ロイが危機を察知してから、次の音が来るまでに、少しの間があった。
しかし次の音とともに、かすかな静寂は破られた。今度は先ほどよりももっと強い音で、狭い通路全体が揺さぶられているかのようだった。
「……何が起きているの?」
セフが小声で、前方にいるロイに呼びかける。
「びっくりするなよ、竜だ」
「竜って――」
転日宮へ侵入したときのことを、三人は思い出さないわけにはいかなかった。獰猛な唸り声に、全身を覆う青い鱗。口から発せられる炎は、まさしく冥府の業火を思い起こさせるほど圧倒的だった。
そんな怪物が、ヒスイたちと天井一枚を隔てて闊歩している。
「そんな……あれで倒したはずじゃ――」
「と、思うだろ? だがリリスが二体、別に作ったみたいなんだ。イェン国従も、さすがに二体同時には相手にできなかった。だから捕まったんだ」
再び、低い音が通路全体にのしかかってきた。この音が竜の羽ばたきであることを、ヒスイもようやく理解した。
ヒスイの反応を待たずして、ロイがエバの方に向き直った。
「なぁ、エバ。リリスはお前の姉貴だろ?」
その質問に、ヒスイもセフもぎくりとした。ロイの口調はやけにはっきりしていて、まるでエバに対するあてつけのように聞こえたからだ。
「ええ……そうよ? そうみたいね?」
ヒスイの心配とは裏腹に、エバは静かに答える。
「それがどうかしたの?」
「いや、リリスがどんな行動を取るか、エバなら分かるんじゃないかと思ってな」
「それが分かったら、どうなるの?」
「迂回して、“塔”まで行くんだ」
“塔”の鼓動に触発されて、ヒスイの心臓の鼓動がにわかに早まった。デンシャにいた際も、ヒスイが気になっていたことだ。転日宮の中央に突如としてそびえ立った、不気味な塔の存在についてである。
「ロイ、“塔”って何なの?」
「分からない。というか、分かりたくもない」
ぶっきらぼうに、ロイが答える。
「ただ、イェン国従が捕まった後、“塔”の中へ引っ張られているのを見たんだ。だからきっと、キスイもその中にいる」
「そうね……ならば、そうしましょう」
エバが意気込んで答える。両手を合わせ、その隙間にそっと息を吹き込み、手を放した。離れたエバの両手から小さな瞬きが起き、それは一気に大きくなって四人を包み込む。
「結界よ。これで気配が誤魔化せる」
今しがたの魔術を、エバが三人に向かって説明する。その言葉に、ロイがはじめて安堵の息を洩らした。
「これで少しは気楽だ……さぁ、行こう!」
――……
三人が想像する以上に、二体の竜は近くにいた。一体は奥に平行して走る通路から頭を覗かせており、もう一体は潰れた屋敷の上に陣取って、周囲をくまなく窺っていた。
一体の竜の尻尾が大きく揺れ、セフのすぐ側まで迫ってくる。竜もまた一つの生命体であるはずなのに、発する体臭は硫黄の臭気に近かった。臭いに顔をゆがめつつも、セフは何とか尻尾をよけて、先を急ぐ三人のところまで追いすがる。
「気をつけて」
物音を立てないよう細心の注意を払いながらも、エバが他の三人に忠告する。
「視覚や気配は誤魔化せても、臭いや音は大きすぎるとばれちゃうから」
少なくとも、臭いに関しては大丈夫だ――。説明を受けた三人はめいめいそう考えていた。口で呼吸を試みると、どうしても息が荒くなる。
ヒスイは左腕を折り曲げ、そっと鼻頭を隠した。それから視線を、進む方角の遥か向こうへ向けた。
転日宮があったところに、一つの巨大な塔が建っている。ヒスイが遠目で確認したよりも、塔は奇怪で、邪悪ないでたちだった。何よりもまず、窓が一つもない。だから“塔”と呼べるのかどうかさえ怪しい代物だ。加えて塔の天辺が、ヒスイたちのいる位置からは分からない。直角と呼んでも差し支えないほど傾きの少ない円錐形だ。薄い大気に輪郭がかすみ、ここから眺めただけでは、頂上が本当に存在するとは思えなかった。
ふと銃に触れてみたヒスイは、それがかつてないほど鼓動していることに気づいた。なぜだか分からないが、ヒスイもその鼓動の意味が分かる気がした。
