第22話:白(Белый)

――死を免れざる者、なんじの見し家に入ることあたはざるなり(死を免れない生まれの者は、お前が見た家へ入ることができないだろう)。

『ユダの福音書』、第45頁

「走れ!」

 リンの怒号が飛ぶ。病院の玄関までは、あと少しだった。空には黒雲が立ちこめ、降りてきた冷気が、地面を舐めていく。すえた臭いが、クニカの鼻孔に充満した。もう幾ばくもしないうちに、最初の雨粒が地上で弾けるだろう。

 病院の玄関に、先に辿りついたリンが、後ろを振り向いて、クニカに腕を伸ばした。反射的に、クニカはリンの腕をつかむ。リンはそのまま、クニカの身体からだを病院へと引きずった。――いや“投げ飛ばす”とでも言った方が良いのかもしれない。

「痛っ――」

「もたもたすんな! バカ!」

 リンは容赦なかった。クニカの手首には、リンの立てた爪跡がくっきりと残っている。

 二人が息を弾ませている間に、“黒い雨ドーシチ”が降り出した。病院の玄関で、リンはガラス張りの扉を閉める。

 ウルノワ病院ヴォルニーツィ・ウルノワは、瞬く間に“黒い雨”の中へと没していった。病院は闇に呑まれ、周囲は何も見えなくなる。クニカにはただ、リンの灰色をした心の色が見えるだけだった。

「雨だな」

 リンが呟いた。叩きつけるような雨音のせいで、リンの声も小さく聞こえる。

「スコールだな。すぐ止む」

「リン、これからどうするの?」

「これから――そうだな、」

 懐中電灯をつけると、リンは壁に張ってある案内図の元まで寄った。

「ここだ。保管室まで行こう」

「保管室?」

「そうだ」

 地下一階にある保管室の図を、リンは指で叩く。

「地上は病室とか、診察室ばっかりだ。だから薬とかがあるとしたら、地下に――」

 二人の会話を、悲鳴が遮った。外の雨音を裂いて飛ぶ、稲妻のような悲鳴だった。その悲鳴に、クニカは身を固くする。悲鳴は、病院の奥から聞こえてきた。コイクォイがいるのだ。陽光が遮られて寒くなっているはずなのに、クニカの背中には、じっとりとした汗が吹き出してきた。

「ここで待ってろ」

「ヤダよ、リン。わたしも一緒に行く」

「ダメだ。ここなら安全だろ?」

 リンはかがむと、リュックサックの荷物を漁りだした。

「ここで待つんだ」

「リン、ベスピンだって二人で乗り切ったじゃない……!」

「事情が違うだろ! 血清シヴォルトカぐらいオレひとりで――」

「リン……血漿プラツマだって」

 リンのリュックサックを漁る音が、ぴたりと止まる。

「リン、やっぱり一緒に行こう?」

「ダメだ、絶対に」

「リンってば――」

「――オレの言うことを聞けよ!」

 リンの心の色が、赤黒い色に変わった。「クニカは妹じゃない」と叫んだときも、リンは同じような声音だった。リンからそんな風に怒鳴られるのは、クニカには嫌だった。「バカ」と言われたり、げんこつが飛んできたりする方が、何倍もマシだった。

 首にぶら下がっているロケットを、クニカは強く握り締めた。

「リンだって――」

 怒りにかられ、クニカの声も一段と大きくなる。しかし、全てを言い切る前に、外からの稲妻が院内を照らした。

 稲光に切り取られたリンの表情を見て、クニカはぎょっとする。リンの顔面は蒼白で、ほとんど紙のようだった。目は赤くなり、唇は固く引き結ばれている。リンが憔悴しょうすいしているのは明らかだった。

 立ちすくんでしまったクニカの身体からだを、リンが抱きしめた。クニカの耳元に、リンの息づかいが近い。吐く息は荒かったが、胸から伝わる鼓動は弱々しかった。

「り、リン……?」

「――お前に死んでほしくないんだよ」

 地面が崩れていくような錯覚に、クニカは捕らわれる。こんなにも弱気になっているリンを、クニカは初めて目の当たりにした。

 そもそも、さっきからリンは様子が変だった。何か、暗い感情をを引きずっているようだった。だから心の色に、黒が混じっているのだ。

 いったい、リンはクニカに、何を隠しているのか?

