第96話:ヰスイはまことの葡萄の木

「なんで?」

 エバの口から、疑問の言葉が漏れた。そしてそれは、至極当然な疑問だった。

 目の前にいるのは、確かに金瓶梅の姿である。――ただし、絶命していた。内側に詰まっていたはずの臓器はすべてぶちまけられ、広間を放射状に散らばっている。中心から伸びる一本の触手には、金瓶梅の上半身が張り付いていた。

 草子から発せられた影像が途切れると同時に、金瓶梅の亡骸が登場したのだ。不可解なことこの上なかったが、もう三人には驚くだけの余裕も残されていなかった。分からないことが、あまりにも多すぎる。なぜ、イヲは銀台宮へ向かったのか。なぜ、イヲはカケイを襲ったのか。

 なぜ、イヲとカケイが対峙した一部始終が、ここに幻影としてたち現れたのか。

「これは……カケイ様がやった、ってこと?」

 半信半疑のまま、セフが二人に尋ねる。

「でも、だとしたら、カケイ様は?」

「そんなの決まってるでしょ、セフ。カケイは上にいるのよ」

 そう吐き捨てると、エバが上を向いた。セフもつられて上を向く。螺旋階段の見果てぬ頂上、そこが塔の深奥であり、ヒスイたちの目的地なのだ。

「カケイ様はまだ、銀台宮にいるかもしれないでしょ?」

 息巻くエバに対して、ヒスイは冷静に答えた。セフが不安げに、ヒスイの顔を覗きこんだ。

「それって……どういうこと?」

「カケイ様は金瓶梅を『セフに会わせたくない』って言っていたわ。なのに金瓶梅は“ここで”朽ち果てている。――それってつまり、カケイ様は金瓶梅に負けて、金瓶梅は別の理由でここに死んでいる、ってことじゃない?」

「でも……それってどうだろう?」

 ためらいながらも、セフがヒスイの言葉に反駁する。

「だって、ヒスイのお母さんって結構強いと思うんだ。確かに師範ダォシだって強かったけど、ヒスイのお母さんに勝てるほどじゃないと思うし……」

「だから、カケイ様は私のお母さんじゃないのよ」

「じゃあ、誰がこんなことしたっていうのよ?!」

 苛立ち気味に、エバが二人の会話に割って入る。

「キスイがここにいないわ。もしかしたらこれも、彼女がやったのかもしれない」

「変なからくりを仕込んで、あたし達の分からない隙にイヲの死体をぶちまけたっていうの? じゃあ、あの影像はどうやって説明するつもりなのよ?」

「それは……」

 エバの問いに、ヒスイも答えあぐねる。塔の奥に潜むのがキスイだとしたら、わざわざこんな小細工をする必要はない。ただ見せしめに、金瓶梅の死体を置くだけでよい。

 だがもし、塔の奥にいるのがカケイだとしたら? ――それでもやはり、仮定としてはくらくなる。カケイが何のために、ヒスイたちに自らの正体を仄めかしているのか分からない。こんなまだるっこしいことをせずに、銀台宮にてヒスイたちを仕留めればよいはずだ。

「ねぇ、ヒスイ」

 ヒスイの両肩に手を乗せ、エバが諭すように口を開く。

「あたしがこんなことを言うのもおかしいけど、逃げちゃダメよ、ヒスイ」

「逃げる……私が?」

「そうよ、ヒスイ。さっきからずっと、『カケイがお母さんじゃないか』ってことから、ヒスイは逃げてるわ。いいじゃない? 別に、誰があなたのお母さんだろうと、ヒスイがヒスイであることに変わりはないでしょ?」

 エバの言葉に、ヒスイは黙って唇を噛むしかなかった。「カケイがヒスイの母親だ」という仮定に、ヒスイはどうしても納得がいかない。だがカケイは、ヒスイの期待とまるで逆のことをしている。ヒスイにだけ自らの顔を明かし、エバとセフには顔を明かさない――。“三人を仲たがいさせようとしている”と、悪意をもって考えることだってできる。

(私がイスイから逃げている?)

