第11話:歩くような速さで(Анданте)

 初めに知覚したのは、寒さだった。稲光で、暗い室内が一瞬だけ照らされる。横になっていたクニカの視界の隅に、食べつくされた練乳の缶詰が映った。

 クニカのすぐ隣で、リンも眠っている。右腕を下にし、左腕の側を天井に向けた姿勢で、リンは寝息を立てている。

 クニカはそっと寝床を抜け出した。クニカは右手で、額の汗を拭う。少し肌寒かったものの、空気は湿気に満ちていた。空になった練乳缶の表面にも、凝結した水分がこびりついている。

(シャワー浴びたいな……)

 クニカは無性にシャワーが浴びたくなってきた。さきほどリンに誘われたとき、我慢せずにシャワーを浴びていれば良かったかもしれない。

 部屋の奥にある扉を、クニカは見つめる。リンの話しによれば、向こうにはシャワー室があるはずだ。

(ここって、何の施設なんだろう?)

 暗闇に目が慣れてきたクニカは、もう一度室内を見渡してみる。床はコンクリートで、照明はただの蛍光灯である。部屋の四方には縦長のロッカーが据えてあり、中央には申し訳程度のベンチと、タバコの吸殻入れが置いてあるだけである。

 思い切って、クニカは部屋から出てみることにした。リンには内緒だ。シャワー室に寄って、汗を流そう、とクニカは考えたのだ。

 懐中電灯をこっそり拝借すると、クニカはそれをつけてみる。「ぶうん」という音と共に、電灯は進むべき方向を照らした。

(ようし……)

 念のためナイフを持つと、クニカは扉の奥へと歩みを進めた。

◇◇◇

 扉の向こう側は思いのほか明るかった。拍子抜けしたクニカだったが、気を引き締めなおし、慎重に歩く。

 手始めに、クニカは一番手前の扉を開いてみる。

(うっ?!)

 汗と油とが入り混じったような、嫌な臭いが部屋から立ち込めてくる。口で息をしながら、クニカは室内を照らした。室内は荒れ果てているが広く、ついたてと、簡易ベッドが散乱していた。仮眠室だろう。

(何でこんなところに……?)

 簡易ベッドの存在に心が弾みかけたクニカだったが、臭いの前に断念した。リンもまったく同じように考え、同じように断念したのだろう。埃っぽいカーペットに、リンの靴跡が刻まれているためだ。

(リン……入んなくたって良いのに……)

 扉を閉めると、クニカはさわやかな空気を、鼻からいっぱいに吸い込んだ。今度は反対側にある扉を開いてみる。

「ここか……」

 ここがシャワールームのようだ。室内は湿気が強く、かび臭い。口で息をしながら、クニカは手近にあったシャワーの栓をひねる。飛沫がかかるのを恐れ、すぐ飛びのいたクニカだったが、水は出てこない。

(あれ?)

 栓を全開にしても、雨水のしたたる程度にしか、水は出なかった。

(あーぁ……)

 クニカはがっかりしたが、後の祭りである。

◇◇◇

 通路の奥には、階段があった。上にも下にも行けるが、クニカは上へと向かうことにした。

 錆付いた手すりを握り、クニカは階段を上がる。上りきると、行き止まりになっていた。ここが最上階のようだ。

 周囲に何の気配もないことを確かめると、クニカは窓辺へ近づいた。雨はいつしか小降りになり、遠くの空がかすかに白くなっている。新しい朝がやってきたようだ。

 黒いもやの中に沈む外界に目を凝らし、クニカはようやく、ここが何の施設かを悟った。広い出窓から、下に設置してある“いけす”のようなものを見ることができる。

(浄水場なんだ)

 そう考えてみれば、色々とつじつまが合う。聖堂の地下は下水道とつながっていて、その下水道が浄水施設ともドッキングしているのだろう。この建物は、要するに水道作業員たちの詰め所なのだ。

(よし、分かった。分かったけど……)

 もやが晴れてくるにつれ、クニカは心細くなってくる。前方には浄水槽の区画が幾つも見えるが、建物は他にない。浄水槽の左右には、森が広がっている。ここはヤンヴォイの町外れなのだ。

 ここからまた森を抜け、別の町へたどり着かなくてはならない。このプロセスを何度となく繰り返していれば、いつかはリンの言う「ウルトラ」までたどり着けるのだろう。

 では、何回繰り返せば良いのだろうか? 五回? 十回? それとも百回――?