「リン……わたしだって同じだよ?」

 だが、それを訊くだけの勇気は、クニカにはなかった。リンが告白する秘密は、リンを傷つけるだろう。傷ついているリンを見て、クニカ自身も傷つくだろう。

「わたしだって、リンに死んでほしくないよ。だからさ――」

 一緒に行こう――クニカがそう言おうとした矢先、リンがクニカの身体からだを突き飛ばした。あっけに取られ、転がりこんでいるクニカの耳に、リンが倒れこむ音と、コイクォイのうなり声とが聞こえてきた。

「リン――?!」

「コイツっ!」

 振りかぶる音に続け、湿った音が響く。リンがコイクォイの首に、ナイフを突き立てたのだ。コイクォイの断末魔が、ロビーにこだました。

「リン、大丈夫?!」

「ハァ、ハァ――。クニカ、ライト……」

 床に落ちたナイフが、冷たい音を立てた。リンに駆け寄ると、クニカは懐中電灯を拾い上げ、リンに向ける。

 コイクォイとリンとが、折り重なって倒れていた。コイクォイの頭は半分ほどもげて、首からぶら下がっていた。

「クソッ――」

 覆いかぶさっているコイクォイの死骸を、リンは脇にどけようとしている。クニカもまた、その作業を手伝った。コイクォイの頭は、渦を幾重にも重ねたような、無機質な形状をしていた。

「リン、怪我はない?」

「あぁ。……立たせてくれないか?」

「あ……分かった」

 今度は、クニカがリンを引っ張る番だった。クニカの力を借り、ようやく立ち上がったリンだったが、しばらく黙ったままだった。リンの心の色はもう黒くないが、相変わらず灰色に濁っていた。

「リン……行こうよ?」

 先ほどまでめていたというのに、リンは

「ああ、」

 と言ったきりだった。素直すぎるリンの態度は、クニカには不気味だった。しかし、クニカは自分自身に「気のせいだ」と言い聞かせ、転がっていた魔法銃をリンに手渡した。

 クニカが何気なく懐中電灯で照らした先に、病院の壁が映った。そこを走っている亀裂から、雨水が滴り落ちていた。

◇◇◇

 受付にあるカウンターに手をつくと、二人はそっとカウンターを乗り越える。廊下は細くて危険だ。だから壁伝いに、部屋を通って二人は進むことにした。

 目的地は、一階の最深部、北階段である。階段に辿り着ければ、地下へ進むことができる。

 “黒い雨”のために、院内は暗かった。目が慣れてきたとはいえ、見えるのはせいぜい、手が届く範囲だけだ。コイクォイが、どこから飛び出してくるか分からない。だから、うかつに懐中電灯をつけることさえできなかった。電灯を握る代わりに、クニカはナイフを握りしめる。

 受付の中を、クニカとリンは並んでまっすぐ進んだ。半開きになった扉を、二人はそっとくぐる。まずはリン、それからクニカが廊下へと出た。

 廊下に出た瞬間、クニカのすぐ側からコイクォイが喘ぎ声が聞こえてきた。コイクォイがいるだろう方角にナイフを構えたまま、クニカは後ずさって、リンに続く。

 すぐ側にある診察室Аアーの扉を、リンが開いた。すり足をしたまま、クニカも診察室Аに入る。

 入った瞬間、クニカを強烈な吐き気が襲った。おびただしい数のハエがクニカの周りを飛び交い、部屋に立ち込める悪臭を絶えずかき回していた。

「行くぞ――」

 リンがくぐもった声をあげ、クニカを引っ張る。引っ張られた拍子に、クニカは人の足を踏んづけてしまう。

「あっ、ゴメンナサイ……?」

 謝った側から、クニカは自分の言葉のおかしさに気付いた。返事の代わりに、名状しがたい臭いがクニカに返ってくる。

「バカ」

 鼻声で、リンがクニカに毒づいた。

◇◇◇

 再び廊下に出た二人は、忍び足でそこを通り抜け、手近にあった部屋へと入る。ドアの表札には、「診察室Вヴェー」と書かれていた。

(また診察室……!)

 とクニカは思ったが、リンには言わなかった。中の様子を確かめたリンが、クニカの服を引っ張る。診察室の中では、壊れかけの懐中電灯が点滅していた。

「あ、明るい……」

「だな」

 先ほどに比べると、リンの血色も幾分か良くなっている。もしかしたら、

(また診察室……!)

