第23話:良心の呵責(Раскаяние)

「――クニカ、どうすんだよ?」

 二階へ向かう途中で、リンがクニカに尋ねた。さっきから、リンは何度も振り返っている。コイクォイが追いかけてこないか確認するためだろうが、まだ地下へとつながる階段を諦めきれていないようだった。

「上に行ったって何にもなんないだろ? 地下へ行くにはあそこしかないんだぞ」

「分かってるってば。でも魔法陣を何とかしないと……!」

「魔法陣なんて――」

 とは言うものの、リンもそれ以上は言葉が続かない。

 鉄扉をこじ開けることなど、今の二人にはたやすい。――裏に描かれた、魔法陣さえなければ。その魔法陣の意味するところは、二人には分からない。分からないからこそ、慎重になるしかなかった。

「……扉に【関係者以外立ち入り禁止】って書いてあった」

 押し黙ってしまったリンに代わり、クニカが話を続ける。一階の踊り場から二階へと上がる。いつコイクォイが飛び出してくるとも限らない。クニカの声は、自然と小さくなる。

「それで?」

「――関係者の人ならば、入る方法があるってことでしょ?」

「だな」

「だから……鍵がありそうな場所を探してみる」

「探す当ては?」

「それは……その……どこだろう?」

「バカ――」

 二階へと続く最後の一段を、二人は乗り越える。廊下は左へと伸び、暗闇が口を空けて二人を待っていた。階段はまだ上へと続いている。

「クニカ。コレを見ろ」

 逡巡しているクニカの服の袖を、リンが引っ張る。リンが引っ張りまくるせいで、クニカの着ている水色のパーカーは、半袖から七分袖くらいに伸びてしまっている。

 リンが指し示す壁際に、クニカは顔を近づけてみる。そこには、階層ごとの見取り図が書いてあった。

「三階だ。三階に医務室と……院長室がある。どっちかにあるだろ。クニカ、三階まで行くぞ」

「わ、分かった」

「闇雲に進んでも仕方ないだろ」

 鼻を鳴らすと、リンは自ら先頭に立ち、三階までの階段を登り始める。後ろを気にしながら、クニカもリンの背中を追った。

 コイクォイの悲鳴は、階下からは断続的に響いてくる。ところが、二階は驚くほど静かだ。

 なぜだろう? ――そんな疑問がクニカの脳裏をよぎったが、すぐに消え去ってしまった。

◇◇◇

 できる限り壁伝いに、そして、壁を背にしながら、クニカとリンは階段を登っていく。

 踊り場に差し掛かったリンが、不意に立ち止まった。

「どうしたの、リン?」

「死体だ」

 リンの言うとおり、踊り場の隅には、人がうずくまっていた。だがクニカには、その様子に違和感を覚えた。ハエがたかっていないし、死体特有の、きつい臭いもしない。

 人型は服の剥がれた状態で横たわっており、両手足はきっちりと揃えられている。

「腹をやられたんだな。――おい、クニカ、足元!」

「うん?」

「バカ! 内臓だよ! 踏んでるぞ!」

 死体の腹部は大きく開かれており、内臓が踊り場のあちこちに散らばっていた。クニカのつま先は、前立腺の辺りにぶつかっている。

 が、つま先から伝わってくる感覚は堅い。

「……リン」

「気をつけろ、クニカ。病気とか持ってたら――」

「リン……これ、模型」

 しゃがむと、クニカは指先で、落ちている肺をつつく。樹脂でできていることは明らかだった。

「ほら……」

 肺をつかみ取ると、クニカはそれを、押し黙っているリンの側まで持ってくる。

「リン、人体模型――うげえっ?!」

 クニカのまぶたの裏に、火花が飛び散った。リンのげんこつが炸裂さくれつしたのだ。

「全くもう! 紛らわしいとこに置いとくなよな!」

 怒りのやり場がないのか、恥ずかしいのか、リンは握り締めたこぶしを、あちこちにふり回していた。

 こぶしの動きを涙目で追っていたクニカだったが、そんなクニカの視界の端に、ぼんやりとした白い影が浮かび上がる。

「ん……?」

「どうした、クニカ?」

「あそこ――あっ?!」

 階段の上をにらんだクニカは、視野に結び付けられた影像オプラスを見て声を上げた。鉄扉で二人を阻んだのと同じ、白い魔法陣があった。

「見て、あれ――」

「何も見えないぞ」

「えっ――?」

 二階の踊り場から、三階まで続く階段の壁際に、その魔法陣は描かれている。正方形を、様々な角度から、幾重にも張り巡らせたような魔法陣だ。暗い病院の中で、魔法陣は青白い光を放っている。

