此の者ら、彼の者らを憤怒の裡より救い出さん。
『アダムの黙示録』、第24節
目を閉じると、クニカは正面で両手を組んだ。背筋を張り、肩の力は抜く。呼吸するたび、クニカは亜熱帯の大気と一体化しているような気分になる。
まぶたの裏をかすめる色の点滅に、クニカは集中する。意識のうねりの中で、色合いは統合され、次第に形を帯び始める。
程なくして、クニカの脳内に炎のイメージが形成された。透き通るような白さを内側に秘め、赤い輪郭をたぎらせる炎、周囲の暑さをも涼しさに変えてしまうような、そんな炎である。
炎の連想に誘われるようにして、クニカの五感が外界を捉える。まぶたの裏は闇に閉ざされていたはずなのに、今はうっすらと明るい。鼻をつく腐敗臭も、蠅の羽音も、炎に焼き尽くされ、消えていく。呼吸するたび、クニカの肺の中に、熱せられた空気が染み渡っていった。
クニカは目を開けた。クニカの正面で、炎が渦を巻いている。渦の中心では、折り重なった死体が燃えていた。行き倒れたまま、朽ち果てていた死者たちが、今、クニカの手によって葬られようとしていた。
ここはウルノワ――。ウルトラ領の北部にある学術都市だ。
ベスピンの町を抜け出してから、二週間が経とうとしている。
今、クニカはウルノワ大学の中庭で、死体を弔っている最中だった。
炎の眩しさに耐えかね、クニカは空を見上げる。立ち上った煙が、青空へと吸い込まれていく。
腕を伸ばすと、クニカはカートをたぐり寄せる。カートは大学の構内で、偶然見つけたものだ。カートの中には、数々のガラクタが積まれている。
ガラクタの一つを、クニカは手にとってみる。一つ目は数珠。マツ製の珠は黒ずんでおり、年季が籠もっている。
数珠を丸めると、クニカはそれを炎の中へ投じる。数珠をつないでいた紐が燃え、珠が死体の山の中に没していった。
次にクニカが取ったのは、履だった。表面には金糸で、花の刺繍が施されている。儀礼用の履で、もしかしたら、花嫁のためのものだったのかもしれない。クニカが火に投じると、履くつの糸はほどけ、散り散りになっていった。
カートのガラクタを一つずつ手に取ると、クニカはそれを火の中へ投じた。人形、指輪、聖書、写真――。皆、死者が持っていたものだ。他人にとっては無価値なものであっても、彼らにとってはかけがえのないものだったに違いない。
だからこうして、クニカは一緒に弔っている。これが気休めに過ぎないことぐらい、クニカにも分かっている。それでも、打ち棄てられた死者をそのままにして進むことは、クニカにはできなかった。
炎の光を受け、クニカの影が長くたなびく。
◇◇◇
火が消えてから、クニカは灰の中へと分け入る。骨を集めるためだったが、全てを拾い集めるのに、それほど時間はかからなかった。ひときわ大きなダンボール箱を見つけ出してきたというのに、骨はその半分を埋める程度しかなかった。
カートにダンボール箱を乗せると、クニカは前へ進む。大学の案内図を見た限りでは、しばらく進めば花壇にぶつかるらしい。リンも既に、そちらへ移動しているはずだ。
レンガで舗装された道路を進む間、カートはひっきりなしに錆付いた音を立てた。立ち並ぶソテツの木は、青々と茂っている。
クニカは耳を澄ました。音は一つもない。立ち並ぶ校舎からも、物音は聞こえてこない。そよぐ風に合わせ、教室からはみ出たカーテンがたなびく程度だ。
クニカは花壇に辿りついた。枯れ尽くした花の茎が、花壇全体を覆っている。リンの姿はなかった。
「リン――?」
風になびく桜色の髪を押さえながら、クニカは呼びかけてみる。返事はない。どこへ行ってしまったのだろう?
