第19話:シャワールーム(Душевая)

なんじの星は、なんじを道に迷わせたるなり(お前を導くはずの星は、お前を道に迷わせてしまった)。

『ユダの福音書』、第45頁

「ほら、クニカ! さっさと入れ!」

 リンにお尻を叩かれながら、クニカは転がり込むようにして建物の中に入った。リエゴーイを――それも異常なリエゴーイを――経験したほとぼりが覚めないうちに、空を覆っていた雲から“黒い雨ドーシチ”が降ってきたのだ。

 クニカは、ショックから立ち直れていなかった。

「これで――よし!」

 荷台を押しやると、リンは両開きのドアを塞ぐ。うずくまったまま、クニカは周囲の様子をぼんやりと眺める。他と同様、この建物も荒れ果てていた。照明についていたはずの蛍光灯は四散し、あたり一面は埃っぽい。

 ヤンヴォイを抜けるときに滞在した水道局の詰め所よりは、幾分か広かった。中央にはスプリングの緩んだソファがあり、カーテンの向こう側にはカウンターがある。カウンターに載っていたはずのレジスターは、脇に転がってめちゃくちゃになっていた。

「ここは……?」

「ホテルだろ、きっと」

「ホテル?」

 その割には、壁は死んだようなエメラルド色で塗りつぶされているし、オレンジ色のピータイルは安っぽい。ホテルというより、モーテルといった方がふさわしい感じだった。

「ぜんぜんホテルっぽくな……いや、何でもない」

 リンがクニカの方をじっと見つめていたため、クニカは慌てて発言を打ち消した。口ごたえをしたらげんこつが飛んでくる――と思ったためだが、リンの反応は違った。

「なぁ、そのさ……あれだよ」

 要領を得ないリンの言葉に、クニカはまばたきする。

「ほら、誰だって、ちょっとくらい変なところはあるだろ? 良いとか悪いとか、そんなのは別にしてさ。特に、お前の場合記憶がないわけだし」

「うん……?」

「だから、さ、お前の体がわけの分かんない感じだったって、別に気に病むことじゃないって――」

「――リン」

「な、何だよ」

「もしかして……慰めてくれてるの?」

 クニカが訊いた途端、リンは歯が見えるほど大きく口を開けた。そしてリンの胸の辺りに、不安定な赤色が去来するのをクニカは見て取った。

「なんか……リンに慰められると、くすぐったくなっ――うげえっ?!」

 リンのこぶしが、クニカのおでこに炸裂する。痛がっているクニカを尻目に、リンは深々とため息をついてみせた。

「ハァ……疲れるな……別の意味で」

「いや、でも、その、あれだよ? ほら、リンに心配されてちょっと嬉しいなァ、なんて思ったよ?」

「“ちょっとニムノゴ”?」

ウウンニエット! すっごくオーチシン

「フォローになってないよ。ちぇっ。――行くぞ、クニカ」

 あごで合図すると、リンは二階へと向かう。クニカもリンの背中を追った。

――……

 二階へ上がってみると、廊下の交互に部屋があり、ドアは半開きになっていた。

 二人は一通り家捜ししてみる。全く期待していなかった二人だったが、収穫はあった。栓の開いていない瓶コーラ、タオル、紙石鹸、乾パンの缶とコンビーフの缶とが数種類――。

「見ろ、クニカ」

 クロゼットの中から、リンが何かを引っ張り出してくる。それは、青いタオル地のパーカーだった。

「お前にピッタリじゃないか?」

「うーん、ちょっと緩いかも……」

「あとでゴムひもを詰めればいいんだ。よかったな、クニカ。着替えが見つかったぞ」

 リンは嬉しそうだった。そのまま廊下の一番奥まで歩みを進める。角部屋までたどり着くと、

「この部屋にしよう」

 と、リンはクニカに告げた。早いところ横になりたかったから、クニカも二つ返事でうなずいた。

 部屋は清潔そうだった。相変わらず壁は死んだようなエメラルド色だし、その壁にはわけの分からない版画が掛かっているが、このくらいは、気にしなければどうというものでもない。

 版画を指差して

「福音書の伝承だよ」

 とリンは呟いたが、クニカもリンも、その内容を改めて確認しようとはしなかった。ベッドは低めで、側にはほころびたソファがあり、色とりどりのクッションが山積みになっている。

