無言のまま、クニカとリンは、キャンパス内を歩いていく。工学部の脇をすり抜け、長い階段を登る。上には図書館があり、その脇に門があった。
後ろを振り返りつつ歩いていたクニカも、図書館のたたずまいには気を引かれた。二階建ての図書館は瀟洒な造りで、レンガで覆われた壁には蔦が這っている。年季の入った青銅製のランプが、道まで突き出していた。
突然、前を歩いていたリンが立ち止まった。そして
「おい」
と声を上げる。リンの視線は、門の脇に打ち捨てられていた、コンテナに注がれている。
「出てこい!」
もう既に、リンは魔法銃の撃鉄を上げていた。
「いるのは分かってるんだぞ?!」
「あー、はいはい。分かったよ」
うんざりしたような声が、コンテナの中から響いてきた。不意に聞こえた他人の声に、クニカは背筋が寒くなる思いだった。
コンテナの中から、声の主が姿を現した。相手もまた、少女である。年齢は、二人とさほど変わらないだろう。背は、クニカよりは高く、リンよりは低い。色の薄い金髪を、頭の後ろで無造作に束ねていた。眼鏡越しから、赤い瞳を覗くことができる。少女は痩せていた――が、飢えているわけではないようだ。血色は良いし、肌にも傷はない。
少女は両手を、肩の高さまで上げる。リンは魔法銃を下ろした。
「お前だけか?」
「そうだよ」
所在なく歩くと、少女は図書館脇にある植込みの縁に腰掛けた。散歩の途中で、偶然二人に出くわしたとでもいうような、そんな無造作な態度だった。
リンが片肘で、クニカをどついた。
(心が読めるか?)
と訊いているわけだ。
少女の胸の辺りを、クニカは凝視する。普通ならば“心の色”が見えるはずだが、クニカは、少女の感情を見透かすことはできなかった。
リンの視線に、クニカは首を横に振って応じた。少女は、心を隠している。
二人のことなど気にするそぶりもなく、少女は話を続ける。
「もっとも、“今は”、ってところだけどね」
「“今は”? 仲間がいるのか?」
「友達だよ。建物の奥にいる」
「何で一緒じゃないんだ?」
「動けないからさ」
クニカは、リンに目配せした。クニカと同じことを、リンも考えているようだった。
「――”雨”に打たれたのか?」
「いや。シュムは――あぁ、その子は“シュム”って名前なんだけど、コイクォイに噛まれただけさ」
「噛まれた“だけ”って――」
リンが喉を鳴らした。その音が、クニカにまで聞こえてくる。
「嘘だろ?」
「本当さ。一週間は臥せってるけどね」
少女は軽く言ってのけるが、クニカもリンも、やすやすとは信じられなかった。コイクォイに噛まれたりしたら、傷口から”黒い雨”が入り、噛まれた人もコイクォイになってしまう。ところが、この少女の友人は一命を取り留めているらしい。
本当の話か、嘘をついているのか? 嘘をついているのだとすれば、何のために?
