すぐに部屋まで辿り着けると思っていたクニカだったが、ダクトは思いのほか入り組んでいた。おまけに暗い。
「ん……ここって……うひぃっ?!」
クニカの喉から、変な声が迸った。てっきり板があるものと思って手をついたのに、下は穴だったからだ。真っ逆さまに落ち、クニカはおでこで換気扇を破壊する。
「うげぇっ?! ――あ……?」
危うく床に叩きつけられるところだったが、下に衣服や、袋や、灰色に汚れていたシーツなどが積んであったおかげで、クニカは怪我もなく背中から着陸した。
(ここは……?)
クニカは辺りを見渡してみる。壁にはロッカーが立ち並び、折畳み式の机と長椅子とが、無造作に重ねてある。床のタイルは黒ずんでおり、全体的に埃っぽい。たぶん警備員か、あるいは掃除のおばさんなどの詰所だったのだろう。
(そうだ、ギャングたち――)
床に降り立った瞬間、クニカの足元で
ぷちっ。
という音がした。それに、すごく嫌な感触がした。クニカの視界の端で、タイルの黒ずんだ部分が、一斉に動き始めた。
(ヒィーッ?!)
タイルが汚れていたわけではない。床が真っ黒になるくらい、ゴキブリがうろついていたのだ。
本能的にクニカは後ずさるが、またしても
ぷちっ。
という音がした。ぺったんこになったゴキブリが、床で果てている。
突然の来訪者に、ゴキブリたちも慌てふためいている様子だった。凍り付いているクニカを尻目に、ゴキブリたちは音を立てながら一斉に物陰に隠れていく。あっという間の出来事だった。クニカが我に返ったときにはもう、ゴキブリの姿は影も形もなくなっていた。
とはいえ、「姿を消していること」と、「消えていること」とは違う。
生まれたての子馬のように脚を震わせながら、クニカはロッカーの一つを開けてみる。ゴキブリたちが飛び出してくる! ――などということはなかったが、そこに置いてあるものを見て、クニカはぞっとした。木の棒の先端に、タマゴのような形をしたかたまりがくっついている。手榴弾だ。ゲームの中でしか見たことのないしろものである。
(ヤバそう……)
クニカの見るかぎり、出入り口は一つしかなかった。藁にもすがる思いで、クニカはドアノブに手を伸ばしたが、
「これで全員だな?」
という、男の野太い声を聞きつけて踏みとどまる。その声は、扉の向こう側から聞こえてきたものだった。
飛び出していたら、今ごろクニカは蜂の巣だっただろう。
(危なかった……)
安堵のあまり、クニカは座り込んでしまう。クニカの目線とドアの鍵穴との高さが同じになった。鍵穴から向こうの様子が覗ける。
(ようし……)
心の中でガッツポーズを決めると、クニカは鍵穴まで鼻先を近づけた。
隣の部屋は広いようだ。鍵穴から覗いただけで、五、六人のギャングたちがたむろしているのが分かった。
「んで、どうなってんだ?」
先ほどの声の主が、周囲にいるギャングたちに尋ねている。クニカの見える範囲では、彼の足しか確認できない。声の主はいかつい、黒いブーツを履いている。椅子にふんぞり返って、脚を投げ出しているに違いない。
「車の持ち主は見つかったのか、って訊いてんだ」
「それが……いねぇんだよ」
「“いない”? んな馬鹿な話があるか」
黒いブーツが動き、苛立たしげに床を叩く。今のやり取りがクニカには意外だった。ギャングたちはまだ、クニカたちを探しあぐねているらしい。
目を細めていたクニカは、あることに気付く。目視できるかぎりでは、五人の人物がいる。しかし心の色を見透かせるのは、その中の三人にすぎない。クニカの感情を読み取る能力は、万能ではないようだ。
「だけどよ、お頭、本当なんだぜ」
“お頭”の言葉を聞きつけ、クニカは奥歯を噛み締める。さっきから偉そうに振る舞っている人物こそ、ギャングたちのボス、“お頭”なのだ。
