――死を免れざる者、爾の見し家に入ること能はざるなり(死を免れない生まれの者は、お前が見た家へ入ることができないだろう)。
『ユダの福音書』、第45頁
「走れ!」
リンの怒号が飛ぶ。病院の玄関までは、あと少しだった。空には黒雲が立ちこめ、降りてきた冷気が、地面を舐めていく。すえた臭いが、クニカの鼻孔に充満した。もう幾ばくもしないうちに、最初の雨粒が地上で弾けるだろう。
病院の玄関に、先に辿りついたリンが、後ろを振り向いて、クニカに腕を伸ばした。反射的に、クニカはリンの腕を掴む。リンはそのまま、クニカの身体を病院へと引きずった。――いや“投げ飛ばす”とでも言った方が良いのかもしれない。
「痛っ――」
「もたもたすんな! バカ!」
リンは容赦なかった。クニカの手首には、リンの立てた爪跡がくっきりと残っている。
二人が息を弾ませている間に、“黒い雨”が降り出した。病院の玄関で、リンはガラス張りの扉を閉める。
ウルノワ病院は、瞬く間に“黒い雨”の中へと没していった。病院は闇に呑まれ、周囲は何も見えなくなる。クニカにはただ、リンの灰色をした心の色が見えるだけだった。
「雨だな」
リンが呟いた。叩きつけるような雨音のせいで、リンの声も小さく聞こえる。
「スコールだな。すぐ止む」
「リン、これからどうするの?」
「これから――そうだな、」
懐中電灯をつけると、リンは壁に張ってある案内図の元まで寄った。
「ここだ。保管室まで行こう」
「保管室?」
「そうだ」
地下一階にある保管室の図を、リンは指で叩く。
「地上は病室とか、診察室ばっかりだ。だから薬とかがあるとしたら、地下に――」
二人の会話を、悲鳴が遮った。外の雨音を裂いて飛ぶ、稲妻のような悲鳴だった。その悲鳴に、クニカは身を固くする。悲鳴は、病院の奥から聞こえてきた。コイクォイがいるのだ。陽光が遮られて寒くなっているはずなのに、クニカの背中には、じっとりとした汗が吹き出してきた。
「ここで待ってろ」
「ヤダよ、リン。わたしも一緒に行く」
「ダメだ。ここなら安全だろ?」
リンはかがむと、リュックサックの荷物を漁りだした。
「ここで待つんだ」
「リン、ベスピンだって二人で乗り切ったじゃない……!」
「事情が違うだろ! 血清ぐらいオレひとりで――」
「リン……血漿だって」
リンのリュックサックを漁る音が、ぴたりと止まる。
「リン、やっぱり一緒に行こう?」
「ダメだ、絶対に」
「リンってば――」
「――オレの言うことを聞けよ!」
リンの心の色が、赤黒い色に変わった。「クニカは妹じゃない」と叫んだときも、リンは同じような声音だった。リンからそんな風に怒鳴られるのは、クニカには嫌だった。「バカ」と言われたり、げんこつが飛んできたりする方が、何倍もマシだった。
首にぶら下がっているロケットを、クニカは強く握り締めた。
「リンだって――」
怒りにかられ、クニカの声も一段と大きくなる。しかし、全てを言い切る前に、外からの稲妻が院内を照らした。
稲光に切り取られたリンの表情を見て、クニカはぎょっとする。リンの顔面は蒼白で、ほとんど紙のようだった。目は赤くなり、唇は固く引き結ばれている。リンが憔悴しているのは明らかだった。
立ちすくんでしまったクニカの身体を、リンが抱きしめた。クニカの耳元に、リンの息づかいが近い。吐く息は荒かったが、胸から伝わる鼓動は弱々しかった。
「り、リン……?」
「――お前に死んでほしくないんだよ」
地面が崩れていくような錯覚に、クニカは捕らわれる。こんなにも弱気になっているリンを、クニカは初めて目の当たりにした。
そもそも、さっきからリンは様子が変だった。何か、暗い感情をを引きずっているようだった。だから心の色に、黒が混じっているのだ。
いったい、リンはクニカに、何を隠しているのか?
