第95話:勇者よQ極に還れ

 前方から響き渡った銃声が、転日京の周囲に漂う乾いた空気を裂いた。金属の震える音に触発され、三人とも背筋を凍らせる。

 ヒスイは一瞬、銃が誤作動したのかと肝を冷やした。しかしヒスイ自身は銃に触れていない。とっさにエバとセフを見るが、二人が撃たれたわけでもない。

「今のは……?!」

 言いながら、セフは空を見上げた。銃声はその一発きりで、他に物音はしなかった。

「いったい、誰が……?」

「――行ってみましょう」

 二人を促し、ヒスイは先へと進んだ。その右手にはもう、銃把が握りしめられている。

 この世界で銃を持てるのは、予章の血族に限られている。先代の勇者が所持していた銃は二丁あり、うち一つはヒスイが握っている。

 残り一丁――。それを持っているのは誰だろうか。

(キスイが持っているのか、あるいは――)

 駆けながらも、ヒスイは降りかかってくる思考を頭から閉め出した。

 あるいは、先代の勇者当人が、銃を持っている可能性だってある。

――……

 通りを一つ抜けた先に、ヒスイたちの目当てとする場所があった。王都と、転日宮とを結ぶ跳ね橋が、ヒスイたちの眼前に掛かっていた。

 違うのは、かつて転日宮だったはずの場所に、巨大な塔が出現していることだけだった。塔の背後から日光が差し込むせいで、昼だというのに、ヒスイたちの周囲は夜のように暗い。あれほどの規模を誇っていたはずの転日宮は、いったいどこへ消えてしまったというのだろう? そう三人が疑いたくなるほど、黒い塔は超然とした、非人間的な様相を保っていた。

「ヒスイ……見て」

 震える声を出しながら、セフが前方を指差した。

 橋を渡りきった先に、誰かが倒れている。青色の衣を身にまとい、真珠色の髪を地面に振り乱している。

「姉さん!」

 リリスにそう呼びかけてから、エバははっとなって手で口を塞いだ。エバの発した言葉に、ヒスイもまた揺さぶられた。

 「自分の姉は死んだ」と、銀台宮でエバは自分に言い聞かせていた。ヒスイにもそうしてきた。でも、やはりまだエバは割り切れていなかったのだ。エバがいくら強がったところで、リリスがエバの姉であるという事実は、不変のまま未来へと続いているからだ。

「行きましょう、エバ」

 ヒスイはエバの手を取ると、その身体を強く抱きしめた。

「会いに行くのよ……ね? お姉さんに。ほら、会いに行かないと!」

 唇を噛み締めながらも、エバはしきりに頷いていた。エバの頬をつたう涙も、今度ばかりは透明な色をしていた。

――……

「ハァ……ハァ……」

 ヒスイたちが近寄って見れば、リリスが血溜まりの中で苦しげに息を吐いていた。衣には血が染みわたり、青い色を黒く染めていた。

 血はリリスの左わき腹から溢れていた。心臓は逸れたようだが、致命傷には変わらない。おそらく、リリスを狙撃した人物は、わざと心臓から銃弾を外したのだ。慣れていたはずの血の匂いがふと鼻について、ヒスイは少し顔を背けた。

