第16話:祈り(Молитва)

 すぐに部屋まで辿り着けると思っていたクニカだったが、ダクトは思いのほか入り組んでいた。おまけに暗い。

「ん……ここって……うひぃっ?!」

 クニカの喉から、変な声がほとばしった。てっきり板があるものと思って手をついたのに、下は穴だったからだ。真っ逆さまに落ち、クニカはおでこで換気扇を破壊する。

「うげぇっ?! ――あ……?」

 危うく床に叩きつけられるところだったが、下に衣服や、袋や、灰色に汚れていたシーツなどが積んであったおかげで、クニカは怪我もなく背中から着陸した。

(ここは……?)

 クニカは辺りを見渡してみる。壁にはロッカーが立ち並び、折畳み式の机と長椅子とが、無造作に重ねてある。床のタイルは黒ずんでおり、全体的に埃っぽい。たぶん警備員か、あるいは掃除のおばさんなどの詰所だったのだろう。

(そうだ、ギャングたち――)

 床に降り立った瞬間、クニカの足元で

 ぷちっ。

 という音がした。それに、すごく嫌な感触がした。クニカの視界の端で、タイルの黒ずんだ部分が、一斉に動き始めた。

(ヒィーッ?!)

 タイルが汚れていたわけではない。床が真っ黒になるくらい、ゴキブリがうろついていたのだ。

 本能的にクニカは後ずさるが、またしても

 ぷちっ。

 という音がした。ぺったんこになったゴキブリが、床で果てている。

 突然の来訪者に、ゴキブリたちも慌てふためいている様子だった。凍り付いているクニカを尻目に、ゴキブリたちは音を立てながら一斉に物陰に隠れていく。あっという間の出来事だった。クニカが我に返ったときにはもう、ゴキブリの姿は影も形もなくなっていた。

 とはいえ、「姿を消していること」と、「消えていること」とは違う。

 生まれたての子馬のように脚を震わせながら、クニカはロッカーの一つを開けてみる。ゴキブリたちが飛び出してくる! ――などということはなかったが、そこに置いてあるものを見て、クニカはぞっとした。木の棒の先端に、タマゴのような形をしたかたまりがくっついている。手榴弾グラナータだ。ゲームの中でしか見たことのないしろものである。

(ヤバそう……)

 クニカの見るかぎり、出入り口は一つしかなかった。わらにもすがる思いで、クニカはドアノブに手を伸ばしたが、

「これで全員だな?」

 という、男の野太い声を聞きつけて踏みとどまる。その声は、扉の向こう側から聞こえてきたものだった。

 飛び出していたら、今ごろクニカは蜂の巣だっただろう。

(危なかった……)

 安堵のあまり、クニカは座り込んでしまう。クニカの目線とドアの鍵穴との高さが同じになった。鍵穴から向こうの様子が覗ける。

(ようし……)

 心の中でガッツポーズを決めると、クニカは鍵穴まで鼻先を近づけた。

 隣の部屋は広いようだ。鍵穴から覗いただけで、五、六人のギャングたちがたむろしているのが分かった。

「んで、どうなってんだ?」

 先ほどの声の主が、周囲にいるギャングたちに尋ねている。クニカの見える範囲では、彼の足しか確認できない。声の主はいかつい、黒いブーツを履いている。椅子にふんぞり返って、脚を投げ出しているに違いない。

「車の持ち主は見つかったのか、って訊いてんだ」

「それが……いねぇんだよ」

「“いない”? んな馬鹿な話があるか」

 黒いブーツが動き、苛立たしげに床を叩く。今のやり取りがクニカには意外だった。ギャングたちはまだ、クニカたちを探しあぐねているらしい。

 目を細めていたクニカは、あることに気付く。目視できるかぎりでは、五人の人物がいる。しかし心の色を見透かせるのは、その中の三人にすぎない。クニカの感情を読み取る能力は、万能ではないようだ。