「リン……わたしだって同じだよ?」
だが、それを訊くだけの勇気は、クニカにはなかった。リンが告白する秘密は、リンを傷つけるだろう。傷ついているリンを見て、クニカ自身も傷つくだろう。
「わたしだって、リンに死んでほしくないよ。だからさ――」
一緒に行こう――クニカがそう言おうとした矢先、リンがクニカの身体を突き飛ばした。あっけに取られ、転がりこんでいるクニカの耳に、リンが倒れこむ音と、コイクォイの唸り声とが聞こえてきた。
「リン――?!」
「コイツっ!」
振りかぶる音に続け、湿った音が響く。リンがコイクォイの首に、ナイフを突き立てたのだ。コイクォイの断末魔が、ロビーにこだました。
「リン、大丈夫?!」
「ハァ、ハァ――。クニカ、ライト……」
床に落ちたナイフが、冷たい音を立てた。リンに駆け寄ると、クニカは懐中電灯を拾い上げ、リンに向ける。
コイクォイとリンとが、折り重なって倒れていた。コイクォイの頭は半分ほどもげて、首からぶら下がっていた。
「クソッ――」
覆いかぶさっているコイクォイの死骸を、リンは脇にどけようとしている。クニカもまた、その作業を手伝った。コイクォイの頭は、渦を幾重にも重ねたような、無機質な形状をしていた。
「リン、怪我はない?」
「あぁ。……立たせてくれないか?」
「あ……分かった」
今度は、クニカがリンを引っ張る番だった。クニカの力を借り、ようやく立ち上がったリンだったが、しばらく黙ったままだった。リンの心の色はもう黒くないが、相変わらず灰色に濁っていた。
「リン……行こうよ?」
先ほどまで揉めていたというのに、リンは
「ああ、」
と言ったきりだった。素直すぎるリンの態度は、クニカには不気味だった。しかし、クニカは自分自身に「気のせいだ」と言い聞かせ、転がっていた魔法銃をリンに手渡した。
クニカが何気なく懐中電灯で照らした先に、病院の壁が映った。そこを走っている亀裂から、雨水が滴り落ちていた。
◇◇◇
受付にあるカウンターに手をつくと、二人はそっとカウンターを乗り越える。廊下は細くて危険だ。だから壁伝いに、部屋を通って二人は進むことにした。
目的地は、一階の最深部、北階段である。階段に辿り着ければ、地下へ進むことができる。
“黒い雨”のために、院内は暗かった。目が慣れてきたとはいえ、見えるのはせいぜい、手が届く範囲だけだ。コイクォイが、どこから飛び出してくるか分からない。だから、うかつに懐中電灯をつけることさえできなかった。電灯を握る代わりに、クニカはナイフを握りしめる。
受付の中を、クニカとリンは並んでまっすぐ進んだ。半開きになった扉を、二人はそっとくぐる。まずはリン、それからクニカが廊下へと出た。
廊下に出た瞬間、クニカのすぐ側からコイクォイが喘ぎ声が聞こえてきた。コイクォイがいるだろう方角にナイフを構えたまま、クニカは後ずさって、リンに続く。
すぐ側にある診察室Аの扉を、リンが開いた。すり足をしたまま、クニカも診察室Аに入る。
入った瞬間、クニカを強烈な吐き気が襲った。おびただしい数のハエがクニカの周りを飛び交い、部屋に立ち込める悪臭を絶えずかき回していた。
「行くぞ――」
リンがくぐもった声をあげ、クニカを引っ張る。引っ張られた拍子に、クニカは人の足を踏んづけてしまう。
「あっ、ゴメンナサイ……?」
謝った側から、クニカは自分の言葉のおかしさに気付いた。返事の代わりに、名状しがたい臭いがクニカに返ってくる。
「バカ」
鼻声で、リンがクニカに毒づいた。
◇◇◇
再び廊下に出た二人は、忍び足でそこを通り抜け、手近にあった部屋へと入る。ドアの表札には、「診察室В」と書かれていた。
(また診察室……!)
とクニカは思ったが、リンには言わなかった。中の様子を確かめたリンが、クニカの服を引っ張る。診察室の中では、壊れかけの懐中電灯が点滅していた。
「あ、明るい……」
「だな」
先ほどに比べると、リンの血色も幾分か良くなっている。もしかしたら、
(また診察室……!)