「どうして一週間も保つんだよ?」
「そうね。マァ、保って半日が関の山。――血を追い出さなければ、の話だけど」
「血を追い出す――?」
「瀉血だよ。喰われた部分を、すぐに帯で縛る。血のめぐりが悪くなっているところで、すかさず血を抜く……。メスさえあれば、やぶ医者でも楽勝さ」
(そんなことが……)
少女の説明に、クニカは感心した。この少女は、医術を心得があるらしい。
「ところが、だ。瀉血するまでは良かったんだけど、止血がね。あんたたちだって見たろ? コイクォイが体中から“黒い雨”を垂れ流してるのを」
少女からの質問に、クニカは黙って頷うなずいた。
「コイクォイだって、好きで流してるわけじゃない。当たり前だけど。それに、あれは“黒い雨”でもないんだ。血漿を流してる」
少女は立ち上がると、二人に近づいた。
「ウルノワには大学病院がある。そこに血漿製剤が保管されているんだ。だけど、中にはコイクォイがうじゃうじゃしてる――」
「……何が言いたいんだよ?」
「血漿製剤を取ってきてくれないかなぁ、なんてさ」
「断る」
「ちょっと、リン!」
リンが断るだろうことは、クニカにも予想がついた。それでも、リンのすげない態度は、クニカの目には非情に映った。
「あの、もしかしたらわたし、治せるかもしれないです」
答える代わりに、少女はただ首をかしげただけだった。そのかしげた様子は、さながら
梟
を連想させた。
少女が何も答えないので、いきおいクニカも多弁になる。
「わ、わたし、傷を治すぐらいなら、魔法が使えるから」
「へえ? じゃあその力で、血漿が増やせるのかい?」
「それは……分かんないけど……」
「おい、バカ!」
話を遮ると、リンはクニカの腕を引っ張った
「首突っ込むなよ!」
「でも……?!」
クニカは最後まで言い切ることができなかった。相手の少女が腕を伸ばすと、クニカの右肩に触れたためだ。
「あっ――?!」
「クニカ?!」
右肩に走る激痛のために、クニカは倒れこむ。右肩を探ってみれば、指の腹に血の痕がついた。クニカの耳元で、乾いた音がする。注射器が、地面に転がっていた。
「コイツ――」
「おっと、動くな」
リンの目前に突きつけられたものを見て、クニカはぞっとする。それは、材木に釘を打ち付けるピストルだった。眼球にでも打ちつけられたら、そのまま脳に達してしまうだろう。
「ふざけるな! クニカを……クニカをどうしたんだ?!」
「毒を盛ったのさ」
先ほどと変わらない調子で、少女は言葉を返す。
「神経に効く毒さ。三時間もすれば、毒は全身に回る。解毒剤がないかぎり、どんな方法でも体内からは出ない」
「オレが……オレがもしお前を殺して、解毒剤を奪うとしたら?」
「解毒剤は、あたしの体の中だよ。ま、ちゃんと取り出せるってんなら、それでも良いんじゃないか。やってみるか?」
「くっそ……!」
怒りのあまり、リンは青ざめている。クニカを支える腕は、小刻みに震えていた。クニカの身が危険だからこそ、リンはまだ我慢できている。そうでなければ少女に飛び掛り、今頃は八つ裂きにしていたかもしれない。
「怒るなよ。立場が逆だったら、お前だって同じことをしてたさ。妹をかわいいと思うんなら――」
「――クニカはオレの妹じゃない!」
今までに聞いたこともないほどの大声で、リンが少女に叫んだ。真っ赤に煮えたぎっていたはずのリンの心の色が、一気に黒く塗り潰される。少女が放った言葉が、リンの触れてはいけない箇所に触れてしまったらしい。
「り、リン……?」
リンの着ている白いシャツの袖を、クニカは握りしめる。リンの言葉に動揺したのは、クニカも同じだった。リンの怒りは、どこにも広がらない、孤立したもののようにクニカには感じられた。と同時に、クニカは自分自身の孤独を見せ付けられたようにも感じられた。
「ハァ、ハァ――」
荒く息をついているリンを、相手の少女はただじっと見ていた。
「そうか? それは悪かったな」
そう言った瞬間、少女の心の色が灰色にほのめいた。相手の少女の心の色が分かったのは、クニカにとってこれが初めてだった。
「その子がかわいいのなら、あたしの頼みを聞いてくれよ。ただ病院に言って血液製剤を取ってくるだけだ。簡単だろ?」
「簡単だな……!」
喉の奥から絞り出すようにして、リンが答える。リンの声は殺意に満ちていたが、相手の少女は涼しい顔をしていた。
「頼んだよ。あたしはここで待ってる」
少女は一歩下がる。その間も釘打ちピストルは構えたままだ。よろめくクニカを支えつつ、一緒に立ち上がったリンだったが、二、三歩歩いてすぐ、
「ちくしょう!」
と一声叫び、転がっていた大型缶を蹴り飛ばした。白い缶は地面に転がり、中からタバコの吸殻と、タールとが広がった。
「行くぞ、クニカ! もたもたすんな!」
「分かった――」
さっさと行ってしまうリンを追いかけつつ、クニカは後ろを振り向いた。
そんなクニカに、相手の少女は肩をすくめてみせる。
降り注ぐ太陽の光を、雲が遮り始めた。