そして“お頭”の心の色を、クニカは見ることができないでいる。肝のすわっている人物の心は、見透かすのが難しいようだ。
「なぁ、相棒よ」
相手のギャングに向かって、“お頭”が静かに口を開いた。口調こそ穏やかだったが、声の芯は氷のように凍てついていた。
「お前だって分かってるよな? オレたちがこれまで、どれだけうまくやってきたのかってことぐらい。奇跡みたいなもんだぜ? 連中を蹴散らして武器まで奪った。必要なのは食料だけだ。殺してでも奪い取らなきゃならん。『車の持ち主が見つかんねぇ』だと? そいつが街を抜け出したらどうする? おい、オレがお前にこうして話してやってんのは、お前さんの首をつなぐためだぞ」
「お頭」
相手のギャングは言った。表情は分からないが、心の色は真っ青になっている。指はわなめいており、声はカラスのようにしゃがれきっている。
「あ、あんたの手腕は誰だって認めるぜ。肝っ玉も太いって、オレだって思ってる。だけどオレは降りるぜ」
「なんだと」
「もう限界だ。これ以上いたって、どうしようもねぇ。んなこと、ここにいるみんなだって、分かってるはずだ!」
そう告げると、相手のギャングは踵を返した。彼にしてみれば、棄て台詞を吐いたつもりだったのだろう。
しかしそう遠くまでは行けないのが、彼の運命だった。“お頭”は怒号を一つ上げると、隠し持っていた飛び道具を空中に投げる。尖った先端が、男の背中に深々と突き刺さった。
クニカの耳にした音から考えると、今の一撃で、相手の背骨は砕け散ってしまったに違いない。湿り気を帯びた、ぞっとさせる音だった。とにかく、男が意識を取り戻すことはなかった。
“お頭”は猿のようにすばしっこくギャングに跨ると、背中に刺さっていたナイフを引き抜き、素早くギャングの喉に差し込む。ナイフが振り下ろされるときの、「きゅっ、きゅっ」という音が、クニカの耳にも飛び込んでくる。クニカは気絶の何たるかを知らないが、このときばかりはそれが何であるのか分かった気がした。
「死にたいやつはいるか?」
“お頭”の声を聞きつけ、クニカは集中力を取り戻した。床には一人のギャングが転がっている。血生臭いにおいが、細い鍵穴を通してこちら側にまで漂ってくる。
誰も返事をしなかった。
「見つけ出すぞ、何としても。街の入り口に見張りをつけろ。相手だって逃げようとするだろう。そこを捕まえるんだ」
「でもよ、お頭、人手が――」
「掻き集めろ。跳ね橋ブリッジの奴らも連れてこい」
(跳ね橋? そうか!)
クニカの心臓が高鳴る。今、ギャングたちは街の入り口に張り付いて、クニカたちを仕留めようと躍起になっている。人手を集めるために、跳ね橋を見張っているギャングたちも動員されるから、跳ね橋は手薄になる。
だから、クニカたちは逆手を取って跳ね橋に向かえばいい。跳ね橋を機動させることができれば、対岸へと逃げ切ることができる。
「ようし、行くぞ!」
親方の号令で、ギャングたちが一斉に退出し始めた。部屋を去るギャングたちの背中を、クニカは見守る。
クニカの見る前で、黒い長上着を着ているギャングが、別のギャングに呼び止められた。
「何だよ、おい」
「なぁ、あっちの部屋怪しくないか?」
呼びかけた方の男が、クニカのいる方角を指さした。
(やばっ……?!)
事の成り行きを確認するより前に、クニカの身体は自然に動いていた。静かに、しかし電光石火の早さでロッカーに駆け寄ると、クニカはその中に入り込む。
背中には、手榴弾が置いてある。おしりでどついたりしたら、クニカは粉々だ。
「埃まみれじゃねぇか、ちくしょう」
男たちが部屋へ入ってきた。
「誰がいるってんだよ、ったく」
「いた気がしたんだぜ」
もう一人のギャングは、いかにも疑わしいと言ったそぶりだったが、間近にあるロッカーを乱暴に開いて確認する。ロッカーは横に五つ。クニカは一番端のロッカーにいる。
(まずい、まずい……!)
