ギャングたちを掻い潜って、クニカとリンは隠れ場所を探す。狭い道には、菩提樹の並木が張り巡らされていた。並木は焦げていたり、根こそぎになっているものもある。
それだけではない。立ち並んでいるアパートメントは、ところどころが木っ端微塵に打ち砕かれている。鎧戸や、外壁や、店舗の廂に使われるビニールシートなどが、街路に散乱していた。平和なときに干されていただろう洗濯物が、黒焦げになって窓に張りついている。
「ねぇ、リン」
「静かにしてろ!」
「ここ……おかしいよ?」
「分かってるよ――」
とは言っているが、リンのこめかみにも冷や汗が伝っている。何か悪いことが、“黒い雨”よりもずっと悪いことが、この街では起きているようだった。
「あそこだ」
リンの指差す先に、レンガ造りの建物がある。建物の周囲には、うっそうと蔦の絡んだ、鉄細工の垣根が張りめぐらされていた。入り口に屋根がついていて、鉄製の枠には表札がはめてある。もとは金文字だったと思われる表札の文字は剥げていて、時代モノの鏡のように、細かいシミが一面についていた。
表札には
Ъеспин Швейная Машина Завод
と書いてある。
「ミシン工場?」
「入るぞ」
リンに急かされ、クニカも転がるように中へ入っていった。
◇◇◇
中へ入るやいなや、リンは、迷うことなく二階へと進んでいく。
「どこに行くの?」
「とにかく、事務所みたいなところだ。地図を探さないと」
リンの言葉に、クニカも頷いた。二人とも、このベスピンという街をよく知らない。安全に街から抜け出すためには、地図が必要だった。
「所長室」の前までやってくると、リンが扉を引っ張る。開かない。悪態をつくと、リンはスニーカーを脱いで、素足を扉につけた。足はたちどころにして鷹のかぎ爪に変わり、爪が扉に食い込む。紙を裂くようにして、扉が破れる。
「入るぞ! ――どうした?」
「すごいなァ、って……うぎゃっ?!」
「ばか。感心してる場合か」
げんこつでぶん殴られているクニカをよそに、リンはさっさと扉をくぐる。所長室に入ると、リンは机の引出し、キャビネットなど、調べられるところを片っ端から漁り始めた。
「できることは何でもしないと――」
「……リン?」
リンが静かになったので、クニカは顔を上げる。リンの視線は、窓の向こうに釘付けだった。
「リン、どうしたの?」
「クニカ、アレは……なんだ?」
「“アレ”?」
リンが示す方向を、クニカも見つめてみる。そこは広場だった。――いや、もとはただの路地だったのだろうが、周辺の建物が粉々になったせいで、開けてしまっていた。
そんな広場に鎮座しているモノを見て、クニカはすくみあがる。胴体の両側についている巨大なキャタピラ、分厚い装甲。ずんぐりした車体、遠近感を無視して聳える一門の砲塔――。
戦車だった。
「せ、戦車……」
「センシャ?」
「でも、何でこんなところに……?」
「おい、クニカ、センシャって何だ?」
クニカは一瞬、「何?」と訊ききそうになった。しかし、その前に、戦車が不意に動くと、砲塔がクニカたちの方に向けられた。
「リン、伏せて!」
二人はすぐさま、机の後ろに身を隠す。砲撃される! ――クニカはそう考えたが、弾が発射される気配はない。
「大丈夫そうか?」
「う……ん」
リンに促され、クニカはやっとの思いで立ち上がる。腰が抜けてしまいそうだった。
「リン、戦車を見たのって初めて?」
リンは頷いた。もちろん、クニカだって戦車などは初めて見た。だが、リンは根本的に「戦車」が何なのか、分からないようだった。
所長室を漁る傍ら、クニカは、戦車について説明した。初めは頷き返していたリンも、だんだんと顔が引きつっていく。リンの胸に見える心の色も、くっきりとした冷たい青色に変わった。
「何だよ! どうなってんだよ!」
しかし、クニカが喋り終わった途端、リンの癇癪が爆発した。
「リン、落ち着いてってば」
「おかしいだろ?! 何でギャングたちが戦車なんて持っているんだよ! オレたちだって欲しいよ! な、クニカ?」
(そういう問題じゃない)
しかし、リンの言うとおりである。ただのギャングたちが、戦車を持っているなんておかしい。
そもそも、リンが狙撃された段階からしておかしいのだ。どうやってギャングたちは、ライフルなどという物騒なものを入手したのだろうか。