と思っていたのは、リンも同じだったのかもしれない。
「クニカ、見ろ」
リンが指差した先は、医務机があった。その壁沿いに、何かが貼り付けてある。点滅する電灯の代わりに、クニカは自分の懐中電灯でそれを照らした。
貼ってあるのは、レントゲン写真だった。頭部を撮影したものだが、普通の画像ではない。
「これ……コイクォイの……」
「みたいだな」
どうやったかは分からないが、写真はコイクォイの画像だった。ビスマス結晶を思わせる幾何学的な頭部の画像が、レントゲン写真のモノクロに映し出されている。結晶から骨が生えているように錯視し、クニカの全身が総毛だった。
「行くぞ、クニカ。……気持ち悪くなる」
「うん……」
リンに促されるまま、クニカも次の扉をくぐった。
◇◇◇
扉の表札には「用具室」と書かれてあった。入ってすぐに、クニカは鼻からいっぱい空気を吸い込んだ。用具室の空気は埃っぽいが、これまで通ってきた部屋と比べればマシだった。
「ハァ……リン、少し休も――」
クニカには一瞥もくれず、リンは真顔でリネンケースに近づくと、クニカの目の前で、
「うげえーっ」
とえずいた。リンの吐き出したものが、リネンケースの中に吸い込まれていく。
「リン……大丈夫?」
「……気にすんな……もう行くぞ」
リンは忌々しげに首を振っていたが、大きくため息をつくと、すぐに次の扉の前へ立ちはだかった。この部屋を抜ければ、北階段は目と鼻の先である。
◇◇◇
「クニカ、電気消せ!」
扉の隙間から外を探ったリンが、すかさずクニカに合図した。
電灯を消すと、クニカも扉の隙間から外を覗く。現在位置からは、病院の中央ロビーを見ることができた。
稲光で、中央ロビーの様子が一瞬だけ照らし出される。無数のコイクォイが、ロビーに立ちすくんでいるのが見えた。
「どうする、リン?」
「……なぁクニカ、お前、祈りでスイッチをつけられるか?」
「祈り、で? やったことないけど、できる……と思う」
「そうか、ちょっと待ってろ」
言うなり、リンは診察室Вへと戻り、何かを取ってきた。リンの手には、壊れかけの懐中電灯が握りしめられていた。
「オレがこれを向こうまで飛ばすから、お前は電気がつくように祈るんだ。分かったな?」
「うん!」
「よし……!」
廊下に出ると、リンは壊れかけの懐中電灯を床に転がした。懐中電灯はタイルの上を滑るように転がってゆき、二人の視界から見えなくなる。
「いいか、電灯がついたら、すぐ後ろに駆けるぞ」
「分かってる……」
暗闇の向こうにある懐中電灯に、クニカは意識を集中させる。スイッチが入り、電灯が点滅している様子を、頭の中に思い描いた。
中央のロビーにたむろしているコイクォイたちが、突然騒がしくなった。クニカの視界からも、点滅する光に錯乱し、コイクォイ同士が互いに爪を立てあっているのが見える。
「行くぞ!」
リンの掛け声と同時に、クニカは後ろに走り出した。北階段は目の前である。ところが――
「くそっ、何だよ、コレ!」
立ちはだかる鉄扉の前に、リンが爪を立てる。地下へと降りる階段は、扉で塞がれていたのだ。二人の背後で、ガラスの割れる音がした。と同時に、光の点滅も収まる。錯乱したコイクォイによって、懐中電灯が踏み潰されたのだ。
「待って、リン――」
扉に手を当てると、クニカは目を閉じる。祈りの力で、扉が破壊できるかもしれない。――クニカはそう考えた。
しかし、目を閉じた瞬間、クニカのまぶたの裏に白い文様が映った。
(えっ……?)
ぎょっとしたクニカは、何度もまばたきをする。するとどうだろう、まばたきをするたびに、鉄扉の裏に描かれている、白い魔法陣がちらついて見えた。
クニカは鉄扉から手を離す。扉の裏に描かれている魔法陣の意味は分からない。しかし、分からないがゆえに危険だった。魔法陣の恐ろしさは、既に大学内を抜けるときに経験済みだ。
「リン、ダメ。魔法陣が――」
「何だって?! クソっ、どうする?!」
扉の前で立ちすくんでいたクニカだったが、ふと扉の正面に、
【注意! 関係者以外立ち入り禁止】
と表記されているのが目に留まった。
「リン、上に行こう」
「上?! どうするんだよ?!」
「いいから――」
半ばリンを押しやるようにして、クニカは北階段を駆け上る。二人の背後では、相変わらずコイクォイたちの悲鳴がこだましていた。