其は、復た還らざりし栄えある母の声。而して産まれ出づる神の恩寵。又而して、蔵されし知恵の礎たる益荒乙女なり(それは繰り返し得ざる母の栄光の声。そして神の産出の栄光。そして隠された叡智に由来する男性的処女である)。
『三体のプローテンノイア』、第24節
「そっちは、クニカ?」
リンに示されたレバーを、クニカは倒してみる。二人の目の前で、波止場のクレーンが左へと旋回した。
「――じゃあ、そっちは?」
リンに言われるがまま、クニカは赤いボタンを押してみる。寝ぼけたような唸り声と共に、シャッターが一斉に閉まり、二人のいる制御室から跳ね橋が見えなくなった。
「何だよ、クソッ」
いら立ちまぎれに、リンが計器台の側面を蹴り飛ばす。
先ほどから、ずっとこの調子だった。無数のボタン、無数のレバーが、跳ね橋を降ろす”だけ”の作業を阻んでいた。早くしなければ、ギャングたちが二人の存在に気付いてしまう。
「どうしよう……」
「――あれ?」
途方に暮れているクニカの耳に、リンの声が届く。クニカがそちらを向くと、計器台の側面についていた扉が開いていた。リンが蹴り飛ばした弾みで、側面の扉が開いてしまったようだ。
「何だこれ?」
しゃがむと、リンが扉の中に手を伸ばし、何かを引っ張る仕草をしてみせた。するとどうだろう、
がちゃん、
という音とともに、台に手をついていたクニカにも振動が伝わってくる。手をどけてみれば、下にあったプレートが外れていた。
プレートの下に隠れていたつまみを、クニカは捻ってみる。捻ったと同時に、足元から規則的な振動が伝わってきた。例えるなら、噛み合った歯車が、重いものを引き下げているような感触だった。
「やったか?!」
「うん……やった――?」
クニカが歓声を上げかけた、そのとき。外からサイレンの音が響き渡り、制御室の壁にこだました。
「まずい」
リンのかすれ声が、クニカの耳に飛び込んでくる。張り上げた声でない分、リンの声は怖かった。クニカの額から汗が噴き出し、脚の力がすっと抜けてゆく。
跳ね橋は作動している。今までにない地鳴りから、そのことは分かる。しかし、サイレンは予想外だった。まだ平和だったとき、ベスピンの街が喧騒に包まれていたとき、サイレンの音などは、取るに足らないノイズのひとつだったにちがいない。
しかし、今は違う。ベスピン市内に響き渡るサイレンの音は、死に直結する音だった。
「今しかないよ、リン!」
クニカはリンの腕にすがる。クニカの腕と同じように、リンの腕にも鳥肌が立っていた。
「急がないと!」
「わかってる、分かってるよ!」
クニカの腕を掴み返すと、リンは制御室の出入り口まで急ぐ。リンの背中を、クニカも追った。
◇◇◇
制御室の扉を開け放ち、二人は外へ飛び出す。跳ね橋の反対に目を向けたリンが、その場に釘付けになった。
「リン……?」
「あれを見ろ!」
遠方をにらんだクニカも、こちらに迫ってくるものを見てすくみ上がる。路上のガラクタを踏み潰しながら突き進んでいるのは、白い戦車だった。
「いたぞ!」
ギャングの声が響いた。遠くから聞こえた声なのだろうが、クニカには耳元で聞こえたような気がした。
二人が駆け出したと同時に、街路の向こうから銃声が響いてくる。距離が離れていたために、銃撃は途中で勢いを失い、弾はアスファルトを転がった。追いつかれたら、いや射程に入った時点で、ひとたまりもないだろう。
脚に羽が生えたかのように、しかも本能的に、クニカもリンも走っていた。走っている最中、クニカの脳裏を様々なイメージが一斉に駆け巡った。頭の中にハリウッド映画のイメージが浮かび、その滑稽さに冷静になりかけ、しかし「冷静になったら死ぬ」と本能は呼びかけてくる。度しがたき矛盾のなかで、クニカは懸命に地面を蹴っていた。
「リン!」
切れ切れになった息で、クニカはリンに向かって叫ぶ。跳ね橋の降下は、笑ってしまうぐらい緩慢だった。二人の目の前に聳えているのは、「橋」というよりも「坂」だった。
「登るぞ!」
リンが大声を張り上げた瞬間、クニカたちの頭上を「何か」が通過する。視界の端に映ったそれは、「坂」の頂上に激突した。――遅れて、砲撃の音がクニカの耳に殺到する。
今しがた目撃したものが、戦車の放った弾だと気付いたときには、クニカの身体は爆風に圧されて、浮いていた。粉砕された橋げたの一部が、礫になって周囲に飛び散る。
たたらを踏みかけたクニカの肘を、リンが咳き込みながらも、強引に引っ張った。
「リン――!」
「うるさい! 飛ぶぞ!」
クニカの肘を握るリンの手は、万力のように固い。
さっきと言っていることが違う――。クニカはそんな、下らないことを考える。考えている最中にはもう、リンの背中から翼が生えていた。”鷹”の魔法を使い、リンは橋げたの先端から、反対側まで飛び移るつもりなのだ。
リンが羽ばたき、クニカの体も持ち上がる。持ち上がったその瞬間、クニカの足元を銃弾が薙いだ。
――あそこだ!
クニカの脳裏に、男の野太い声が割り込んでくる。記憶が確かならば、それは“お頭”の声だった。と同時に、“お頭”の意識が制御室に没頭していることが、クニカには直感的に分かった。
「リン、もっと左――!」
クニカが叫んだのと、クニカの耳が砲撃の音を捕らえたのは、ほぼ同時だった。砲撃は、クニカたちの右脇に反れ、跳ね橋の制御室を粉砕した。ゆっくりと、しかし着実に平坦になりかけていた橋は、この爆撃のせいで完全に動作を停止してしまう。爆発に際して生じた閃光に、クニカの目がくらむ。リンが爆風に煽あおられ、二人の身体からだは「坂」にこすりつけられる。
――ガキを狙え、“うすのろ”!
“お頭”の言葉が、クニカの脳内に響いてくる。“お頭”が戦車で指揮を執とり、“うすのろ”が砲撃手なのだろう。耳を澄ませてみれば、銃声は聞こえない。“お頭”は、戦車の一撃でクニカたちを仕留める気なのだ。
「飛ぶぞ、クニカ! 動くな!」
言うなり、リンがクニカの脇に腕を回した。リンに抱えられた格好のまま、クニカの身体は橋げたの先端を離れる。砕け散った橋のつなぎ目の下に、エツラ川の青々とした川面が見える。
砲撃を食らったらどうなるか? クニカの頭の中で、全ての思考が一斉に積み重なっていく。砲撃が当たったら、粉みじんになるだろう。当たらなくとも、次の一撃で、橋げたに叩きつけられる。そうなったら、ただではすまない。
何としても、“砲撃そのもの”を止めなくてはならない。
「おい、バカ! ちゃんと捕まってろ――!」
クニカの頭の後ろで、リンの怒鳴り声が聞こえる。それでも、クニカは構わずに両手を組み叶えられ得る限りの最大の望みを込め、祈った。
「クソッ!」
リンが汚い言葉を吐き捨てた。戦車がばく進し、橋の入り口にまで来ている。戦車とクニカたちとの距離は、幾ばくもない。
中空を飛ぶクニカたちに向けられ、砲弾が発射される――。
◇◇◇
「あっ――!」
リンの叫び声が、クニカの耳にこだました。
奇妙な沈黙に確信を抱いて、クニカも振り返ってみる。
発射されたはずの砲弾は、砲身のすぐ先端で静止していた。まるで、飛んでいる最中に氷漬けにされたかのようだった。周囲にいるギャングたちも、何が起きているかわからず、みな口を開いている。
「ちくしょう! どうなってやがる!」
ただ一人、戦車の砲塔から身を乗り出していた“お頭”だけが、この光景を見て怒り狂っていた。
◇◇◇
恐ろしいことは、唐突に起きる。
それがやって来るときは、慌しくもなく、しかし、避けることはできない。
戦車の中で、彼がやったこと。
それは、本当にささいなことだった。制御室を吹っ飛ばしたときと同じように、指の筋肉を収縮させ、トリガーを引く。
たったそれだけ。狙撃に関して、“うすのろ”は天才だった。獲物を仕留めることについては、ギャングたちの誰よりも偉大だった。
その才能が、ほんの少しでも、ほかのことに向いてさえいれば!
「お、おっ……?」
喉の奥から奇妙な声をしぼり出している“うすのろ”に気付き、戦車を運転していたギャングがそちらを向く。
“うすのろ”の指がトリガーに掛かっているのを見て、ギャングは血相を変える。
「バカ! やめ――!」
だが、最後まで言い切ることはできなかった。
“うすのろ”がトリガーを引く。バネがが弾け、火花が散る。強烈な力と速力とで、砲身の内側より弾が発射された。
弾は命中した。――クニカとリンとにではなく、クニカの祈りによって静止していた、もう一つの弾に。
◇◇◇
その瞬間を、クニカは目撃した。そして
「あっ」
と声を上げた。――いや、実際には上げたつもりになっていただけかもしれない。とにかく、空中に静止していた弾めがけ、新たに発射された弾が追突しているのが、一瞬だけ見えた。その直後、縦につんざかれている戦車のイメージが、あたかも静止画のように、クニカの脳内に飛び込んできた。
二つの弾が追突し、強烈な火炎が戦車の至近距離で炸裂した。熱風は、砲塔から戦車内に逆流し、搭乗員を皆殺しにした。内部の高熱に耐えられず、戦車そのものが弾け飛ぶ。
「熱っ――!」
誰かの声がする。リンが叫んだのかもしれないし、クニカ自身が叫んだのかもしれない。もしかしたら、クニカが錯覚しただけかもしれない。声の主を確かめる間もなく、二人は別々に、対岸のアスファルトに叩きつけられた。
目はくらみ、平衡感覚はなくなり、全身は煤すすけ、服は破け、口の中は火薬臭くなった。体の節々が痛い。
それでも立ち上がると、クニカは足腰を奮い立たせ、倒れ伏しているリンの方へ近寄った。
「リン!」
「ウ……ン」
「リン! しっかりして!」
「――クニカ?」
何度も呼びかけられ、リンは目を開けた。クニカと同じく、リンの身体は煤けて真っ黒だったが、怪我はないようだった。
リンは、少しの間放心状態といった様子だったが、我に返ると、クニカの腕を鷲掴みにした。
「待て、クニカ! いったい――?」
リンはそれ以上、クニカに尋ねようとはしなかった。電撃を浴びせられたかのように飛び上がると、リンは橋のたもとまで駆け寄った。
クニカもリンに追いすがる。リンが見ているものと同じものを眺め、息を呑んだ。
度重なる戦闘で、向こう側の跳ね橋は、根元からもげてしまっていた。対岸は一面が焼き尽くされ、何も残っていない。川面からは、崩れ落ちた瓦礫と、戦車の残骸とが折り重なって倒れていた。
「ざまあみろ!」
不意に、リンが声高に叫ぶ。声は重なって、空の彼方へと響いていった。
右腕を大きく振りかぶると、リンは何かを投げ飛ばす。エツラ川へと放物線を描くそれは、くしゃくしゃに丸められたベスピン市街の地図だった。地図は崩落した橋の残骸の中に落ち、戦車から漏れた重油にまみれ、川底に沈んでいく。
「……リン?」
ためらいがちに、クニカはリンの背中へ声をかけた。肩を大きく上下させながら、リンは激しく息をしている。
もう一度声をかけようとしたクニカを、下からの爆発が遮った。クニカも慌てて、リンの側、崩落した橋の先端まで行く。
川底の泥に突っかかっていた戦車が、盛大に燃えていた。小刻みにはぜながら、戦車の砲身がもげ、川の中へ沈んでゆく。右側のキャタピラーが千切れ、重油にまみれていた。
「乗ってた人……」
そう言ったきり、クニカは口をつぐんだ。本当は「大丈夫かな?」と付け足したかったが、リンの手前、そんなことを口に出すのは憚られた。クニカの心は振り子のように、赤と黒との境を行き来していた。「男たちを死に追いやってしまった」という良心の呵責と「でも、そうしなければ二人とも死んでいた」という現実的な考えとが、クニカの中でせめぎあっていた。
「――うわっ?!」
自分の感情にかかりきりだったから、クニカはリンが近づいてくるのに気付かなかった。クニカの影を踏むように足を出すと、そのままリンは、クニカを抱きしめた。
予期せぬ出来事に、クニカは身体を強張らせ、リンの腕から反射的に逃れようとする。だが、リンはそんな抵抗をものともせず、クニカの頭と背中を愛いとおしげに撫でた。
「ああ、良かった」
それがリンの言葉だった。宝物に傷がついていないと知って安堵する子供のような、そんな言葉だった。
「良かった……本当に良かった」
初めは苦しかったクニカも、リンから伝わってくる鼓動が緩やかになっていることに気付いた。リンはずっと、緊張の連続だったのだ。二人とも助かり、その箍が外れたのだ。
戸惑いつつも、クニカはリンの肩に手を回した。リンの着ている白いシャツは、もはや何色だったか分からないくらいになり、おまけに汗でぐっしょりと湿っている――。
そのときだった。
「……うっ?!」
下腹部の疼痛が、クニカに再び襲いかかった。痛みはその限界をつき抜け、クニカの足腰を襲う。
「クニカ?!」
膝から崩れ落ちたクニカの身体を、リンは慌てて抱き起こす。
「どうした? しっかりしろ!」
「お、お腹が……」
「お腹? 腹でも壊したのか?」
「いや……ていうか、もっと下? のほう」
「下? それって……」
リンはしばらくクニカを見つめていたが、唐突にハァ、とため息をついた。
「クニカ、あれだろ? リエゴーイだろ?」
「リ、リエ――?」
「そうだよ。バカ。言わせんなよ。恥ずかしい」
「何それ……?」
言った途端、リンが信じられないといった目つきでクニカを凝視する。その視線にびくついた弾みで、痛みが一気に強くなり、外に向かってはじけ飛ぶのがクニカには分かった。
「いっ……?!」
お腹の下がうずき、太ももの内側から、生暖かいものが流れ落ちる。何が起きているのかわからず、クニカはうずくまりかける。
「おい、クニカ、パンツ脱げ」
「うん。……え?」
同意しかけた後に、クニカは慌てて首を振った。
「い、イヤだって!」
「バカ! オレだってイヤだよ! ていうか、今までどうしてたんだよ。ったく――」
鞄を下ろすと、リンは中から何かを取り出した。それは、猫じゃらしみたいな形状をしたガーゼだった。
「ほら、はやく!」
「イヤ! ダメっ!」
「バカ、何がダメなんだよ!」
「う、うわあっ?!」
クニカを強引に座らせると、リンはクニカのズボンに手をかけ、パンツごと下に引っ張った。
「……え?」
不可解な形状をしたガーゼを握りしめたまま、リンがその場で呆然とする。慌ててパンツをはこうとしたクニカは、自分の下腹部を眺めて凍りついた。
クニカの下半身から吐き出されていたものは、生臭いにおいを発する精液だった。
「何だこれ――?」
リンの声を聞いて、クニカは我に返った。そしてクニカも全てを理解する。「リエゴーイ」とかいう言葉の意味、リンが想定していたこと、リンの手に握られているものの用途――。
「うわあ?! うわあああああっ?!」
「あっ、おい?!」
リンを跳ね飛ばすようにして立ち上がると、「ガーゼ」の一セットを掴み取って、クニカは建物の影に隠れた。
「おい、クニカ?! どうしたんだよ?!」
「イヤっ! こないでェッ!」
悲鳴を上げながら、クニカは「ガーゼ」を使って、内股についた精液を拭き取った。自分は女のはず、だから「リエゴーイ」が起きた、なのに、出て来たのは精液だった。何が起きているのか分からない。しかし、分かりたいとも思わない。
使い方も分からないまま、使用済みの「ガーゼ」がクニカの足元に溜まる。
空は雲に覆われている。雨が降りそうだった。