 目線を横にしたクニカは、そこにある個室を見てどきりとする。

「リン、見て、シャワー!」

「みたいだな」

 居ても立ってもいられず、クニカはシャワールームまで駆け寄り、扉を開いた。シャワールームはペンキ塗りの、窓さえない小部屋だった。

 おそるおそる、クニカはシャワーの栓を捻ってみる。シャワーは先の漏斗状の部分がなくなっていて、壁から鉄管が突き出しているだけだった。

 それでも、クニカの頭よりずっと高さところから、確かにお湯が噴き出してきた。

「リン、お湯!」

「見りゃ分かるよ。さっさと入っちまおうぜ」

 リンの言葉に、クニカは真顔になった。

「……り、リンが先に入っていいよ」

「バカ。お湯がなくなったらどうするんだよ。いい加減お前だってシャワー浴びろよ。汗臭くて堪んないぞ」

「うう……」

 そう言われてしまうと、クニカには反撃するすべがなかった。爆風にさらされ続けたせいで、クニカもリンもすすけて真っ黒だったからだ。

――……

 かくして、二人は並んでシャワールームに入ることになった。お湯は熱すぎる上、周囲に拡散しなかったから、ほとんど蛇口の下に頭を入れている感覚だった。それでも、こうして身体を洗えることが極めて贅沢ぜいたくなことのように、クニカには思えた。

 シャワーを浴びている最中、リンは気持ち良さそうに声を出していたが、クニカはとてもそんなことをする気にはなれず、ただひたすら自分のつま先を見つめていた。

 髪の毛。顔、全身、の順番に洗い終えると、二人はタオルを取る。

「ほら、クニカ」

「あ、ありがとう」

 ぼんやりしていたクニカは、リンの頭から滴ったしずくが、胸元まで落ちていくのを目撃してしまった。リンの身体を這う水滴に、クニカは釘付けになる。リンの乳房の稜線りょうせんをなぞるようにして、水滴は縦に流れ落ちる。

「……クニカ?」

 呼び止められ、クニカも我に返る。クニカが顔を上げてみれば、濡れそぼった髪をタオルで拭いながら、リンが不思議そうな面持ちでクニカを凝視していた。

「大丈夫か? 風邪をひくぞ」

「あ、分かった」

 間の抜けた返事をしてから、クニカも自分の裸体にタオルを這わせる。それでも、リンの肢体が気になり、クニカはちらちらとリンを見た。

 クニカの視線を、リンが気にするそぶりは無い。髪を拭き終えると、リンは腕を拭い、続けて肩から腰までを拭いた。

 リンがタオルを脚の付け根へとのばす段階になって、クニカも目を反らした。髪に当てただけのタオルをもう一度強く握りなおすと、クニカは邪念を追い払うように、乱暴に髪の毛にタオルを当てた。

「――ハックション!」

「ああ、バカ!」

 鼻をこすっているクニカから、リンが強引にタオルを奪い取った。

 リンが何をしようとしているのか察知し、クニカも慌てる。

「いいよ、リン。身体くらい、自分で拭けるって……」

「さっきからそう言ったっきり、ぜんぜんじゃないか」

 ため息をつくと、リンはクニカの身体からだに手を回した。リンの白い肌と接触しそうになり、クニカは思わず仰け反った。

「なんだ、くすぐったいのか?」

 クニカの桃色の髪を拭くと、リンはクニカの正面にタオルを持ってきた。リンの裸体が正視できず、クニカはなるべく視線を虚ろにした。

「ほら、後ろ!」

 リンに言われるがまま、クニカは回れ右をした。十六歳にもなって、誰かに身体からだを拭いてもらうことになるとは思わなかった。

「……本当に大丈夫か?」

「え? わたし?」

「他に誰がいるんだよ、バカ」

 腑抜けたクニカの質問に、リンはむっとしている様子だった。

「いや、だって、リンがさ――」

「オレ?」

 リンに尋ね返され、クニカも過ちに気付いた。

「オレがどうかしたのか?」

 クニカの思わくに反して、リンはやり過ごさせてくれないようだった。

 クニカの脳内に、先ほどのリンの姿がよみがえってくる。

 髪をポニーテールからおろしたリンは、とても可愛らしく、クニカ好みだった――。

(……なんて言えない!)

「おい、なんだよ。ちゃんと言ってくれ」

「その、その……いや、『キレイだなァ』と思って」

 リンにけしかけられ、反射的にクニカはそう口走った。できるだけ当たり障りの無いように、クニカは答えたつもりだった。

 ところが、リンの反応は違った。

「え?」

 と言ったきり、クニカの背中を拭っていたリンの指の動きも止まってしまう。リンのかんに障ったのかと思い、クニカも多弁になる。

「いや、その、ほら、リンっていっつもポニーテールじゃん? でも今は髪をおろしているからさ、その、『キレイだなァ』と思って、それで……リン?」

 いたたまれなくなって振り返ったクニカだったが、今度はクニカがリンに尋ね返す番だった。

 瞳を丸くしたまま、リンはその場に立ちすくんでいた。右手にタオルを握りしめたまま、リンは身じろぎ一つしない。

「リン、どうしたの?」

「え? あ……」

 再度クニカに呼びかけられ、リンは拍子抜けのするような生返事をした。泡の抜けたサイダーを飲まされたような表情をリンはしていたが、それから口をへの字に曲げると、リンはばつ悪げに左の耳に手を当てた。