「姉さん、聞こえる?! ……リリス!」

 ひざまずくと、エバは必死の形相で姉に呼びかける。声を発することで、姉の魂をなんとか地上へ繋ぎとめようとしているかのようだった。

 抱き起こされたリリスは低い唸り声を上げていたが、腕はだらりとたれたままだった。

「リリス、返事をして!」

「ううっ……あの女……」

 エバの声に応じているのかは分からない。それでもリリスは苦しげに、唇の端から言葉をしぼり出した。

 “あの女”というフレーズに、傍らで立ちすくんでいたヒスイとセフも身を固くする。

「このタイミングで……どうして……ありえない……こんなことは……」

 うわ言を呟ききった後、リリスは身をよじってエバの膝元を離れた。三人に背中を向け、リリスはひたすら喘いでいるだけだった。

「行きましょう……」

 床にしゃがみ込んでいたエバが、ヒスイに対して口を開いた。その言葉に、セフが目を丸くする。

「“行く”って……リリスさんをどうするの?」

「分からない」

 言いながら、エバは自分の目の前に両手を掲げる。手には血がこびり付き、冷えて固まった血糊が、エバの赤い衣を更に赤黒く染めている。

「分からないわ……セフ……分からないのよ……あたしだって……でも、あなただって分かるでしょ? ――あたしの分からないって気持ちが!」

 エバは振り向くと、ヒスイに視線を注ぐ。

「ヒスイ、行きましょう。……行かないといけないわ。イスイが待っているのよ?」

 イスイの言葉を聞き、ヒスイの脳内にカケイのイメージが飛び込んできた。ヒスイは頭を振り、そのイメージを打ち消した。イスイがカケイであると、ヒスイには考えられなかった。むしろ信じたくなかった。もしそうだとしたならば、ヒスイたちはずっとカケイの手の内で踊らされていることになる。

 自分の運命は自分で決めたもの――。そうヒスイは考えたかった。

――……

 そびえる漆黒の塔の中へ、三人は歩を進めた。塔は静謐で、墓のように黙りこくっている。磨きぬかれた黄土色のタイルに、ヒスイたち三人の顔がおぼろけながら映った。これほどまでに不可解な建物が、人工物であるとでもいうのだろうか? そんな疑問がよぎったが、三人とも言葉にはしなかった。口を開いたと同時に、塔に充満する静けさが胸の中まで流れ込んできそうな気がしたからだ。だから、

「見て」

 とセフが声を発した際に、ヒスイとエバはいつになく背筋を振るわせた。唇を引き結んだまま、ヒスイもエバも前方に目をやる。窓のない建造物だというのに、建物の内部はうっすらと明るかった。まるで塔が自分の意思で、三人に光を投げかけているかのようだった。

 明かりの向こう側は、広間になっている。その中央に、セフの指摘したものが存在した。三脚の上に、薄べったい草子のようなものが乗っかっている。三人の誰一人として、それが何なのか分からなかった。

「気をつけてね、ヒスイ」

 ヒスイが次に取る行動を察知したのだろう。神妙な顔つきで、エバがヒスイに注意を促した。

「ええ、分かってる……」

 頷き返すと、中央に佇む三脚の側まで、ヒスイは近づいていく。ワナはないだろうかと、ふと天井を見上げ、ヒスイは息を呑んだ。吹き抜けとなった塔の沿革に、螺旋階段が渦を巻いている。階段の渦はいつ果てるともなく続き、光の届かない遥かな階上で輪郭を潰していた。

 ヒスイは手を伸ばして、三脚の上にある草子を調べてみた。黒色の草子は二つに開くことができたが、紙が挟まっているわけではないようだった。上半分は漆黒に塗りつぶされており、下半分は文様の描かれたプレートがところ狭しと敷き詰められていた。

(この文様……)

 ヒスイは文様に見覚えがあった。下天で見かけた文様も、ここに見られる文様と同じ形状をしていた。

 と、そのとき。ヒスイは文様の描かれたプレートの一つが、かすかに光を放っていることを見つけた。周囲の様子をうかがいつつ、ヒスイは力を込めてそのプレートを押した。

 プレートを押すと同時に、光が消える。次の瞬間、絹を細くちぎるような音と共に、ヒスイの前方が瞬いた。

「ヒスイ!」

 エバとセフが、慌ててヒスイの側まで駆け寄ってくる。ヒスイは立ちすくんだまま、前方を凝視していた。光は草子の背表紙から漏れ出し、ヒスイたちの前方に影像を作り上げていた。