「ハァ、ハァ……」

 混乱した気持ちを、ヒスイは何とかして二人に伝えようとした。だがその前に、誰かの息を切らした声が、三人の耳に届いてくる。

「リリス……」

 振り向いたエバが、喉の奥底から声を絞り出した。

 広間の入り口に、リリスが立っていた。銃撃の傷跡は生々しく、青い衣は血にまみれ、見る影もない。

 二人を後ろに下がらせると、エバが両手のひらを二人に向けた。周囲の空気がにわかに揺らぎ、気温を下げる。ヒスイとセフが気づいたときにはもう、三人の周囲には結界が張られていた。

「ジム……聞こえる?」

 エバの結界は、リリスとの決戦を予期したものだったのだろう。だがヒスイたちには目もくれず、リリスはイヲの遺体に呼びかけた。干からびた内臓に足を取られながらも、リリスは一歩一歩、中心に伸びるイヲの触手へと近づいてゆく。

「まったく……馬鹿馬鹿しい……ただ踊らされてくたばるあなたじゃないでしょう……! 本当に……本当にろくでもない世界よ!」

 臓器に足を取られ、リリスがイヲの死体の中で転んだ。リリスの口から血の泡が飛び、イヲの亡骸とぶつかって湯気を立てる。セフが隣で喉をならし、帯びていた吹毛刀を静かに抜き放った。

 這いつくばり、なおもイヲの触手に近づいていたリリスが、突然ヒスイを睨みつけた。

「本当にくだらない! この世界も……あなたの家族も……!」

 血が一瞬にして冷たくなったような錯覚に、ヒスイはとらわれる。胸が苦しくなり、ヒスイのこめかみを汗がつたった。今まで立っていた足元が、急に消えてなくなるかのような、強烈な不安感がヒスイの心に波を立てる。

 リリスの呪詛は、予章の一族へ向けられたものだ。直接ヒスイを呪った言葉ではない。だがヒスイは、キスイのことも、イスイのこともほとんど分かっていない。リリスの言葉がヒスイにはこたえた。

 ヒスイが守りたかった、この“竜の島”という世界。それは所詮、イスイという名の竜の箱庭。すなわちイスイの玩具箱。生み落とされた段階で負けの確定している、いわばイスイによる屠殺。

「ジム、これで終わりじゃないでしょう……? 踊らされて終わるのなんて……私はまっぴらよ……!」

 瀕死の人間の口から発せられた言葉とは思えないほど、リリスの言葉は執念に満ちていた。触手から申し訳程度にはみ出ていたイヲの手を掴むと、リリスはイヲの亡骸に覆いかぶさる。

「……何?!」

 広間全体をこだまし始めた音に、エバが息を呑んで周囲を見回した。形あるものを無理やり火を通し、強烈に沸騰させているような音だった。三人は床に目を落としてみる。干からびきっていたはずのイヲの臓器が湯気を放ち、膨らんだり縮んだりしながら、新たな形を形成し始めている。

「あれは……」

 広間の周縁に逃げ込みながら、セフが中心部に指を立てる。覆いかぶさっていたはずのリリスの体躯が、いつしかイヲの遺骸と溶け合わさり、青白く鼓動していた。

「はが……がっ?!」

 奇怪な声をあげながらも、リリスはイヲの胴体を再構築し始める。自らの命を差し出す代わりに、リリスはイヲの身体を乗っ取ったのだ。

 醜悪な怪物の胴体が、一気にして膨れ上がり、広場の中心部を満たした。草子を載せた台が怪物の尾にぶつかり、倒れて粉々に砕け散る。怪物の体が脈打つたびに、体色がグラデーションを描き出した。さながら芋虫のような有様だったが、身体に段が刻まれているため、ますます芋虫を連想させる。

 怪物が首をもたげ、ヒスイたちに直面する。頭部から生える一本の触手の先には、イヲと融合して顔を歪めた、リリスの姿があった。

「エバ……行くわ」

「ええ、分かってる」

 ヒスイの言葉はすぐに、エバによって肯定された。銃を構えた右腕の延長上に、リリスの触手が位置している。

 そこへ向けて一発、――銃声。だが怪物の動きは、ヒスイの予想以上に敏捷だった。怪物は即座に身をよじり、急所をヒスイたちから遠ざける。銃撃は芋虫のわき腹に炸裂し、黄色い汁が飛び散った。