 クニカに指差されるがまま、リンはその方角を凝視していた。が、リンはとうとう首を振った。

「でも、白いのが――」

「待て、クニカ。もしかして、お前の幻覚じゃないのか?」

「げ、幻覚?」

「そうだよ。あの女に毒を盛られたからだ」

 フクロウのように首をかしげていた少女の姿が、クニカの脳裏にもよみがえる。しかし、この魔法陣が幻覚だとしたら、鉄扉に描かれていた魔法陣もクニカの見間違い、ということになる。

「分かったぞクニカ。オレたち、められてるんだ!」

「どういうこと?」

「アイツが俺たちを病院に行かせただろ? それで、俺たちを殺すつもりなんだ。お前が見てる魔法陣も、オレたちをビビらせるための幻覚だ。オレたちをコイクォイの餌食にしようとしてるんだ、クソッ!」

 足元に落ちている心臓の模型を、リンは思い切り蹴り飛ばした。

 クニカはもう一度、壁に描かれている魔法陣に視線を注ぐ。魔法陣は、自らの意志で光を放っているように見える。幻影の産物とは思えなかった。

 それに――、

「あのさ、リン」

「何だよ」

「あの、わたしに注射した人のことだけどさ。……そんなに悪く言わないであげてほしいんだよね?」

「はぁ?!」

「あの人、そんなに悪い人じゃないと思うんだよ、たぶん。……うぶうっ?!」

 左手を伸ばすと、リンがクニカの両頬を掴む。すさまじい握力のせいで、クニカの奥歯は染みたように痛くなる。

「本気で言ってんのか? このバカ! どうしてお前はそうお人よしなんだよ?!」

「あっぷ、あっぷ……」

 リンが「クニカはオレの妹じゃない!」と叫んだとき、少女の心に渦巻く色を、クニカは初めて見ることができた。クニカの記憶が間違っていなければ、それは灰色だった。灰色は、不安や動揺を表す色である。――もし、クニカが、自分の心の色までも見透かすことができるとしたら、あの場面ではやはり、クニカの心の色もまた、少女と同じような灰色になったことだろう。

 他人のことをどうとも思っていない人ならば、感情が動くはずがない。しかしあの少女は、そうではなかった。

 リンの手が、ようやくクニカの頬から離れる。

「クニカ、いいか? お前の命が掛かってんだぞ? 今度同じこと言ったら、いくらクニカでも容赦しないからな? 分かったな?!」

「わ、分かったよ……リン。でも、魔法陣は――」

「確かめればいいんだろ?!」

 やけくそ気味に言うと、リンはクニカの手に握られている肺の模型を掴み取った。階段脇の壁めがけ、肺の模型を構える。

「いいか、もし魔法陣が本当なら――」

「助けてくれぇ!」

 リンの言葉が、悲鳴にかき消された。魔法陣が幻視だったのならば、今のは幻聴だったのだろうか? しかし、クニカの隣でリンも硬直しきっている。

 声は、二階から響いてきた。あまりにも唐突な出来事に、二人とも一言も喋ることができなかった。

 踊り場から、クニカは二階を見下ろす。二階は相変わらず闇に塗りつぶされており、沈黙がそれに続いていた。

「今のは?」

 リンがクニカに問う。答える代わりに、雷轟が病院内を震わせた。今のは人の声だった。しかし、どうして人の声などするのだろう? 可能性は二つだけだった。

「クニカ、しっかりしろ」

 クニカの右腕を、リンがつかむ。リンの右手にはもう、魔法銃が握られていた。

「リン……どうするつもり?」

「確かめるんだよ。あの女の仲間かも知れないだろ?」

 それが可能性の一つ目、

「黙って三階に行っても、今の声のヤツに、後ろへ回りこまれる。お前なら、心の色が見えるだろ? それで探すんだ」

「でも……人間じゃなかったら?」

 それが可能性の二つ目、人間が二階に潜伏しているようには、クニカには思えない。

「『人間じゃなかったら』? そんなの簡単だろ?」

 リンがうそぶいてみせる。

「良心の呵責なくぶちのめせる、――それだけだ。だろ?」

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