――彼、衆らの魂を死の顎より救ふ者なり。
『アダムの黙示録』、第25章
「見つかったか?!」
頭上からの声に、クニカは身体を強張らせる。息を殺し、成行きを見守った。
クニカとリンの二人は、車を抜け出して、水路の影に身を潜めていた。本来ならば、水路は水をなみなみと湛たたえていたのだろう。しかし、なぜか今は単なるくぼみとなっており、潰れたオートバイが、クニカたちの隣に山積みになっていた。
「……いんや、いねェなぁ?」
「いねェわけねェだろ、もっとよく探せ、このウスノロ!」
「だけどよォ……」
“ウスノロ”呼ばわりされた男が、声を荒げた。
「この状況じゃぁ、無理ってもんだろォ? だってよォ、前の席なんか潰れちまってるぜ?」
「ごちゃごちゃうるせぇんだよ。テメェは弾二発も無駄にしてんだぞ! 降りろ、降りて調べんだよ」
「へいへい」
(まずい……!)
クニカは戦慄した。このままでは見つかってしまう。
「じっとしてて、リン!」
「うっ……!」
リンは分かっているのか、いないのか。狙撃されてからというもの、リンの容態は悪化していた。顔は紙のように白くなり、唇は紫色に変わっている。わき腹から溢れる血は止まらず、リンの心の色は、どんどん褪せていった。
どうすれば良いのか分からない! それでも、クニカは逃げようと思った。こんな状況で死ぬのは嫌だった。リンの体に腕を回すと、引きずるようにして、クニカは奥の通路へと逃げ込んだ。
「おおぃ、いんのカァ?」
“ウスノロ”が水路まで降りてくる。煙を吐いている車を、“ウスノロ”はぼんやりと見つめていた。
「リン、待ってて。すぐ助けるから――」
「――ダメだ」
「えっ……?」
訊き返すクニカに、リンは首を振った。リュックをたぐり寄せると、リンは地図をクニカに手渡そうとする。
「さ、先に行け……」
「リンは? リンはどうすんの?!」
「オレは……助からない」
リンの手が震える。クニカは必死で、首を横に振った。
「そんなことできない!」
「バ……カ! お前だけでも……行くんだ……早く……!」
「そんな……」
クニカは絶句するしかなかった。こんなことになるなんて、思ってもみなかった。
しかし、リンの言うことは正しい。このままだと、男たちに見つかって、クニカもリンも殺されてしまうだろう。せめて、クニカだけでも逃げなくてはならない。
それでも、リンを見殺しにして、自分ひとりで逃げるなど、クニカにはできなかった。
「嫌だよ……」
涙声になりながら、クニカは両手をリンの傷口に当てる。血が止まってくれればいい、そんな思いからだった。腕を上げる力も無くなり、リンは地図を握りしめたまま、かすかな息を吐いている。
(お願い、リン! 死なないで――!)
クニカは願った。
心の底から、どこにいるかも分からない誰かに祈った。
◇◇◇
そのときだった。目を閉じていたクニカだったが、まぶたの裏が、突如として明るくなる。
「――えっ?!」
目を開けたクニカは、思わず声を上げた。クニカの両手から、光が溢れ出していたのだ。
光は、リンの銃痕に注がれていく。クニカの手の感触からでも、リンの傷口がすさまじい速度で塞がれていくのが分かった。
やがて、光は収まった。クニカはそっと、リンから手を離してみる。傷は完全に塞がり、傷跡もなくなっていた。
「……クニカ?」
「リン?!」
リンが起き上がり、クニカの顔を覗き込んだ。
「リン、大丈夫――?!」
「お前、何やったんだ?!」
リンの声は震えていた。
「わ、分からない……なんか、手が光ったから……」
と言ったきり、クニカは口ごもってしまう。正直のところ、クニカ自身も何が起きたのか分かっていなかった。それでも、何かとんでもないことをやってのけてしまったのだ、ということは分かる。
「おぉい? 誰かいんのかぁ?」
“ウスノロ”の声に、二人は我に返る。
「まずいよ、リン!」
「こっちだ、逃げるぞ!」
立ち上がると、リンはクニカの手を引いて、水路の奥へと駆け出した。さっきまで死にかけていたなんて、まるでウソのようだった。
◇◇◇
身をかがめ、クニカとリンは、用水路の太い土管を通り抜けていく。
このベスビンという街は、水路を利用して発展してきた町なのだろう。どういう事情かは定かでないが、今は水が枯れてしまっているのだ。
しかし、今の二人にとっては、それは好都合だった。お蔭で、敵の目を出し抜きながら、忍び足で逃げることができている。
逃げている間じゅう、リンは自分のわき腹をさすっていた。怪我が治ったことが、不思議で仕方ないのだろう。
「なぁ、クニカ、」
とうとうリンが口を開いた。
「さっきのは何だったんだよ。もったいぶってないで、話せって」
「いや……わたしだって分かんないよ」
「分かんないわけないだろ、魔法に決まってるんだから。でも……あんなの初めてだ」
「そう……だよね、やっぱり」
自分がとんでもないことをしたということを、クニカも実感する。いかにこの世界が空想譚めいているとしても、瀕死の人間を救うのは、度がすぎる所業なのだ。
「おい、誰だ!」
そのとき、前方から男の声がした。すくみあがっているクニカに対し、リンの動きは早い。ナイフを構えると、リンは前方を注視した。
前方から、光が漏れてくる。曲がり角の奥に、出入り口があるようだ。
「誰かいるのか?」
呼びかけと同時に、足音も響いてくる。
(まずい!)