キスイは必ず、この塔にいる。
そのとき突然、
「助けてくれ!」
という声が、ヒスイたちの前方から響き渡ってきた。
反射的に足を止めそうになったヒスイの背中を、ロイがそっと押す。そんなロイの態度に、ヒスイも冷静になった。転日京の周辺で、助けを呼べる人間などいない。大方の人間はキスイに洗脳され、周辺を徘徊する亡者に堕してしまっている。だから今の声は、ヒスイたちをおびき出すための陽動なのだ。
(陽動されている――私たちの存在に気づいている)
ヒスイは視線だけを動かして、周囲をまさぐった。ヒスイの視界からは、竜が一体だけ確認できる。だがその竜も、視界の外側にいる竜も、ヒスイたちめがけて動き出すそぶりはなかった。
リリスは、ヒスイたちが転日京にやってきたということは分かったのだろう。しかし転日京のどこにいるのかは分かっていないのだ。そうでなければ、「陽動」などという中途半端なことはせず、すぐにでも竜をけしかけて四人を殺したことだろう。
「ねぇ、ヒスイ」
ヒスイの傍らから片時も離れなかったエバが、不意にヒスイの名を口にした。呼びかけに呼応して、ヒスイもエバの方を見やる。しかし、エバはただ前方をうつろげに見るのみで、ヒスイと視線を合わせようとしない。
「あたし、少し試してみたいことがあるの」
ヒスイの心中が、妙にざわついた。
「エバ、喋るのはやめろ」
苛立った口調で、ロイがエバを叱責する。ロイの額を、汗が滴った。一体の竜が歯を打ち鳴らす、「カッ、カッ、カッ」という乾いた音が周辺に響き、空気を震わせる。
「どうせこのまま“塔”の中へ潜り込んでも、キスイとリリスに挟まれるだけ……」
エバが突如として、両手を打ち鳴らした。
「エバ――!」
エバが何をしたがっているのか分かっていないのだろう。セフが混乱のあまり、少し声を荒げる。だがセフが何かを言い出すまえに、竜の絶叫が四人の脳内にこだました。
エバの結界が破られたのだ。それも他ならぬ、エバ自身の手によって。
「クソッ、ヒスイ」
ヒスイの腕を掴むと、ロイは強引に引っ張った。路地を抜けつつ、何とか竜たちを捲く算段がロイにはあったのだろう。
だがそんなロイの思わくも、エバの行為を前にして転換を余儀なくされる。
右肩をいからせ、エバが右腕を上から下へと振りかぶる。エバの姿が一瞬にして明滅し、黒くなる。次の瞬間、猛烈な闇のとばりがエバの周囲を立ちこめ、煙となってあたりに充満した。
このとき、ヒスイたちはもうエバの側にいなかった。ロイのとっさの機転で、ヒスイとセフは崩落した建物の壁際に連れ込まれていた。
竜の歯を打ち鳴らす音が、「カッ、カッ、カッ」と周囲に響く。二体の竜が同時に打ち鳴らすことで、音は倍速に連打されているようにも聞こえた。
火花を散らし、竜が息吹を火に変えるのも間近――。
だがそれよりも、エバの魔術のほうが早かった。
エバの周囲を覆っていたなだらかな黒い煙が、突然その形を変えた。闇が凝縮して複雑な幾何模様を描き、太い槍となって空へと発射される。あとに青白い稲妻が続き、黒い槍の軌道上を一気に薙いだ。風が吸い寄せられ、周囲の気温が一段と下がる。
二体の竜が断末魔の悲鳴を上げた。一体は黒い闇の槍に身体を切り裂かれ、傷口が粉々に砕け散っている。もう一体は稲妻をまともに喰らい、放電のたびに全身から黄色い血しぶきを上げていた。二体の竜はそれぞれ天を仰ぐと、首をだらりと下げて倒れる。倒れた衝撃で周囲に地響きが起き、破壊に耐え切れなくなった建物が一棟、三人の見守る中で崩れ落ちた。
立っているのはエバだけだった。破壊は終わったはずだった。
だが、それはヒスイの思い違いだった。
「出てきなさい!」
誰もいないはずの空間めがけて、エバが金切り声を上げた。声につられ、ヒスイたちもそちらの方角を見やる。
エバの怒声に触発されるかのようにして、土ぼこりが宙を舞った。エバがすかさず、その土ぼこりの方角めがけ指を鳴らす。乾いた音に引き続き、銅鑼の叩かれるような重たい音がヒスイの耳に届く。