 と思っていたのは、リンも同じだったのかもしれない。

「クニカ、見ろ」

 リンが指差した先は、医務机があった。その壁沿いに、何かが貼り付けてある。点滅する電灯の代わりに、クニカは自分の懐中電灯でそれを照らした。

 貼ってあるのは、レントゲン写真レンゲノフスキーだった。頭部を撮影したものだが、普通の画像ではない。

「これ……コイクォイの……」

「みたいだな」

 どうやったかは分からないが、写真はコイクォイの画像だった。ビスマス結晶クリスタを思わせる幾何学的な頭部の画像が、レントゲン写真のモノクロに映し出されている。結晶から骨が生えているように錯視し、クニカの全身が総毛だった。

「行くぞ、クニカ。……気持ち悪くなる」

「うん……」

 リンに促されるまま、クニカも次の扉をくぐった。

◇◇◇

 扉の表札には「用具室」と書かれてあった。入ってすぐに、クニカは鼻からいっぱい空気を吸い込んだ。用具室の空気は埃っぽいが、これまで通ってきた部屋と比べればマシだった。

「ハァ……リン、少し休も――」

 クニカには一べつもくれず、リンは真顔でリネンケースに近づくと、クニカの目の前で、

「うげえーっ」

 とえずいた。リンの吐き出したものが、リネンケースの中に吸い込まれていく。

「リン……大丈夫?」

「……気にすんな……もう行くぞ」

 リンは忌々いまいましげに首を振っていたが、大きくため息をつくと、すぐに次の扉の前へ立ちはだかった。この部屋を抜ければ、北階段は目と鼻の先である。

◇◇◇

「クニカ、電気消せ!」

 扉の隙間から外を探ったリンが、すかさずクニカに合図した。

 電灯を消すと、クニカも扉の隙間から外を覗く。現在位置からは、病院の中央ロビーを見ることができた。

 稲光で、中央ロビーの様子が一瞬だけ照らし出される。無数のコイクォイが、ロビーに立ちすくんでいるのが見えた。

「どうする、リン?」

「……なぁクニカ、お前、祈りでスイッチをつけられるか?」

「祈り、で? やったことないけど、できる……と思う」

「そうか、ちょっと待ってろ」

 言うなり、リンは診察室Вへと戻り、何かを取ってきた。リンの手には、壊れかけの懐中電灯が握りしめられていた。

「オレがこれを向こうまで飛ばすから、お前は電気がつくように祈るんだ。分かったな?」

「うん!」

「よし……!」

 廊下に出ると、リンは壊れかけの懐中電灯を床に転がした。懐中電灯はタイルの上を滑るように転がってゆき、二人の視界から見えなくなる。

「いいか、電灯がついたら、すぐ後ろに駆けるぞ」

「分かってる……」

 暗闇の向こうにある懐中電灯に、クニカは意識を集中させる。スイッチが入り、電灯が点滅している様子を、頭の中に思い描いた。

 中央のロビーにたむろしているコイクォイたちが、突然騒がしくなった。クニカの視界からも、点滅する光に錯乱し、コイクォイ同士が互いに爪を立てあっているのが見える。

「行くぞ!」

 リンの掛け声と同時に、クニカは後ろに走り出した。北階段は目の前である。ところが――

「くそっ、何だよ、コレ!」

 立ちはだかる鉄扉の前に、リンが爪を立てる。地下へと降りる階段は、扉で塞がれていたのだ。二人の背後で、ガラスの割れる音がした。と同時に、光の点滅も収まる。錯乱したコイクォイによって、懐中電灯が踏み潰されたのだ。

「待って、リン――」

 扉に手を当てると、クニカは目を閉じる。祈りの力で、扉が破壊できるかもしれない。――クニカはそう考えた。

 しかし、目を閉じた瞬間、クニカのまぶたの裏に白い文様が映った。

(えっ……?)

 ぎょっとしたクニカは、何度もまばたきをする。するとどうだろう、まばたきをするたびに、鉄扉の裏に描かれている、白い魔法陣がちらついて見えた。

 クニカは鉄扉から手を離す。扉の裏に描かれている魔法陣の意味は分からない。しかし、分からないがゆえに危険だった。魔法陣の恐ろしさは、既に大学内を抜けるときに経験済みだ。

「リン、ダメ。魔法陣が――」

「何だって?! クソっ、どうする?!」

 扉の前で立ちすくんでいたクニカだったが、ふと扉の正面に、

【注意! 関係者以外立ち入り禁止】

 と表記されているのが目に留まった。

「リン、上に行こう」

「上?! どうするんだよ?!」

「いいから――」

 半ばリンを押しやるようにして、クニカは北階段を駆け上る。二人の背後では、相変わらずコイクォイたちの悲鳴がこだましていた。

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