程なくして、リンが目当てのものを探り当てる。
「あったぞ、クニカ!」
机の上にあるものを、リンは腕で払いのける。ペン、インク壺、文鎮などが床に散らばった。
【ベスピン市市街図。製作:ベスピン商工会議所】
クニカもリンも、目を皿のようにして地図を見つめた。まずクニカの目を引いたのは、市街を東西に分断しているエツラ(Эзра)川だった。ほとんど地図の四分の一が、この川で埋め尽くされている。
「か、川?!」
クニカは声を上げてしまう。街に入ってからこのかた、川の存在などこれっぽっちも感じ取れなかったためだ。
しかも、このエツラという川、相当幅が広いようだ。――道すがらに見たオミ川を思い出し、クニカの背中を汗が伝う。エツラ川も、オミ川に劣らず広いはずである。
となると、このベスピンという街、ヤンヴォイとは比べ物にならないほど大きい。
「クニカ、ここを見ろ。オレたちはここだ。――ここが国道。そのままこっちに来てるから……」
「右岸にいる、ってこと?」
「そうだ」
エツラ川を示す水色のラインを、リンが人差し指で叩く。川を中心に、街は東西に分かれている。クニカとリンは今、右岸にいる。脱出するためには、左岸へ渡らなければならない。
「ここだ」
リンは指で、地図の一部を囲った。エツラ川を横切るようにして、赤いラインが四、五本描かれている。
「橋?」
「そうだ。これで向こう岸へ渡れる」
「そうか。……えっ、でも、それって――」
「どうした?」
――納まってるのは対岸のコンテナの中さ。
――お頭が取りに行くのを許すと思うか?
水路の中で聞いた話を、クニカは思い出した。“お頭“なる人物がいて、人が対岸へ渡ることを禁止しているのだろう。
「ねぇ、リン、いったん橋の様子を――」
確かめに行こう、クニカがそう言おうとした矢先、
「おォい、誰かいんのかァ?」
間の抜けた声が、窓の向こう側から響いてきた。自分たちに向けられた声だと察知し、クニカもリンも戦慄する。
「おい、ウスノロ、あんまのろのろしてると、雨が降ってきても助けてやんねぇぞ」
窓の向こうから、別の人物の笑い声がした。今しがた声をかけたのは、リンを狙い撃ちしたあの“ウスノロ”らしい。
「でもよォ……」
「『でもよォ』じゃねえ、バカ。とっとと戻るぞ。お頭が呼んでる」
“ウスノロ”は唸ったり、鼻をすすったりしていたが、とうとう諦めたらしい。“ウスノロ”と思しき人間の心のもやもやが遠ざかっていくのを見て、クニカはほっとする。
「いなくなった……」
「待ってろ、確かめる」
窓に近づくと、リンは外を注視する。安全なのを確認し、改めてクニカに立ち上がるよう合図した。
「クニカ。続きを話してくれ」
クニカは話を続けた。橋は通行止めになっていること、その命令を下しているのが、“お頭”なる人物であるということ――。
「なるほどな」
天井を見上げ、リンは考え込む。リンのポニーテールが、頭の動きに合わせて揺れる。
「つまり、お頭ってヤツが分からないと、何も分からない、ってことだよな?」
リンの言葉に、クニカはゴクリと唾を呑みこんだ。
「……なぁ、クニカ、さっきのヤツら“戻るぞ”って言ってたよな?」
「うん」
クニカは頷き返した。
「どこに戻るつもりなんだ?」
「アジト、とかじゃない?」
「――そこに行ってみよう」
「でも……危険じゃ……」
「バカ。オレ一人で行くんだよ。お前は隠れてろ。どんくさいからな」
「うっ……」
そんなことを言われるのではないかと覚悟はしていたが、面と向かって「どんくさい」と言われると、クニカは落ち込んだ。
「でも、わたしも一緒に行きたいよ、リン」
「ダメだ」
「撃たれたらどうすんの?」
何気なく尋ねたクニカだったが、リンの身体がビクリと震えた。リンの心の色が一瞬、恐れを示す青色に変わった。
「そしたら……」
リンは言いかけるが、最後まで続かなかった。
リンの手を、クニカは握り締める。クニカの想像する以上に、リンの手は冷たかった。
「わたしも一緒に行く」
「わかった、分かったよ」
リンも、クニカの手を握り返した。
「オレからぜったいに離れるなよ。危険だったら、すぐに引き返す。いいな?」
リンの言葉に、クニカは頷き返した。