「まったく……お前がヘンなこと言うせいで、ビックリしたじゃないか」

「う……ゴメン」

「……もう!」

 鼻を鳴らし、リンはそっぽを向く。何気なくリンを見ていたクニカも、リンのほうが赤く上気していることに気づいた。

 そんなクニカの視線に、今度ばかりはリンも敏感だった。

「ほら、クニカ! さっさと身体を拭けよ」

「あっ、はい!」

 投げ渡されたタオルで、クニカは弾かれたように自分の身体からだを拭いた。

「……まったく!」

 腕を組んでいるリンは、いつに無く不機嫌そうだった。

「変なこと言うなよな。……あ。あと、勘違いするなよ。クニカにそんなこと言われたって、嬉しくも何ともないんだからな!」

「分かってる、わかってる!」

 語気に押されるようにして、クニカも答えた。

◇◇◇

 風呂から出た二人は、そのままベッドに横になった。一つのベッドを、二人で分け合う形だ。

 クニカはさっそく、新しい服に着替えた。サイズは少し大きかったものの、充分着こなせた。タオル地のパーカーは子どもっぽかったが、汗でべったりと張り付いてしまうことがないから、心地良かった。

「……ねぇ、リン」

 天井を見ながら、クニカはリンに声をかけた。

「どうした?」

「人が死んだら、その人はどこに行くの?」

「導きの星になるんだよ」

「導きの星――?」

「そうだよ。人が生まれると、その人を導く星も天に生まれる。そしてその人が死んだら、星も消える。その代わり、死んだ人が新しい星になって、新しく生まれた人を導くんだよ」

「そうなんだ……」

「そうさ。寿命だろうが、事故だろうが、死んだ人は星になる。星に生まれ変わる。殺された人でも」

 リンの言葉に、クニカはぎくりとする。クニカの気持ちなど、リンにはお見通しのようだった。

「考えてたんだろ、今日のこと?」

 クニカは黙ってうなずいた。

「オレも考えたよ」

 リンはいったん言葉を切る。

「オレは……こう考えた。あそこにいたギャングたちは、好きで人を殺してたんだと思う。遊びみたいなもんだったんじゃないかな? 制御室に向かって飛んでたときに、川辺に沢山の死体が浮いているのを見たんだ」

「わたしも……同じのを見た」

「そうか。じゃあ……話が早いな。どんなことがあっても、人は助け合わなきゃダメなんだと思う。オレと――クニカみたいに。人を殺して良い理由なんてないんだよ。アイツらは殺していた。だから死んだんだ。オレたちのせいじゃない。アイツら自身のせいだよ。そう思おうぜ、クニカ。そんなふうに」

 薄い掛け布団を、クニカは握りしめた。つい半日ほど前まで、クニカもリンも死ぬすれすれだった。今、ギャングたちは死んで、クニカたちは生きている。

 なぜか? 自分の「死にたくない」という気持ちが強かったから? そうかもしれない。街を駆け抜けている最中、クニカは「死んでたまるか」と思った。

 しかしそれは、ギャングたちだって同じはずだ。「死にたい」と本気で考えているのならば、とっくにそうしているだろう。彼らは生きていた。ちょうどクニカがそうしているように。

「あのさ……リン」

 クニカは再度、リンに問いかける。

「何?」

「祈るのって、おかしいかな? わたし、ギャングに殺された人も、ギャングたちも、一緒に祈ってあげたいんだよ。あの人たちだって、もし平和だったら、あんなことにならなくて済んだかもしれないし――」

 リンは、すぐには何も答えなかった。ややあってから、

「お人好しだよな、お前って」

 と、リンは呟くように言った。

「ご、ごめん……」

「お前はお人好しだよ、クニカ。オレが保障する。でも……それで良いのかもしれないな」

「それで良い?」

「うん。お前らしいよ。ウルトラに着いたら――」

 それっきり、リンは何も言わなくなる。程なくして、リンが寝息を立てているのが、クニカにも聞こえてきた。

 クニカは目を閉じる。睡魔はすぐにやってきた。眠っている間中、クニカは夢を見ていた。自分の身体からだに白い翼が生えて、無尽蔵に空を泳ぎ、海を飛ぶ、壮大な夢である。奇妙で、はっきりしない、しかしどこか懐かしい、そんな夢。

 神様、

 と、クニカは夢のなかで叫んだ。――神様、どうかわたしに祈らせてください。だって、祈る以外にできることなど何もないのだから。祈りが届いたのならば、来て、わたしを助けてください。でなければわたしは、自分が誰なのか分からなくなってしまうから、と。

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