 ヒスイたちの眼前で、怪物の体が一気に膨れ上がる。再びヒスイたちに正面から対峙すると、怪物は口吻から糸を噴出した。

「任せて――!」

 抜き放った吹毛刀を構えると、セフが二人の前に躍り出る。鋭く噴き出した怪物の糸と、セフの吹毛刀が交錯する。

「なっ……?!」

 音も衝撃もない、静かな剣戟だった。だがそこからは三人にとって予想外の展開になる。吹毛刀の前に断ち切られた怪物の糸が、そのまま放射状に散らばって三人に覆いかぶさろうとしてくる。糸を凝視したヒスイは、それが支離滅裂に動いていることを察知した。これはただの糸ではない。白くて細い、何か別の生き物だ。

「はぁっ!」

 一歩前に進み出ると、エバが両手を素早く打ち鳴らした。ヒスイたちを取り囲もうとしていた線虫の動きが、瞬時にして止まる。腐敗臭のようなものが立ちこめ、ヒスイの目が涙に濡れた。白い線虫たちは地面に落ち、落ちると同時に粉々になる。エバの魔法が炸裂し、線虫が内側から灰と化したのだろう。

――かっ、かっ、かっ。

 広間全体に、不気味な規則音がこだまする。聞きなれた音に、三人の身体は反射的に鳥肌を立てた。

 それは火炎放射を発する前に、リウが歯を打ち鳴らしている音だ。その音がなぜか、芋虫のいる方角から響いてくる。怪物の口吻に、ヒスイの視線が注がれる。口吻に生えた赤い牙がせわしなく叩き鳴らされ、火花が飛び散っていた。

 怪物の体が、今度は白く膨れ上がる。

「まずい!」

 セフが声を発した。それと同時に、空気の流れが変わる。怪物のいる方角から熱気が立ち込め、ヒスイたちの体から汗が噴き出してくる。

「くそっ――」

 エバが舌打ちをして、両手を自身の前にかざす。再び結界を張るつもりなのだろうが、間に合いそうもない。

(来る――)

 動きを見極めようと、ヒスイは怪物の口吻を凝視する。

 と、そのときだった。ヒスイの脇から猛然と何かが飛び出してくると、怪物の口の中へ拳骨を叩き込んだ。今まさに火炎放射を放とうとしていた怪物の口が塞がれ、発射していようとしていたガスが怪物の体内を逆流する。怪物の体が緑に膨れ上がり、更に紫に膨れ上がって、ついに弾けとんだ。

「うわっ?!」

 セフが叫び、反射的に身を背ける。だが怪物の体ははじけたあと、壁にべったりと張り付いただけだった。建物全体が衝撃に身じろぎし、生臭い湿った空気が広間を垂れ込める。

「ハァ、ハァ――」

 怪物を仕留めた主が、ヒスイたちの方へ振り向いた。髪にも衣服にも泥と血がついていたが、伸びた背筋も、黒い角もいつもと同じだった。

「イェンさん……」

 イェンの姿がそこにある。ヒスイに“竜の瞳”を打ち抜かれたあと、正気に戻ったらしい。

 言葉もなく、ヒスイはイェンのもとへ近づく。イェンもヒスイの側まで歩み寄ると、その場でひざまずいてヒスイの体を抱きしめる。

「あぁ、ヒスイ――」

 イェンの言葉の弱々しさに、ヒスイは胸が張り裂けそうになった。イェンの瞳は潤み、目から涙がこぼれている。

「ヒスイ、もうどこへも行くな。二度と、どこへも行くな。あれがそばにおるから、じゃから……」

「フフフ……ありがとう、イェンさん――。大丈夫、よく分かってる」

 自らの腰にすがりつくイェンの頭を、ヒスイはそっと撫でた。こんな日が来るとは、ヒスイは想像だにしなかった。イェンを慰めていたヒスイは内心、ゆりかごから突然突き飛ばされたかのような孤独と闘っていた。

 顔を右腕で拭うと、イェンは壁へと目をやった。壁にこびり付いた芋虫の体液が、複雑な文様を形成しつつある。こびり付いた白い体液のそこかしこで、紫色の文様が渦を巻いている。

