機械が何かは、クニカにも分からない。

「とにかく、リン。一階まで――」

 行こう、と、クニカが言いかけた矢先、クニカとリンの耳に、ガラスの割れる音が響いてきた。音は通路の南側、二人が先ほど通り抜けてきた地点からだ。

 クニカもリンも、とっさに身をかがめ、息を殺した。リンは耳を澄ませ、音の正体を探ろうとしている。

 音の方角に目を向けたクニカは、二つのオレンジ色のもやを発見した。

「人だ――」

「人?」

 クニカの言葉に、リンが眉をひそめる。

「二人いる」

「どういうことだよ、二人って――」

「――イネ・ドゥオ」

 二人の会話を遮って、外から声が響いてきた。男の声だった。男は、もう一人に呼びかけているらしい。

「エツィ・デ・ニナイ?」

「ネイ」

 もう一人が答える。答えた方もまた男だった。と同時に、その男の息を呑む音が聞こえてくる。

「ポ・ポヮ! イネ・ネクロス!」

「アネトゥス。ニコル、」

 声の大きくなった男に対し、もう一人がたしなめるような声音で応じる。

「カンネ・ティ・ディキ・サスィ・ピヒリシ」

 クニカの隣で、リンが苦虫を噛み潰したような表情をしていた。今までに聞いたことのない言葉の応酬に、リンはたじろいでいる様子だった。

 だが、クニカは違った。

「〈見ろ! 死んでるぞ!〉」

「〈落ち着け、ニコル。仕事に集中するんだ〉」

 どういうわけか、クニカには二人の会話が分かった。耳に入ってくるのは、不明瞭な声のうねりだが、クニカの頭の中では、それが明瞭な意味をつむぎ出している。知らない言葉が瞬時にして翻訳される感覚は、奇妙な感覚だった。

 二人の異邦人アロゲネスは、院長室まで近づいてくる。姿勢を低くしたまま、クニカとリンは別の扉を使って、隣の医務室まで逃げ込んだ。

 通路側に据えてある医務室の窓に、一瞬だけ男たちの姿が映りこむのを、クニカは見て取った。これほど蒸し暑いのにも関わらず、二人とも厚手の白衣を身にまとっている。死体が着ていたのと同じものだ。

「〈これが落ち着いてられるか、イーゴリ〉」

 背の高い方が、肩幅のがっしりした方に言い返す。今話しているのがニコルで、話しかけられているのがイーゴリという名前らしい。

「〈俺たちもいつかこうなる。俺は嫌だぜ。こんな死に方をするなんて〉」

「〈誰だってそうだ〉」

 ニコルの言葉に、イーゴリが応答する。

「〈ここでしくじってみろ、ニコル。こいつらの仲間入りだぞ〉」

「〈俺は牧場に戻りたいんだ〉」

 ニコルは声を絞り出したが、イーゴリから返事はなかった。院長室の扉が、乱暴に開け放たれる。

「〈馬の面倒を見ていたい。その方が俺には――〉」

「〈あったぞ!〉」

 声とともに、足音が響いてくる。壁一枚を隔てて、クニカとリンは医務室に、ニコルとイーゴリは院長室にいるようだった。

 ナイフを構えるリンに対し、クニカは首を振って応じた。

(リン、待って)

 喋ることができないため、クニカは共感覚テレパシーを用いてリンに告げる。メッセージを受け取ったリンが、怪訝けげんな顔をした。

 イーゴリの心の色が、緑色に輝く。

「〈これだ。回収するぞ、ニコル〉」

 イーゴリに言われ、ニコルは机に回り込んだようだった。どうやらニコルとイーゴリの二人は、机の上の機械を相手にしているらしい。

「〈よし、俺が持つ。……くそっ、重いな〉」

 悪態をつくイーゴリを尻目に、ニコルは窓際へ寄ると、窓を開け放った。外からの日差しを受けて、ニコルの影がクニカの隠れている方向まで伸びる。

 その影が、クニカの眼前で膨れ上がった。驚いてクニカが見上げると、院長室の一画を、鷹の翼がふさいでいた。隣でリンが小さく息を漏らすのが、クニカの耳に届く。

 リンと同じように、この男たちも鷹の魔法使いなのだ。そういえば二人が登場したときも、ガラスの割れる音がした。スコールが止むと同時に二人は飛び立ち、窓を破って三階から侵入したのだろう。

「〈イーゴリ、大丈夫か? 飛べるか?〉」

「〈いや……ちときついな。狭すぎる。この通信機を落としたら終わりだからな、歩いて降りよう〉」

「〈分かった〉」

 クニカの視界から、ニコルの翼が消える。ニコルとイーゴリは分担して通信機を抱え、一階まで降りるつもりらしい。二人の足音は、院長室から遠ざかっていった。

 それを合図に、クニカもリンも静かに動き出した。ほとんど這うようにして、足音と反対方向へ進む。二人は北へ向かったらしい。少し遠回りになるが、南から一階へ降りれば、鉢合わせしなくて済む。

「何だったんだよ、アイツら?」

 リンが小声で、クニカに尋ねてくる。

「わ、分かんない。通信機を持ってったみたいだけど」

「通信機?」

「さっきの機械だよ」

「ちょっと待て、クニカ。なんであれが通信機だって分かるんだよ」

「えっと、その、よく分かんないけど、何言ってるのか分かった、みたいな――」

 しどろもどろなクニカの言葉に、リンが鼻を鳴らした。

「ずるいだろ、そんなの――」

「ご、ごめん……。リンは、あの人たちのこと分からないの?」

「――たぶん、サリシュ・キントゥス人だ」

「さ、サリシュ……?」

「話しただろ? 北の帝国の奴らだよ。こっちの国の言葉じゃないから、そうとしか考えられない」

 ベスピンへ向かう道中のことを、クニカは思い出した。クニカたちのいる南大陸とは別に、北にも大陸がある。リンの説明によれば、そこを治めているのが、サリシュ・キントゥス帝国だった。

 しかし、北の帝国の人間が、どうして南にいるのだろう?

「なあおい、クニカ、ちょっと待て」

「何、リン?」

「アイツら、北階段に行ったよな」

「うん。……あっ」

 リンの言わんとするところを理解し、クニカも声を上げる。北階段の壁際には、魔法陣が書いてある。クニカとリンは、だから危険を冒してまで、南階段を使ったのだ。

「あの魔法陣――」

 そうクニカが口にした瞬間、空気の割れる音が、三階全体に響き渡った。天井がきしみ、埃が宙を舞う。

 今の音は、建物の北側から響いてきた。それと同時に、誰かの叫び声がする。

「おい、クニカ!」

 いても立ってもいられず、クニカは北階段へ向かって駆け出していた。クニカの背後から、リンの声が響いてくる。

◇◇◇

「〈イーゴリ!〉」

 駆けつけたクニカの前には、惨状が広がっていた。魔法陣の描かれた壁面は、コンクリートごと消し飛んでしまっている。爆発と瓦礫がれきに巻き込まれてしまったのだろう。イーゴリは、血まみれになって階段に倒れていた。

「〈イーゴリ、返事してくれ!〉」

 そんなイーゴリに、ニコルは必死になって呼びかけていた。だが、イーゴリの腕はだらりと垂れ下がったまま動かない。即死だったようだ。

 クニカとリンは、立ちすくんでいるしかなかった。目の前のことに手一杯になっているのか、ニコルは二人がやってきたことにも気付かず、ただイーゴリの亡骸を抱きかかえていた。

 もし北階段を通っていたら――。クニカの背筋を、悪寒が駆けめぐる。イーゴリは眠ったような表情だった。クニカの目から見ても、とても死んでいるようには見えない。

 つい数秒前まで生きていたはずの人間が、今はもう死んでいる。クニカには、そのことが信じられなかった。

 立ちすくんでいるクニカの耳を、コイクォイの悲鳴がつんざいた。コイクォイの群れが、北階段を駆け上ってきた。

 イーゴリの側にうずくまっていたニコルが、コイクォイの姿を見て悲鳴を上げた。懸命に立ち上がろうとするも、ニコルは手すりにつかまるのがやっとの様子だった。爆風を受け、ニコルは脚をくじいてしまっているようだった。

 ニコルが正面を向いた。クニカの視線が、ニコルの視線と交錯する。

「〈あっ――!〉」

 ニコルが声を上げた。クニカの心臓の鼓動が早くなる。

「逃げるぞ、クニカ!」

 隣にいたリンが、クニカの手首をつかむ。反射的にクニカは、リンの手を振りほどいた。

「おい、何やって――!」

 リンには耳を貸さず、クニカはただ祈った。天井を支えていた鉄骨の一本がもげ、鉄筋の束が北階段に降り注ぐ。音は軽かったが、帰結は重かった。ニコルに肉薄していたコイクォイの群れが、降ってきた鉄筋に叩き潰される。

「逃げて!」

 ぼう然としているニコルに向かって、クニカが叫んだ。言葉の意味が伝わったかどうかは分からない。それでもニコルは鷹の翼を伸ばすと、崩落した天井から飛び立っていった。

 よじれた鉄骨の一本が千切れ、クニカめがけて倒れてくる。クニカの着ているパーカーのフードをつかむと、リンがクニカの身体からだを引っ張った。今の今までクニカのいた位置を、鉄骨が横にいだ。

 クニカはリンに向き直った。リンは口をへの字に曲げて、げんこつを振りかぶる。だが、赤かった心の色が揺らぐと、灰色と、緑の混ざった色に変わった。

 こぶしをほどくと、リンはクニカの頬をよじる。

「このバカ」

「リン、い、痛いって――」

「痛くしてるんだ。行くぞ、クニカ。時間が無い」

 リンに促されるがまま、二人は三階の通路を戻っていった。

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