「だけどよ、お頭、本当なんだぜ」

 “お頭”の言葉を聞きつけ、クニカは奥歯を噛み締める。さっきから偉そうに振る舞っている人物こそ、ギャングたちのボス、“お頭”なのだ。

 そして“お頭”の心の色を、クニカは見ることができないでいる。肝のすわっている人物の心は、見透かすのが難しいようだ。

「なぁ、相棒よ」

 相手のギャングに向かって、“お頭”が静かに口を開いた。口調こそ穏やかだったが、声の芯は氷のように凍てついていた。

「お前だって分かってるよな? オレたちがこれまで、どれだけうまくやってきたのかってことぐらい。奇跡みたいなもんだぜ? 連中を蹴散らして武器まで奪った。必要なのは食料だけだ。殺してでも奪い取らなきゃならん。『車の持ち主が見つかんねぇ』だと? そいつが街を抜け出したらどうする? おい、オレがお前にこうして話してやってんのは、お前さんの首をつなぐためだぞ」

「お頭」

 相手のギャングは言った。表情は分からないが、心の色は真っ青になっている。指はわなめいており、声はカラスのようにしゃがれきっている。

「あ、あんたの手腕は誰だって認めるぜ。肝っ玉も太いって、オレだって思ってる。だけどオレは降りるぜ」

「なんだと」

「もう限界だ。これ以上いたって、どうしようもねぇ。んなこと、ここにいるみんなだって、分かってるはずだ!」

 そう告げると、相手のギャングはきびすを返した。彼にしてみれば、棄て台詞を吐いたつもりだったのだろう。

 しかしそう遠くまでは行けないのが、彼の運命だった。“お頭”は怒号を一つ上げると、隠し持っていた飛び道具を空中に投げる。尖った先端が、男の背中に深々と突き刺さった。

 クニカの耳にした音から考えると、今の一撃で、相手の背骨は砕け散ってしまったに違いない。湿り気を帯びた、ぞっとさせる音だった。とにかく、男が意識を取り戻すことはなかった。

 “お頭”は猿のようにすばしっこくギャングに跨ると、背中に刺さっていたナイフを引き抜き、素早くギャングの喉に差し込む。ナイフが振り下ろされるときの、「きゅっ、きゅっ」という音が、クニカの耳にも飛び込んでくる。クニカは気絶の何たるかを知らないが、このときばかりはそれが何であるのか分かった気がした。

「死にたいやつはいるか?」

 “お頭”の声を聞きつけ、クニカは集中力を取り戻した。床には一人のギャングが転がっている。血生臭いにおいが、細い鍵穴を通してこちら側にまで漂ってくる。

 誰も返事をしなかった。

「見つけ出すぞ、何としても。街の入り口に見張りをつけろ。相手だって逃げようとするだろう。そこを捕まえるんだ」

「でもよ、お頭、人手が――」

「掻き集めろ。跳ね橋ブリッジの奴らも連れてこい」

(跳ね橋? そうか!)

 クニカの心臓が高鳴る。今、ギャングたちは街の入り口に張り付いて、クニカたちを仕留めようと躍起になっている。人手を集めるために、跳ね橋を見張っているギャングたちも動員されるから、跳ね橋は手薄になる。

 だから、クニカたちは逆手を取って跳ね橋に向かえばいい。跳ね橋を機動させることができれば、対岸へと逃げ切ることができる。

「ようし、行くぞ!」

 親方の号令で、ギャングたちが一斉に退出し始めた。部屋を去るギャングたちの背中を、クニカは見守る。

 クニカの見る前で、黒い長上着アオザイを着ているギャングが、別のギャングに呼び止められた。

「何だよ、おい」

「なぁ、あっちの部屋怪しくないか?」

 呼びかけた方の男が、クニカのいる方角を指さした。

(やばっ……?!)

 事の成り行きを確認するより前に、クニカの身体は自然に動いていた。静かに、しかし電光石火の早さでロッカーに駆け寄ると、クニカはその中に入り込む。

 背中には、手榴弾が置いてある。おしりでどついたりしたら、クニカは粉々だ。

「埃まみれじゃねぇか、ちくしょう」

 男たちが部屋へ入ってきた。

「誰がいるってんだよ、ったく」

「いた気がしたんだぜ」

 もう一人のギャングは、いかにも疑わしいと言ったそぶりだったが、間近にあるロッカーを乱暴に開いて確認する。ロッカーは横に五つ。クニカは一番端のロッカーにいる。

(まずい、まずい……!)

