第92話:大きさ歳星のごとし

(足音が止まった……、)

 ヒスイがそう考えた矢先、デンシャの照明がすべて消えた。

「ヒスイ!」

 エバの叫び声が、ヒスイの耳にこだまする。だがそのときにはもう、ヒスイは胸ぐらを鷲掴みにされ、放り投げられている最中だった。

 デンシャの屋根に陣取っていた相手が、屋根の鉄板を素手で突き破り、ヒスイを捕まえたのだ。

「うっ……!」

 ヒスイはとっさに、開いた左手で相手の腕を掴む。ヒスイの想像以上に、相手の腕は細い。にもかかわらず、鋼のように強靭な腕力だった。

 天井に空いた穴から弾き飛ばされ、ヒスイはデンシャの屋根に叩きつけられる。火花の散るような痛みが、ヒスイの全身を迸る。それでも歯を食いしばると、ヒスイは四つんばいになったまま相手のいる方角へ顔を向けた。

「……イェンさん?」

 そこに立っているのは、まぎれもなくイェンだった。衣は泥にまみれ、あちこちが破けてこそいるが、頭部からせり出した角は、まぎれもなくイェンのものだった。

 ヒスイは目を細め、イェンを凝視した。遠くにいるイェンと目が合うやいなや、ヒスイの全身を怖気が走る。

 イェンは確実に、ヒスイを殺しに来たのだ。

「イェンさん――どうして?!」

 ヒスイの問いにも、イェンは微動だにしない。ひしゃげた金棒を右手に抱えたまま、イェンが突如として跳躍した。猛烈な踏み込みに耐え切れず、デンシャの上部を覆う鉄板がへこむ。前の車両がゆれ、後ろの車両にいたヒスイまでもが揺さぶられて姿勢を崩す。

(どうする?)

 ヒスイは銃を構えた。跳躍したイェンの姿が、太陽と重なって黒い影を作る。

(ダメだ、撃てない!)

 イェンを打ち抜くだけの勇気を、ヒスイはまだ持てなかった。銃をしまうと、ヒスイは即座に前方の車両へ飛び込む。

 ヒスイが前の車両へ回避したのと、イェンがヒスイのいた地点へ着地したのは、ほぼ同時だった。

 着地する寸前、イェンは振りかぶっていた金棒を鉄槌のごとく車両へ打ち付けた。すべての影像がスローモーションのようになって、ヒスイの脳内へ飛び込んでくる。金属の弾ける鋭い音は、そのあとからやってきた。イェンの鉄槌を喰らい、車両の窓が一斉に砕け散る。車両そのものも衝撃で“く”の字に折れ曲がり、破片を散らしながら宙を舞った。鉄製の高架も軋み、支える石のアーチから砂煙が吹き上がる。二つに割れた金棒は水平に弾け飛ぶと、銀台の深い山中へ没してゆく。猛烈な風圧に足をもつれさせつつも、ヒスイは何とか距離を取った。

 膝を突いて息をするヒスイに、セフが駆け寄る。

「ヒスイ……イェンさん!」

 やるせない思いを込めて、セフがデンシャの後方に声を発する。くず鉄と化した後部の車両からイェンが飛び出すと、ヒスイたちの乗る車両へと着地した。あれほど派手に車両の破滅に巻き込まれたと言うのに、イェンはかすり傷ひとつなかった。

「ヒスイ……そこを退いて」

 後ろからの声に、ヒスイもセフもはっとする。いつの間にか、エバが車両を這い上がり、ヒスイたちの側まで寄ってきていた。

 二人の見つめる中、エバが両手を合わせる。瞬間、稲妻の爆ぜるような鈍い音が、エバの周囲から響き渡った。

「エバ……?」

 身近に迫る危機の存在さえ忘れて、ヒスイもセフもその光景に見入っていた。エバは魔法を発動しようとしている。しかしエバの様子はこれまでとまったく異なっていた。エバの放とうとする魔法は冷たく、重苦しく、そして無呼吸だった。