「魔法陣……」

 はっきりと一言、エバが呟く。

「イェンさん、魔法陣が――」

「分かっておる。さぁヒスイ、行くぞ」

 言うが早いか、イェンはヒスイの左手首を握りしめる。思わず動いたヒスイの左手を凝視して、イェンは言葉をなくす。

「その指……」

「大丈夫よ、イェンさん。右手でも私は――」

「クソッ、何ゆえじゃ、イスイ様……」

 イェンはそれだけ吐き捨てると、ヒスイを強引に引き立てて螺旋階段を登ってゆく。成り行きを見守っていたエバとセフも、二人のあとに続いて階段を登り始めた。

「イェンさん、どういうこと?!」

 猛然と階段を駆け上がるイェンの背中めがけ、ヒスイが言葉を口にした。ヒスイの指を見た瞬間、イェンは「イスイ」の名を呼んだ。イェンはイスイについて、何を知っているのか。

「イェンさん、この先に何があるの?」

 振り向いたイェンが答える前に、ヒスイたちの足元で巨大な爆発が起きた。怪物が息を吹き返し、螺旋階段の根元付近から、塔を根こそぎ食い潰そうとしているのだ。既に塔の一階部分は覆われ、もうじきヒスイたちの足場へと迫ろうとしていた。

「ダメじゃ、ダメじゃ……ヒスイたち、乗れ!」

 言うが早いか、イェンはもうエバとセフの首根っこを掴み、自らへたぐり寄せていた。ヒスイもとっさに、イェンの背中に乗る。イェンが跳躍し、足場にひびが入る。間をおかずして、その足場を怪物が呑み込んだ。

 階段の縁を蹴り上げるようにして、イェンは三人を掴んだまま屋上まで登ってゆく。

「まずい……」

 抱きかかえられていたエバが、下を見て悲鳴を発した。塔の内部を埋め尽くさんとばかりに、怪物の体は無際限の膨張を続けていた。

「見て――!」

 上部に目をやっていたセフが、螺旋階段の終極を指差した。固くしまっていた扉が開き、温かな光が四人を迎え入れる――。

「うそ?!」

 扉の向こうを見て、エバが悲鳴を上げた。扉の奥は小さな個室になっている。とても逃げ切るだけの余地などない。

「大丈夫!」

 だがヒスイは知っている。同じ仕組みのからくりを、地Qで見たことがあるからだ。確か“エレベーター”という名前だった。

 一本の触手が、イェンの方角へ鞭のようにしなってくる。とっさに穿ったヒスイの銃撃にも、触手はひるまない。触手に叩きつけられ、四人はばらばらに足場へ転がり込んだ。エレベーターまではもうすぐ。はじめにヒスイ、続いてエバとセフが中へと乗り込む。

「イェンさん!」

 セフが伸ばした右腕に、イェンは何とか掴まっていた。しかし怪物の触手が、イェンの脚をとらえて放さない。触手は一本、また一本とイェンの体にまとわりつき、三人とイェンとを引き離そうとする。イェンの手首を掴み、三人は無我夢中でイェンを引っ張り挙げようとする。閉まりかけている“エレベーター”の扉を、エバが無理やり足で押さえつける。

「ヒスイ、あれを置いてゆけ!」

「ダメ! イェンさんも一緒に行くの!」

「ならぬ! もうダメじゃ。ヒスイ、おまえ自身が……竜の娘であるおまえ自身が、お前の母者を見るのじゃ」

 “竜の娘”の言葉に、力を込めていたヒスイの手が止まる。

「イェンさん、知ってたの?!」

「さぁ、ゆくのじゃヒスイ……けい!」

「イェンさん――!」

 ヒスイの絶叫がこだます。イェンは自らの手をほどいた。触手がイェンを完全に掌握する瞬間、不意にすべての光景がヒスイたち三人から遠ざかっていった。さながら自分達を乗せた電車が、電車のホームから遠ざかってゆくかのようだった。あとに残された空間は、まったく深海のように息を潜めている。

 世界から孤立している――三人は直観的にそう考える。唐突な静寂に不安になった三人を、蛍光灯は明るく照らしたままだった。エレベーターの扉が閉まり、三人を現世から断絶させた。

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