「これは……」

 そう言ったきり、三人とも口をつぐむ。眼前に現れたのは、深い霧の中に没した、銀台宮の一画だった。

 銀台宮の一画に、一人の人間と、一匹の聖獣がいた。マウレンチュグリに、カケイが餌を与えていた。

 隣にいるエバの息を呑んでいる様子が、ヒスイにも分かった。ヒスイは平常心を維持するためにも、影像にゆらめくカケイの表情を凝視した。今ならば横にいる二人も、カケイの人相がどのようなものだったか思い出せるに違いない。しかし、この影像が途切れたら? 再び、カケイの表情は二人の記憶から遠ざかってしまうのだろう。カケイをはっきり知ることができるのは、ヒスイだけ。その意味は何なのか。

 影像の中央に映りこんでいたマウレンチュグリが、突然頭を上げ、耳を澄まし始める。何かが迫りつつあるのを、本能で感じ取ったのだろう。立ち上がったカケイの脇をすり抜けて、マウレンチュグリは霧の向こう側へと姿を消した。

 それからすぐに、タミンがやってくる。

“主よ、客人がお見えです”

 タミンの声が、広間の一体からこだましてくる。音のないものと思っていたセフが、声に肩をすくめた。声は大きく響き渡っていたが、音源がどこにあるのか、ヒスイたちには分からなかった。

“……分かっている。タミン、下がっていなさい”

“主の御心にかないますように”

 タミンはそれだけ答えると、やってきた方角へと戻っていく。数歩もしないうちに、タミンの姿は深い霧の中へ没してしまった。

 心臓の鼓動が早まっていくのを、ヒスイは感じていた。ヒスイの知っている銀台宮では、霧は完全に晴れていた。それなのに、なぜ今は霧に覆われているというのだろう。

 タミンを見送ったあと、カケイは大きく溜め息をついた。それから瞳を細め、霧の中に沈む木々を見やる。ぎこちない足音は彼方から響き始め、奇っ怪なシルエットが白い霧の底から浮かび上がってくる。

師範ダォシ……」

 かすれた声で、セフが呟いた。

 それはイヲの姿だった。木々の縮尺を無視して、石のように黒ずんだ金瓶梅の顔がカケイへ迫ってくる。顔のすぐ下から、太い鶏のような脚が生え、大地に爪痕を穿っている。顔の周りからは怪しげな触手が無数に生えていた。よく目を凝らしてみれば、それらは人間の腕だった。

 最後にヒスイがイヲに会ったのは、地Qにいるときだった。どのような理由によるものかは分からないが、あのあとイヲは竜の島へ戻ってきたのだ。しかしそのときに比しても、イヲはもはや人間としての形態さえ保っていなかった。ヒスイは吐き気を覚える。

“金瓶梅……”

 イヲの正面に、カケイが立ちはだかった。

“この私が分かるか?”

 金瓶梅”だったもの”は答えない。金瓶梅の右目が開くと、そこから男根のように太い触手が首を伸ばした。その先端には、髑髏のような無様な顔がついている。絶叫が轟き、周囲の木々を揺らす。しかしカケイは動じなかった。

“その姿をセフが見たらどう思う?”

 カケイは穏やかに、しかし諭すような厳しい目付きでイヲに尋ねる。

“人としての形を失い、言葉を失い、記憶も魂も失って……それでお前は何を求める?”

 エバの隣で、セフが唇を噛んだ。

 イヲの頭部が、カケイの言葉に首を傾げた。頭を支える太い触手が充血し、赤く点滅している。

「金瓶梅、セフはお前を……愛していたぞ? きっと心の底からセフはお前を愛していた。――どうしてお前が応えてやれない? 一人の愛にさえ答えられずに、お前は闘って何とする?」

 イヲはやはり答えなかった。太い脚でカケイににじり寄る。カケイは肩を竦めて――笑っていた。

「金瓶梅、私はお前をセフに会わせたくない。――さぁ、来なさい。なおも進むというのなら、まずは私を倒しなさい」

 影像はそこで終わった。







 金瓶梅が三人の前にいる。

▶ 次のページに進む

▶ 前のページに戻る

▶ 『竜の娘は生きている』に戻る

▶ 連載小説一覧に戻る

▶ ホームに戻る

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする