屍を明らむる者は、この世に如かざるなり(死人(この世の真理を見出さない人)を見出すような人間に、この世界はふさわしくない)。
『トマスによる福音書』、第56節
裏口から出ると、クニカはリンの飛び去った方角をにらんだ。建物の内部から確認できたはずの“跳ね橋”も、地上に降り立ってしまうと、他の建物に遮られて分からなくなる。
壁際を伝いながら、クニカは慎重に歩みを進める。“お頭”が指示していたとおり、ギャングたちはエツラ川の反対側に出払ってしまったようだ。ギャングたちの姿はまばらで、クニカでも難なく移動できた。
(それにしても、)
周囲の建物を見渡すうちに、クニカは心細くなってくる。女体化してしまったせいで、クニカは身長が縮んでいる。今までならば何気なく見過ごしていた建物も、やけに高く見えた。
「こっち……だよね?」
ひとり呟きながら、クニカは音を立てないように進んでいく。目指すはベスピン市の北、エツラ川に掛かっている跳ね橋だ。
◇◇◇
「よしっ!」
網の目のように入り組んだ路地を抜けると、クニカの目の前に、川が姿を現した。エツラ川だ。幅が広く、流れの静かな川で、河口は海岸かと見紛うほどの長い砂浜にふち取られている(が、その砂浜へと降りるためには、コンクリート製の堤防を下らなくてはいけなかった)。
北へ目を向ければ、跳ね橋が見えた。周辺には、クレーンやコンテナが所在なく散らばっている。ちょっとした港か、ドックなのだろう。とはいえ川である以上、小型船しか入れない様子だった。
クニカは目を細める。跳ね橋は上がっており、分断されていた。橋を作動させ、つなげなくてはならない。
「うぐっ……?!」
何気なく浜辺に視線を落としたクニカは、気持ち悪くなって目をそむけた。水路の底の方に、複数の死体が折り重なって倒れているのを見てしまったのだ。
吐き気を我慢して、クニカはもう一度水路の下を見る。死体は裸で、首と胴とが、全て切り離されていた。
この街の事情が、ようやくクニカにも呑み込めてくる。街を占拠してすぐ、ギャングたちは跳ね橋を上げてしまったのだ。そうすれば、ウルトラを目指している難民たちを、みなここで足止めできる。向こう岸へ渡れずにいる難民たちを襲い、ギャングたちは、その命と財産とを奪っているのだ。死体は所持品を全て奪われた挙句、黒い雨でコイクォイにならないよう、首が切断されているのだ。
(逃げなきゃ……絶対に!)
服の胸元を握り締め、クニカは動悸を押さえつける。
◇◇◇
鉄門の横にある小さな回転扉をくぐって、クニカは跳ね橋近くの制御室まで急いだ。本来ならばこの辺りにもギャングたちがいたのだろうが、今は誰もいなかった。
クニカは細心の注意を払って、迷路のようになっているコンテナの間を突っ切ってゆく。
「ベスピン警察巡視船」
と書かれている、船がつないである突堤から、クニカは階段を登って制御室の扉を開ける。
「リン?! いる?」
「クニカ!」
物陰から飛び出してきたリンが、クニカを抱きしめた。
「無事だったんだな。良かった」
クニカの首にぶら下がっている“お守り”をなで、リンが目を細める。それからリンは、クニカの両肩に手をかけ、クニカの青い瞳を見据えた。
「屋上にいたときに、お前の声がしたんだ。どうなってるんだよ?」
「それは……」
クニカは手短に説明した。跳ね橋を渡して、向こう岸に逃げる必要があること。“お頭”なる人物が、ギャングたちを取り仕切っていること。“お頭”の心の色は見えないから、何を考えているか分からないこと……。
「心の色……」
「え?」
「クニカ、お前、オレの心の中も覗いてたな?」
「あ……」
勢い込んで話していたために、うっかり口を滑らせてしまったことに、クニカは気付いた。慌てて取り繕おうとするも、リンの「心の色」が真っ赤になるのがクニカには分かった。
「……で、続きは?」
リンからげんこつを食らった後、クニカは自分の能力について話し始めた。祈りを通じ、不思議な魔法が使えるということ。ただし、どこまで使えるかは、クニカ自身にもよく分かっていない、ということ。
「う……ん」
リンは眉をひそめたり、唸ったりしていたが、右手はずっと脇腹に添えられていた。狙撃で瀕死に陥ったリンを救ったのも、クニカの「祈り」にほかならなかったからだ。
「だとしたら……不思議だな」
「不思議?」
「そうだよ。お頭って奴は『連中を蹴散らして武器まで奪った』って言ったんだよな? “連中”って誰だよ?」
クニカもはっとする。聞き飛ばしていたが、確かにその通りだ。
「ま、街の人とかじゃないかな?」
「街の人が? 戦車なんて使うのか?」
「それは……ないか」
答えあぐねているクニカを見て、リンは肩をすくめてみせる。
「良いよ。考えても仕方ない。今は、この跳ね橋をつなげることだけを考えよう」
「うん!」
「よし! ……で、どうすれば良いと思う?」
訊かれたクニカも、どう答えれば良いのか分からない。
制御室には、膨大な数の計器類、レバー、ボタンが所狭しと並んでいるためだ。
何とかしてリンに答えようとした、次の瞬間。
「うっ?!」
クニカは猛烈な腹痛に襲われ、計器台に手をついた。
「どうした、クニカ?!」
「お腹、が、――あれ?」
腸の辺りをペンチで捻ったかのような痛みだったが、リンに説明する前に、痛みは治まってしまう。それでもクニカは、下腹部の辺りに、妙なしこりのようなものを感じ取った。
「いや……何でもない」
「何だよ、脅かすなよな」
リンに促されるまま、クニカも目に付くレバーをとりあえず引いてみる。
遠くの空で、雷の音が聞こえた。