爾、全き意思を以って其を究めんと欲すれば、爾の裡に在りし彼の善を知るべし(お前が完全な探求心をもって捜し求めるとするならば、お前は自らの心の裡に、あの善があることを知るであろう)。
『アロゲネス』、第9節
南階段を登り、クニカとリンは三階にたどり着いた。スコールが降っていたことなど嘘のように、日差しが三階に降り注いでいる。
死体さえなければ、拍子抜けするほど穏やかだった。
「リン。変じゃない?」
「何がだよ?」
「この人の服」
「服?」
死体は白衣を身にまとっている。しかし、その白衣は厚手で、医者が着るものとは異なっていた。肩の辺りには青い線が刺繍されており、一見したところ、制服のようだった。
「今はいいだろ。それより、これだよ」
リンは、壁にある案内図を指さした。そこには、【院長室】と書いてある。
「ここだ。探すぞ」
「うん……」
リンに言われるがまま、クニカも院長室を目指す。
◇◇◇
「――あった!」
院長室の扉を蹴破ったリンが、部屋に入るなりそう言った。院長室の壁には、各部屋の鍵が、フロアごとに吊り下げられている。
「これだ!」
駆け寄ると、リンは最下段にある鍵を掴み取った。クニカが覗き込んでみれば、鍵には【地下棟】とラベルが貼ってある。
「これで……」
そう言ったきり、リンは口をつぐんでしまった。
「――リン?」
「クニカ、あれ、何だと思う?」
リンの指さす先、院長の机の上には、機械があった。機械の表面には、幾つものダイアルがついており、アンテナが突き出している。
見つめてくるリンに対し、クニカもかぶりを振るしかなかった。院長室にはふさわしくない機械だろうということは分かる。しかし、この機械が何かは、クニカにも分からない。
「とにかく、リン。一階まで――」
行こう、と、クニカが言いかけた矢先、クニカとリンの耳に、ガラスの割れる音が響いてきた。音は通路の南側、二人が先ほど通り抜けてきた地点からだ。
クニカもリンも、とっさに身をかがめ、息を殺した。リンは耳を澄ませ、音の正体を探ろうとしている。
音の方角に目を向けたクニカは、二つのオレンジ色のもやを発見した。
「人だ――」
「人?」
クニカの言葉に、リンが眉をひそめる。
「二人いる」
「どういうことだよ、二人って――」
「――イネ・ドゥオ」
二人の会話を遮って、外から声が響いてきた。男の声だった。男は、もう一人に呼びかけているらしい。
「エツィ・デ・ニナイ?」
「ネイ」
もう一人が答える。答えた方もまた男だった。と同時に、その男の息を呑む音が聞こえてくる。
「ポ・ポヮ! イネ・ネクロス!」
「アネトゥス。ニコル、」
声の大きくなった男に対し、もう一人がたしなめるような声音で応じる。
「カンネ・ティ・ディキ・サスィ・ピヒリシ」
クニカの隣で、リンが苦虫を噛み潰したような表情をしていた。今までに聞いたことのない言葉の応酬に、リンはたじろいでいる様子だった。
だが、クニカは違った。
「〈見ろ! 死んでるぞ!〉」
「〈落ち着け、ニコル。仕事に集中するんだ〉」
どういうわけか、クニカには二人の会話が分かった。耳に入ってくるのは、不明瞭な声のうねりだが、クニカの頭の中では、それが明瞭な意味をつむぎ出している。知らない言葉が瞬時にして翻訳される感覚は、奇妙な感覚だった。
二人の異邦人は、院長室まで近づいてくる。姿勢を低くしたまま、クニカとリンは別の扉を使って、隣の医務室まで逃げ込んだ。
通路側に据えてある医務室の窓に、一瞬だけ男たちの姿が映りこむのを、クニカは見て取った。これほど蒸し暑いのにも関わらず、二人とも厚手の白衣を身にまとっている。死体が着ていたのと同じものだ。
「〈これが落ち着いてられるか、イーゴリ〉」
背の高い方が、肩幅のがっしりした方に言い返す。今話しているのがニコルで、話しかけられているのがイーゴリという名前らしい。
「〈俺たちもいつかこうなる。俺は嫌だぜ。こんな死に方をするなんて〉」
「〈誰だってそうだ〉」
ニコルの言葉に、イーゴリが応答する。
「〈ここでしくじってみろ、ニコル。こいつらの仲間入りだぞ〉」
「〈俺は牧場に戻りたいんだ〉」
ニコルは声を絞り出したが、イーゴリから返事はなかった。院長室の扉が、乱暴に開け放たれる。
「〈馬の面倒を見ていたい。その方が俺には――〉」
「〈あったぞ!〉」
声とともに、足音が響いてくる。壁一枚を隔てて、クニカとリンは医務室に、ニコルとイーゴリは院長室にいるようだった。
ナイフを構えるリンに対し、クニカは首を振って応じた。
(リン、待って)
喋ることができないため、クニカは共感覚を用いてリンに告げる。メッセージを受け取ったリンが、怪訝な顔をした。
イーゴリの心の色が、緑色に輝く。
「〈これだ。回収するぞ、ニコル〉」
イーゴリに言われ、ニコルは机に回り込んだようだった。どうやらニコルとイーゴリの二人は、机の上の機械を相手にしているらしい。
「〈よし、俺が持つ。……くそっ、重いな〉」
悪態をつくイーゴリを尻目に、ニコルは窓際へ寄ると、窓を開け放った。外からの日差しを受けて、ニコルの影がクニカの隠れている方向まで伸びる。
その影が、クニカの眼前で膨れ上がった。驚いてクニカが見上げると、院長室の一画を、鷹の翼がふさいでいた。隣でリンが小さく息を漏らすのが、クニカの耳に届く。
リンと同じように、この男たちも鷹の魔法使いなのだ。そういえば二人が登場したときも、ガラスの割れる音がした。スコールが止むと同時に二人は飛び立ち、窓を破って三階から侵入したのだろう。
「〈イーゴリ、大丈夫か? 飛べるか?〉」
「〈いや……ちときついな。狭すぎる。この通信機を落としたら終わりだからな、歩いて降りよう〉」
「〈分かった〉」
クニカの視界から、ニコルの翼が消える。ニコルとイーゴリは分担して通信機を抱え、一階まで降りるつもりらしい。二人の足音は、院長室から遠ざかっていった。
それを合図に、クニカもリンも静かに動き出した。ほとんど這うようにして、足音と反対方向へ進む。二人は北へ向かったらしい。少し遠回りになるが、南から一階へ降りれば、鉢合わせしなくて済む。
「何だったんだよ、アイツら?」
リンが小声で、クニカに尋ねてくる。
「わ、分かんない。通信機を持ってったみたいだけど」
「通信機?」
「さっきの機械だよ」
「ちょっと待て、クニカ。なんであれが通信機だって分かるんだよ」
「えっと、その、よく分かんないけど、何言ってるのか分かった、みたいな――」
しどろもどろなクニカの言葉に、リンが鼻を鳴らした。
「ずるいだろ、そんなの――」
「ご、ごめん……。リンは、あの人たちのこと分からないの?」
「――たぶん、サリシュ・キントゥス人だ」
「さ、サリシュ……?」
「話しただろ? 北の帝国の奴らだよ。こっちの国の言葉じゃないから、そうとしか考えられない」
ベスピンへ向かう道中のことを、クニカは思い出した。クニカたちのいる南大陸とは別に、北にも大陸がある。リンの説明によれば、そこを治めているのが、サリシュ・キントゥス帝国だった。
しかし、北の帝国の人間が、どうして南にいるのだろう?
「なあおい、クニカ、ちょっと待て」
「何、リン?」
「アイツら、北階段に行ったよな」
「うん。……あっ」
リンの言わんとするところを理解し、クニカも声を上げる。北階段の壁際には、魔法陣が書いてある。クニカとリンは、だから危険を冒してまで、南階段を使ったのだ。
「あの魔法陣――」
そうクニカが口にした瞬間、空気の割れる音が、三階全体に響き渡った。天井が軋み、埃が宙を舞う。
今の音は、建物の北側から響いてきた。それと同時に、誰かの叫び声がする。
「おい、クニカ!」
いても立ってもいられず、クニカは北階段へ向かって駆け出していた。クニカの背後から、リンの声が響いてくる。
◇◇◇
「〈イーゴリ!〉」
駆けつけたクニカの前には、惨状が広がっていた。魔法陣の描かれた壁面は、コンクリートごと消し飛んでしまっている。爆発と瓦礫に巻き込まれてしまったのだろう。イーゴリは、血まみれになって階段に倒れていた。
「〈イーゴリ、返事してくれ!〉」
そんなイーゴリに、ニコルは必死になって呼びかけていた。だが、イーゴリの腕はだらりと垂れ下がったまま動かない。即死だったようだ。
クニカとリンは、立ちすくんでいるしかなかった。目の前のことに手一杯になっているのか、ニコルは二人がやってきたことにも気付かず、ただイーゴリの亡骸を抱きかかえていた。
もし北階段を通っていたら――。クニカの背筋を、悪寒が駆けめぐる。イーゴリは眠ったような表情だった。クニカの目から見ても、とても死んでいるようには見えない。
つい数秒前まで生きていたはずの人間が、今はもう死んでいる。クニカには、そのことが信じられなかった。
立ちすくんでいるクニカの耳を、コイクォイの悲鳴がつんざいた。コイクォイの群れが、北階段を駆け上ってきた。
イーゴリの側にうずくまっていたニコルが、コイクォイの姿を見て悲鳴を上げた。懸命に立ち上がろうとするも、ニコルは手すりに掴まるのがやっとの様子だった。爆風を受け、ニコルは脚をくじいてしまっているようだった。
ニコルが正面を向いた。クニカの視線が、ニコルの視線と交錯する。
「〈あっ――!〉」
ニコルが声を上げた。クニカの心臓の鼓動が早くなる。
「逃げるぞ、クニカ!」
隣にいたリンが、クニカの手首を掴む。反射的にクニカは、リンの手を振りほどいた。
「おい、何やって――!」
リンには耳を貸さず、クニカはただ祈った。天井を支えていた鉄骨の一本がもげ、鉄筋の束が北階段に降り注ぐ。音は軽かったが、帰結は重かった。ニコルに肉薄していたコイクォイの群れが、降ってきた鉄筋に叩き潰される。
「逃げて!」
呆然としているニコルに向かって、クニカが叫んだ。言葉の意味が伝わったかどうかは分からない。それでもニコルは鷹の翼を伸ばすと、崩落した天井から飛び立っていった。
よじれた鉄骨の一本が千切れ、クニカめがけて倒れてくる。クニカの着ているパーカーのフードを掴むと、リンがクニカの身体を引っ張った。今の今までクニカのいた位置を、鉄骨が横に薙いだ。
クニカはリンに向き直った。リンは口をへの字に曲げて、げんこつを振りかぶる。だが、赤かった心の色が揺らぐと、灰色と、緑の混ざった色に変わった。
拳をほどくと、リンはクニカの頬をよじる。
「このバカ」
「リン、い、痛いって――」
「痛くしてるんだ。行くぞ、クニカ。時間が無い」
リンに促されるがまま、二人は三階の通路を戻っていった。