(乗り物でもあればな)

 クニカはそう思った。自動車が欲しい。バイクでも文句は言わない。――いや、やっぱり自動車の方が良い。できれば、運転手つきで。

 これ以上めぼしいものはなかったため、クニカはきびすを返す。

◇◇◇

 懐中電灯で照らしてみた限りでは、下への階段は二層分あった。クニカとリンとが練乳を食べたフロアが二階で、これから向かう先が一階、その下が地下一階で、下水道へと連絡が可能なのだろう。

 一階へ降り立ったクニカの眼前に、扉が控えていた。この扉をくぐらなければ、先へ進むことはできない。ノブをひねってみたが、扉はビクともしなかった。

「――ダメだ」

 諦めて上へ戻ろうとしたクニカだったが、あることに気付いた。二階には外への出口がなく、地下一階は下水道と繫がっている。となると、この一階にしか、外への連絡口がないはずなのだ。

(何とかしなくちゃ)

 背に腹を変えてでも、一階から外へ出なくてはいけない。

 クニカは扉の前まで戻る。扉には窓がついていた。

(これだな。……あれ?)

 外の様子を覗こうとして、クニカは愕然がくぜんとした。体が女性になってしまったせいで、身長がぜんぜん足りない。背伸びをしたところで、窓の下にようやくまぶたがかすめる程度だった。

(くっそー)

 幸いなことに、クニカのすぐ側に、ビールケースが転がっていた。それを踏み台にして、クニカは外をのぞいてみる。はっきりとは見渡せないが、危険はないようだった。

(で、どうする?)

 窓を壊してくぐる以外、選択肢はなさそうだった。ナイフをかざして窓を叩き壊そうとするが、その前にふと、窓枠のネジが目に止まった。

(いけるかな?)

 ナイフの先端を、クニカはネジ穴に押し当ててみる。上手い具合に、ナイフの先端がネジ穴にはまった。

(やった!)

 心のなかでガッツポーズを決めると、クニカは意気揚々とネジを外してゆく。二本、三本、四本。ネジは瞬く間に外れ、床に転がった。

 窓枠に手を当てると、はめ込まれたガラスをクニカは引っ張る。クニカは通路の隅にガラスを置いた。

 ビールケースを踏み台にして、クニカは室内への侵入を試みる。

◇◇◇

「うっ?! うげっ?!」

 クニカの喉から、変な声がほとばしった。華麗に降り立つつもりのクニカだったが、自分の乳房に邪魔されて腕がつっかえた。しまいには、ほとんど転げ落ちるような格好になってしまったのである。

 立ち上がると、クニカは無言のまま、シャツの上から自分の乳房を持ち上げてみる。「女子になったら――」みたいな妄想は、クニカも何度かしたことがある。しかし、実際になってみると辛い。体力はなくなっているし、身長は縮んでいるし、肩が凝る。そしてこの肩凝りの原因が、紛れもなく自分の胸にくっついている乳房のせいだと考えると、何とも言えないもやもやした気持ちになってくる。

 扉の内鍵を開けると、クニカは神妙な気分のまま探索を続ける。部屋が薄暗いため、クニカは懐中電灯をつけてみた。

(……って、あれ?)