エバが起こした小さな爆発で、結界が破れたらしい。姿をあらわしたリリスは、膝を突いたままエバを見据えている。
「おかしい……」
猜疑の眼差しで、リリスが妹を見つめる。今のリリスの表情は、ヒスイがそれまで目にした中でも最も険しいものだった。
「あなた……いつの間にそんな魔法を!」
ヒスイたちの姿が現れたとき、もはやリリスは勝ったつもりでいたのだろう。イェンがいなくなってしまった今、竜とまともに渡り合える人間などいない。
よもやヒスイたちを見くびっていたわけではないだろう。ただあまりにも、自分の妹を軽視しすぎただけだった。
そしてその誤謬の清算を、今のリリスは迫られている。
エバが拳を握りしめる。エバの体が再び暗く明滅し、闇がエバの右拳に凝縮した。エバが振りかぶると同時に、闇の太い渦がリリスめがけて放たれる。
リリスも両手で稲妻を繰ると、闇の渦めがけて解き放つ。闇と光は互いに衝突し、不協和音と点滅を周囲にもたらした。
だが外野にいるヒスイたちの目からも明らかに、リリスのほうが劣勢だった。闇が徐々に光を押し、渦がリリスを取り込もうとする。
これまでずっとリリスのほうが優位だった魔力が、いまエバの手により覆されようとしている。
「くっ……」
闇の渦がリリスを飲み込まんとする、まさにその瞬間、リリスの身体から灰色の煙が立ち込めた。
「何……うっ?!」
煙は一気に周囲へ立ち込め、エバはおろか、ヒスイとセフ、ロイをも呑み込んだ。苦い、加えて人を不安にさせる臭い――。これはまぎれもなく、煙草の煙と一緒だった。
四人は咳き込み、涙目になる。ようやく煙が晴れた頃には、リリスの姿は跡形も無く消えている。煙幕の魔法陣を利用して、リリスは遁走を図ったのだ。
「逃げられた……」
淡々とエバが呟いた。その涙は、相変わらず黒い色をしていた。ロイが険しい目つきで、そんなエバを凝視している。
一行に降りかかる、わずかばかりの静寂の時――。それは背後から上がった絶叫により、すぐさま引き裂かれた。
そこに立ち止まっているのは、一人の兵士だった。服はあちこちがほつれているが、身なりそのものはしっかりしている。
兵士はぎこちない動作で首を動かすと、ヒスイたちに向かって大きく目を見開いた。眼球には、瞳がなくなっている。それどころか、眼球全体が青く染まり、鈍い光を放っていた。
異形と化した兵士の体が、突然大きく仰け反る。ロイの突き出した弩が、異形の眉間に矢を差したのだ。
「ヒスイ、急ぐんだ」
ロイはそう言うと、街路の中央で仁王立ちになった。弩に新しい矢をつがえ、ロイは遠くを注視している。
兵士の声に引き寄せられ、一人、また一人と“竜の瞳”に冒された異形たちがやってくる。
「こっちだ!」
「ちょっと、ロイ!」
手を振って異形たちの注意を引くロイに、セフは堪らず取りすがった。
「ダメ。ロイも一緒に……」
「今行かなきゃ無駄になるだろ。リリスがキスイと合流したらどうするんだ」
弩が引き絞られ、矢が飛び立った。先頭を走る異形の足に矢が命中し、異形が盛大に転ぶ。転んだ異形に足を取られ、他の異形たちも進みあぐねる。
「三人とも、先に行くんだ。……もっとも、今回ばかりは追いつける自信がないけどな」
「ロイ……」
セフの手を払いのけ、ロイが再び手を振った。
「こっちだ!」
「――行きましょう、セフ」
名残惜しげなセフの衣を引いて、ヒスイが先を促す。
「ロイ、ありがとう! かならず……必ず“終わらせる”!」
「おう……あばよ!」
ロイはそういい残すと、すぐさま身を翻した。異形の群れはロイに陽動され、ヒスイたちのいる路地とは反対側へ走り抜けてゆく。
――……
「ヒスイ、行きましょう」
塔を見上げていたエバが、背後にいるヒスイとセフに呼びかける。
「ええ、もちろん。ここからなら近いわ」
「そうね、リリスもそんなに遠くには行ってないはず」
三人は互いに頷きあうと、塔めがけて駆け出そうとした。
そんな矢先、三人の耳に恐るべき音が飛び込んでくる。
それは、銃声だった。