 冷や汗を掻くクニカの脳裏に、ふと記憶が蘇ってくる。

 リンが狙撃されたとき、「死なないで!」と念じた。光がクニカの手から溢れ、リンは助かった。

 枯れた水路でギャングに鉢合わせそうになったとき、「こっちに来ないで!」と念じた。ギャングは引き返していった。

 理屈がどうのという話ではない。クニカは何もできない。祈るしかなかった。

(神様……)

 腕を組むと、クニカはただ祈った。隣ではギャングたちが、四つ目のロッカーを開け放っている。

(見つかりませんように!)

「最後だ」

 ギャングたちによって、ロッカーの扉が開け放たれる。クニカは目を閉じていたが、まぶたの裏が明るくなった。

 おそるおそる、クニカは目を開ける。薄汚れたシャツを着たギャングと、クニカの視線がばっちり合った。

(も、もうダメだ……!)

「ほぉら、言っただろ?!」

 シャツを着た方のギャングが、長上着アオザイを着ている方のギャングをどつく。

「誰もいねぇじゃねえか」

「おっかしいなぁ」

 相方のギャングが、クニカのいるロッカーを覗いてみる。クニカは固まって動けなかったが、このギャングにもクニカが見えていないらしい。

「オレの勘違いだったのかなァ」

「当たりめえだろ。さっさと行くぞ」

 二人のギャングたちは、そそくさと部屋を退散する。

「ハァ……ハァ」

 ギャングたちが出て行ったのを確認すると、クニカはロッカーから抜け出した。心臓が口から飛び出しそうだった。

 クニカの心の中に、一つの確信が芽生える。この異世界の中では小さな確信かもしれない。それでもクニカにとっては大きなモノだった。

 どうやらクニカは、祈ったことを現実にすることができるようだった。

(リンに会わなきゃ)

 駆け出そうとしたクニカだったが、踏みとどまって考える。二人で行動するのは危険だ。目立つ上、途中ではぐれてしまう可能性だってある。

 しかし、別々に行動したら? リンは“鷹”の魔法で安全に移動できる。小柄なクニカなら、物陰に隠れながら進めるだろう。

 無理してリンに会う必要はない。リンと連絡が取れさえすればいい。

 クニカは祈りのポーズをとると、目を閉じ、リンの姿を思い描いた。自分でも驚いてしまうくらい、屋上をうろうろするリンの姿がはっきりと思い浮かぶ。

(リン!)

 イメージの中にいるリンに、クニカは呼びかけた。突然、リンが何かを探すように周囲を見渡し始めた。

(リン、聞こえる?)

 クニカはもう一度呼びかける。リンは慌てている様子だった。リンの口がはっきりと「クニカ?」と言っている。

 呼びかけることは可能だが、リンの声はこちらに届かないらしい。仮に声が届くとしても、目立つから声が出せないのだ。

(リン、よく聞いて!)

 語気を強くして、クニカがリンに告げる。リンは逡巡しゅんじゅんしているが、それでもあさっての方角を向いたまま、しきりにうなずいていた。

(ギャングたちが街の入り口に向かってる。だから、川を渡ろうと思ってるの。跳ね橋のある場所まで行ってて。わたしも後で追うから)

 リンが腕を組んだ。クニカの提案に不満のようだ。クニカを一人にしておくのが心配なのだろう。

(ダイジョウブだって、だから、早く!)

 リンも折れたらしく、どこにいるのか分からないクニカに対し、再びうなずいてみせる。リンの背中から翼が生え、クニカのイメージの外へと飛んでゆく。

 集中していたクニカの耳に、羽ばたく音が聞こえてきた。クニカが窓の方角を向くと、リンが空を飛んでいるのが見える。

 その前方に、エツラ川が見える。橋はそのエツラ川に架かっていた。

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