 部屋の中はがらんとしている。はるか前方にはシャッターが見えた。シャッターをくぐれば、外に出られるだろう。

 気になったのは、部屋の中にぽつんと置いてある大型の何かである。はやる気持ちをおさえつつ、クニカはそれを包んでいるカバーを外した。

「や……」

 クニカは思わず声を上げる。

 喉から手が出るほど欲しかった自動車が、クニカの目の前に控えていた。

「や……やった……やげえっ?!」

 大はしゃぎする寸前だったクニカの脳内に、星がきらめいた。「やった!」とも言い切れず、「うげっ!」とも言い切れず、クニカは頭を押さえる。

 よろめくクニカの襟ぐりが、むんずとつかまれた。

「クニカ――この――バカタレ!」

 リンが、クニカの目の前で青筋を立てている。

◇◇◇

「勝手に出歩くなよ、まったく」

 腕を組んだ体勢で、リンは自動車に視線を注いでいた。自動車には「チカラアリ水道局」と書いてある。

「その、シャワー浴びたくなっちゃった……なんてね?」

 腕を組んだまま、リンはげんこつを作る。慌てふためくクニカだったが、クニカの心配とは裏腹に、リンは肩を落とした。

「ハァ……。なんだろ、オレ、夢でも見てるのかな? くよくよしたくなるよ」

「もうっ、ゴメンってば!」

「……でも、このクルマはいいな。でかしたぞ、クニカ。大発見だ」

「でしょ?」

 嬉しそうなリンを見て、クニカも得意になる。

「ちゃんと動くのか?」

「それは……どうだろう?」

「なんだよ。エンジンをつけてみたらどうだ?」

「うん、そうしよう、か……?」

 リンの視線が自分に注がれているのを知り、クニカはおずおずと車のドアを開いた。リンは自動車については、ほとんど知識がないようだった。

「ねぇ、車に乗ったことある?」

「車に乗ったことはないな。バイクには、何回も乗ったことがあるけど――でも、運転してたのは別の人だし――」

(やっぱりそうなのか)

 クニカの中で、この異世界のイメージが次第に固まってくる。自動車や、下水道や、そういった近代めいた設備が、この異世界には確かにある。けれどそれらは、この異世界にようやく根付いてきたばかりなのだ。

「バイクって……二人乗り?」

「そうだ。親父につかまって、な」

 その「親父」ってのはどうしてるの? ――とまでは、クニカも聞けなかった。リンの父親が無事ならば、娘をこんな窮地に追いやったままにはしないだろう。

「で、動かせそうなのか?」

「うん、ちょっと待って――」

 ドアは開いたものの、鍵は見当たらない。クニカは困ったが、ふとハリウッド映画のワンシーンを思い出し、サンバイザーを開いてみる。案の定、車の鍵がそこから落ちてきた。

「ええっと、クラッチ……あれ?」

 左足でクラッチを踏もうとしたクニカだが、足はかすりもしない。気になって下をのぞいたクニカだったが、アクセルと、ブレーキ以外にはペダルがなかった。

「あぁ、オートマなんだ……?」

 「古い車はみなマニュアル走行」だと思い込んでいたクニカにとって、ペダルが二個しかないのは不思議だった。それでも、父親の運転を思い出し、無駄に動きながらもエンジンをかける。

「やったな、クニカ!」

 エンジン音が室内に響くと同時に、リンの歓声が聞こえた。車のエンジンがかかったことに、リンは興奮しているらしい。クニカが助手席の扉を開けると、ほとんど飛び込むようにしてリンは隣に座った。

「なぁ、クニカ、ちょっと進んでみてくれよ」

「う、うん、分かった――」

 リンにせき立てられるまま、クニカはサイドブレーキを切り、ギアをドライブに入れると、アクセルをそっと踏んだ。

 クルマは歩くような速さで前へ進む。シャッターへ鼻先をこすりつけるかつけないかという位置で、クニカはブレーキを踏んだ。

「すごいな……。クニカ」

「すごい……のかな?」

「当たり前だろ? ちゃんと動くんだから。万々歳ハラショーじゃないか」

「そうだね。でも、シャッター開けないと……」

「いいよ。そのまま突っ込んじまえ」

「えっ? いや、リン、ちょっと待って」

「いいから、ほら――!」

 身を乗り出すと、リンはクニカの膝を押した。その弾みで、クニカはアクセルを踏み込む。「ぶうん」といううなり声と共に、クルマは鼻面をシャッターに押し込み、とうとうシャッターを粉砕して外に飛び出した。

「最高だな、クニカ」

「もう、最低だよ」

「フフフ……」

 ぶうたれるクニカだったが、リンは愉快そうだった。そんなリンの横顔を、クニカもいつしか見つめていた。リンが笑っているところを、クニカは初めて見たからだ。

「さぁ、行こう。クニカ。ウルトラまで」

「……うん!」

 リンに促されるまま、クニカはハンドルを切った。

 二人を乗せた車は、左右に揺れながら、ヤンヴォイの町を後にしていった。

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