カートに提げていたスコップを掴み取ると、クニカは花壇に分け入って、土を掘り起こした。枯れてしまった草花の根もろとも、土の塊が脇へどけられる。クニカの背中は、すぐに汗でびっしょりになった。
しばらく掘り進めていくうちに、黒々とした穴が口を開けた。ダンボール箱を持ち上げると、クニカは穴の中へ身をかがめる。ダンボール箱を穴底に置くと、ショルダーポーチから取り出したナイフを使って、クニカはそれを切り崩していく。
箱を取り除くと、クニカは穴から抜け出した。またスコップを取ると、クニカは土を骨の上へ被せていく。
一仕事終えたクニカは、何気なく花壇の前方に目を向けた。そこにも校舎があり、一階の窓ガラスには、外の景色が映りこんでいる。
窓には、空の雲と、クニカの姿とが映りこんでいる。クニカの胸元には、ロケットがあった。
ベスピンでの一件以来、リンの首にぶら下がっていたロケットは、クニカのお守りになっている。リンに内緒で、クニカはロケットを何度も開けようと挑戦したが、上手くいかなかった。降り注ぐ太陽の光を受け、銀製のロケットは眩しく輝いている。
映りこんだ雲を眺めているうちに、クニカは窓の向こう側の景色に気付いた。大教室の教壇、席に着いたリンが、頬杖をついて物思いにふけっている。
「リン……何であんなところに……」
クニカは大教室へと近づいた。
錆びついたジョウロが、水たまりの中に転がっている。
◇◇◇
教室に入るために、クニカは遠回りをしなくてはならなかった。静まり返った廊下をひた走り、クニカは目当ての教室に入る。
扉を開ける音は大きかっただろうに、リンは少しも身じろぎしなかった。クニカは一瞬、リンが居眠りしているのかと思ったが、それは違った。リンの視線は相変わらず、教室の後ろへと注がれている。
リンの視線につられ、クニカも教室の奥に視線をやった。窓から差し込んでくる光のために、教室の影は十字に切り取られている。
教壇の上には、講師用の席が設けられている。リンはそこに座っていた。リンは右手で頬杖をつき、左手の親指で、石鹸のようなものをせわしなくいじっている。こする音からして、砥石の類だろう。事実、ナイフは机に突き立てられており、外からの日差しを受けて光を放っていた。
「リン?」
「――あ、クニカ? 終わったのか?」
再度の呼びかけに、リンもようやく返事をした。しかし、それも生返事であり、リンは「心ここにあらず」という様子だった。
「リン、どうしたの?」
「いや、大学って広いんだなァ、って」
リンのセリフに、クニカは鼻白むしかなかった。今更になって、どうしたと言うのだろう。そんな話をするチャンスならば、他にもいっぱいあったはずだ。第一「大学で野宿しよう」と提案したのは、クニカではなく、リンの方である。
クニカの視線に気付いたのか、リンは肩をすくめてみせた。
「初めてだったからさ、“大学”ってのに来たのは」
「え……?」
「何だよ、クニカだって初めてだろ? こんなでかいとは思わなかったんだよ。ビックリしちゃってさ」
「あ、うん、そりゃそうだけどさ……」
ばつ悪く感じたクニカは、リンから視線を逸らす。
大学にならば、クニカは何度か行ったことがある。もちろん、転生する前の話だ。小学生のときには、地元の大学祭に遊びにも行っている。高校生になってからも、オープンキャンパスで都内の大学へ行ったことがある。だから大学がどんなものなのか、クニカは何となく実感できている。
「すごいよな。頭いいヤツが、たくさんいたんだろ?」
だが、リンはそうではない。リンは、大学の何たるかを知らない。むしろ、この世界では知らない人の方が大半だろう。高校を卒業して、大学に入る。――転生する前のクニカには普通だったことが、こちらの世界では通用しない。
「さ、行こう。クニカ」
席を立つと、リンは机に突き刺してあったナイフを引き抜いた。
◇◇◇
外へ出ると、二人は西へ歩き始める。二人が今、人文学部の校舎から、理学部、工学部の校舎へと向かっていた。
「工学部って、何だろうな?」
道すがら、リンがクニカに尋ねてくる。
「物理とか……やるんじゃないかな?」