冷や汗を掻くクニカの脳裏に、ふと記憶が蘇ってくる。
リンが狙撃されたとき、「死なないで!」と念じた。光がクニカの手から溢れ、リンは助かった。
枯れた水路でギャングに鉢合わせそうになったとき、「こっちに来ないで!」と念じた。ギャングは引き返していった。
理屈がどうのという話ではない。クニカは何もできない。祈るしかなかった。
(神様……)
腕を組むと、クニカはただ祈った。隣ではギャングたちが、四つ目のロッカーを開け放っている。
(見つかりませんように!)
「最後だ」
ギャングたちによって、ロッカーの扉が開け放たれる。クニカは目を閉じていたが、まぶたの裏が明るくなった。
おそるおそる、クニカは目を開ける。薄汚れたシャツを着たギャングと、クニカの視線がばっちり合った。
(も、もうダメだ……!)
「ほぉら、言っただろ?!」
シャツを着た方のギャングが、長上着を着ている方のギャングをどつく。
「誰もいねぇじゃねえか」
「おっかしいなぁ」
相方のギャングが、クニカのいるロッカーを覗いてみる。クニカは固まって動けなかったが、このギャングにもクニカが見えていないらしい。
「オレの勘違いだったのかなァ」
「当たりめえだろ。さっさと行くぞ」
二人のギャングたちは、そそくさと部屋を退散する。
「ハァ……ハァ」
ギャングたちが出て行ったのを確認すると、クニカはロッカーから抜け出した。心臓が口から飛び出しそうだった。
クニカの心の中に、一つの確信が芽生える。この異世界の中では小さな確信かもしれない。それでもクニカにとっては大きなモノだった。
どうやらクニカは、祈ったことを現実にすることができるようだった。
(リンに会わなきゃ)
駆け出そうとしたクニカだったが、踏みとどまって考える。二人で行動するのは危険だ。目立つ上、途中ではぐれてしまう可能性だってある。
しかし、別々に行動したら? リンは“鷹”の魔法で安全に移動できる。小柄なクニカなら、物陰に隠れながら進めるだろう。
無理してリンに会う必要はない。リンと連絡が取れさえすればいい。
クニカは祈りのポーズをとると、目を閉じ、リンの姿を思い描いた。自分でも驚いてしまうくらい、屋上をうろうろするリンの姿がはっきりと思い浮かぶ。
(リン!)
イメージの中にいるリンに、クニカは呼びかけた。突然、リンが何かを探すように周囲を見渡し始めた。
(リン、聞こえる?)
クニカはもう一度呼びかける。リンは慌てている様子だった。リンの口がはっきりと「クニカ?」と言っている。
呼びかけることは可能だが、リンの声はこちらに届かないらしい。仮に声が届くとしても、目立つから声が出せないのだ。
(リン、よく聞いて!)
語気を強くして、クニカがリンに告げる。リンは逡巡しているが、それでもあさっての方角を向いたまま、しきりに頷いていた。
(ギャングたちが街の入り口に向かってる。だから、川を渡ろうと思ってるの。跳ね橋のある場所まで行ってて。わたしも後で追うから)
リンが腕を組んだ。クニカの提案に不満のようだ。クニカを一人にしておくのが心配なのだろう。
(ダイジョウブだって、だから、早く!)
リンも折れたらしく、どこにいるのか分からないクニカに対し、再び頷いてみせる。リンの背中から翼が生え、クニカのイメージの外へと飛んでゆく。
集中していたクニカの耳に、羽ばたく音が聞こえてきた。クニカが窓の方角を向くと、リンが空を飛んでいるのが見える。
その前方に、エツラ川が見える。橋はそのエツラ川に架かっていた。