男は近づいてくるようだった。ナイフを握りしめたまま、リンはじっとしている。足音から、男がどの辺りにいるのか判断しているのだろう。
一方、クニカは男が去ってくれることを望んでいた。耳を使わなくとも、男の心の色から、クニカは男の位置が何となく分かる。赤い色と黒い色とが、男の心の中でまだら模様を描いていた。憤怒と邪悪とが渦巻いているのだろう。
鉢合わせたら、クニカもリンもただでは済まない。クニカの額から、汗がこぼれ落ちる。
(お願い、どこかに行って!)
クニカは目をつぶった。迫ってくる男が、自分の胸の鼓動に気付かないのが不思議なくらいに、クニカには感じられた。
「どうした、レニ?」
その矢先、別の男の声が響いてきた。ナイフを投げ込めるほどの近くで、「レニ」という男の足音が止まる。
「人の声がしたんだ」
「気のせいだろ。疲れてんじゃねぇのか? ほら、見ろよ。ルアモイ(うるち米を用いて作られたお酒)だぞ。一緒に飲もうや」
「おっ、やるじゃねぇか」
男が踵きびすを返し、クニカたちから遠ざかる。
「しかしよく手に入ったな。かっぱらったのか?」
「あったりめぇだろ。盗賊家業万歳ってもんよ。これで食い物でもありゃあ、最高なんだけどよ」
「ねぇことはねえな。場所知ってんだ」
「ホントかよ?」
酒を持っている方の男が尋ねた。
「さては、黙ってやがるな?」
「言ったら他の奴らにも渡さなきゃならん。そんな野暮ったいマネはゴメンだな。それに、納まっているのは対岸のコンテナの中さ。お頭が取りに行くのを許すと思うか?」
「そういうことか。チッ!」
男の舌打ちが、クニカたちのいる方にまで響いてくる。
「顔思い出すだけでムカムカしてきやがる」
「まぁそう言うなよ。一杯やろうぜ……」
それ以後も男たちは会話をしていたが、全ては聞き取れなかった。声がフェードアウトしてから、クニカもリンも身じろぎをした。
「あ、危なかった……」
クニカは胸元を押さえる。まだ心臓は高鳴っていた。ナイフを構えたまま、リンは出口の方角を覗く。
「今なら行ける」
「行こう、リン!」
「分かってる――」
とは言うものの、リンは動こうとしなかった。
「リン、どうしたの?」
「いや、不思議なんだ」
「不思議?」
「絶対に見つかると思ったんだよ、男に。でも引き返してった。まるで……こっちの願いが通じたみたいな」
そこまで言うと、リンはクニカに視線を注いでくる。リンの言わんとしていることが分かり、クニカはまごついた。
「いや、『居なくなってくれ』って思ったけど、偶然だと思うよ」
「本当か?」
「分かんない」
「神通力なんてあんのか?」
最後のリンの言葉は、ほとんど独り言のようだった。
「あったとしても、いったい何の魔法で……」
「ねぇリン、行かないと……」
考えあぐねているリンの腕を、クニカは引っ張る。
「――分かったよ。行こう」
うなずくと、リンは前へ進む。リンの背中を追いかけながらも、クニカはどことなくすわりの悪さを感じていた。