と答えかけ、クニカは慌てて言葉を呑みこんだ。記憶が無い設定でクニカはこれまで通してきている。不用意に喋ったら、ウソがばれてしまう。だからクニカは、
「さぁ、何やるんだろうね?」
と、しらばっくれて、話を誤魔化そうとした。
ところが、今日のリンはしつこい。
「工業高校とは違うのか?」
「違う……んじゃない?」
黙っているわけにもいかないので、クニカもそれとなく会話に応じる。
「リンは工業高校だったの?」
「いや、商業高校だ」
「なぁんだ……あイテっ?!」
リンに頭をひっぱたかれる。
「『なぁんだ』って何だよ。オレだって工業高校に行きたかったさ」
「い、“行かなかった”の?」
「“行、け、な、か、っ、た”んだ」
「あっゴメンナサイ……」
すごんでくるリンに対し、クニカはか細い声で謝る。リンの心の色は真っ赤である。下手なことを言ったら、げんこつが飛んでくるだろう。
「まったく。……あ、勘違いするなよ? バカだから入れなかったわけじゃないからな?」
「わ、分かってるよ、リン。ゴメンってば」
「商業高校に入るほうが難しいんだからな。それに……いや、何でもない」
途中まで言いかけていたリンだったが、不意にため息をついて、会話を打ち切ってしまった。心に見える色も、活発な赤色から、よどんだ灰色へと変わっている。
「どうしたの、リン?」
「いや、バカバカしいからさ。昔の話なんかしたって」
リンはそっぽを向いた。いつも通りの口調だったが、いつも通りの口調であるだけに、なおさらクニカの心に突き刺さった。
「リン……そんな寂しいこと言わないでよ」
「何だよ。お前だって寂しそうな顔してるくせに」
リンは鼻を鳴らす。
「――それにな、高校は辞めたんだ」
「えっ、何で?」
「親父が働き詰めで、家の面倒はオレが見ることになったのさ。そしたら高校なんか行ってらんないだろ? だから辞めたんだよ」
「そ、そうなんだ」
逃げ出すことができるのならば、クニカは逃げ出したかった。会話をすればするだけ、クニカはぬかるみに嵌まっていくような気分になる。
「えっと、そのさ、リンのお父さんって、何の仕事してたの?」
「Ножницы заточки мастераだよ」
クニカは目を白黒させる。発音された一音一音の意味が、頭の中ではっきりと結びつかない。
「は、ハサミ研ぎ……?」
「そうだよ。ハサミ研ぎ職人」
そんなニッチな職業が通用するのだろうか、とクニカは考えてしまう。
しかし、思えばリンもよくナイフを研いでいる。リンも父親から手ほどきを受けたのだろう。“ハサミ研ぎ”とは言っているが、実際は研磨職人みたいなものだろう――と、クニカは自分を納得させた。
「何ブツブツ言ってるんだよ、気持ち悪いな」
「ご、ごめん……」
「――ウルトラに着いたら、クニカにもナイフの研ぎ方教えてやるよ。ちゃんとしたやり方があって――」
不意にリンが言葉を切って、クニカの着ているタオル地のパーカーを引っ張る。抗議の声をあげかけたクニカだったが、指の関節が白くなるほど、リンが力を込めていることに気付く。
「どうしたの、リン?」
「壁を見ろ、クニカ」
通路の壁に目をやったクニカも、事情を察知して生唾を飲み込んだ。校舎の壁面に、橙色の魔法陣が殴り書きされている。ベージュ色の壁とあいまって、魔法陣は毒々しい色合いだった。
クニカもリンも、顔を見合わせる。魔法陣がひとりでに作られるはずなどない。誰かの仕業に違いなかった。
「ねぇ、リン。これって何の魔法陣?」
「確かめる」
言うが早いか、リンは地面に落ちていたレンガを引っつかみ、魔法陣めがけて投げ込んでみせる。レンガが魔法陣を通過した瞬間、魔法陣がまばゆい光を放って消し飛んだ。
「うわっ?!」
とっさにクニカは顔をそむける。レンガの破片が四方八方に飛び散り、クニカの背中に当たる。
「大丈夫か、クニカ?」
「う、うん。平気」
リンの黒髪にくっついたレンガの粒を、クニカは取ってあげる。魔法陣は跡形もなく消え去り、壁の塗料は焦げ落ちていた。
「大学に泊まる話は無しだ。ここを出るぞ」
魔法銃を取り出したリンの傍らで、クニカも頷いた。