 エバが両手を、少しだけ開く。そこに凝縮していたのは、深く凍てついた闇。

「エバ――!」

 ヒスイの隣で、セフが悲鳴を発した。ヒスイも奥歯を噛み締め、こみ上げる恐怖心を無理やり押さえつけた。

 それは闇の魔術。世界に生きるすべての魂を震え上がらせずにはいられない、受け入れられぬ顔のない笑い声。

 イェンの咆哮が、闇の不気味な沈黙を突き破った。身体を小刻みに震わせながらも、イェンが三人のところまで肉薄しようとしている。

 ヒスイたちの目の前で、エバが身を丸めた。そんなエバの身体を、闇の帳が包む。風が吹き荒んでいるというのに、闇の煙は風にたなびかず、エバの周囲で渦を巻いた。

 闇の中から、エバが両手を突き出す。闇の煙から稲妻が噴出し、デンシャの装備を震わせる。鬼火が宙をほのめき、ヒスイとセフの髪が静電気で逆立つ。

 両手に渦巻く黒の塊が、瞬時に凝縮してイェンへと飛び出した。ヒスイたちに飛び掛っていたイェンは、それを避ける機会がない。闇の弾とイェンとがぶつかった瞬間、空間が揺らぐのをヒスイは感じ取った。続けざまに起こる悲鳴――その悲鳴は、闇が発したものだった。闇は一気に膨張を遂げ、黒い煙がデンシャを包む。まばたきする暇さえも許さずに、三人の少女に闇が迫った。

 闇に呑まれる寸前、エバが二人の正面に立ちはだかった。押し寄せる闇の煙が、発動主を基点として左右に流れ落ちる。闇の煙はデンシャをこぼれ落ち、そのまま空気に溶け出して透明に変わってゆく。

「う、くっ……」

「エバ、しっかりして!」

 背を丸め、苦しげに息をついているエバの元に、ヒスイは駆け寄った。エバの両肩に手をかけたとき、ヒスイは改めてその肩の細さに気づいた。いつになくエバが“脆くなっている”気がして、ヒスイはやるせない気持ちにかられる。

「エバ……その目……」

 後からやってきたセフが、エバの顔をうかがって絶句する。つられてエバを覗き込んだヒスイも、緊張とおぞましさのあまり息を呑んだ。

 エバの頬を、涙がつたっていた。それも普通の涙ではない。両目から流れるその涙は、黒い色をしていた。

「大丈夫よ、このくらい」

 目元をこすると、エバは煩わしそうに自らの涙を衣の袖で拭った。涙は薄墨のように伸び、エバの赤い衣に染みを作った。

「それより、イェンさんは? 死んだ?」

 絶句しているセフを尻目に、ヒスイは改めてデンシャの後方をうかがった。闇に呑まれた後、イェンの姿は影も形もなくなってしまっている。普段のイェンを考慮に入れれば、妙にあっさりとした片付き方である。イェンはさっさと退散してしまったのか、それとも、それだけエバの魔術が強力なのか。

「エバ、そんな言い方はよそうよ」

 すがるようにして、セフがエバに言った。

「どうして?」

「――まさか本気でイェンさんを殺すつもりだったの?」

「セフは、殺す気がないわけ?」

 二の句が告げずに、セフはエバから距離を取った。それから今度、セフはヒスイの方を振り向いた。

 セフの言いたいことは、ヒスイにも良く分かっている。カケイとの対話の後に何があったのかは知らないが、エバは前にも増して強くなり――そして脆くなっていた。

「セフ、あそこでイェンさんを殺さなかったら、ヒスイが殺されていたのよ。あなた、それでも良いわけ?」

 エバの口調には、セフを問い質す語気が篭っていた。嫌な雰囲気が、三人の間を立ち込める。

「エバ、ありがとう。――私を助けてくれたんでしょう?」

 そんな空気を、ヒスイが先手を取って封じ込めようとする。エバの左手を取り、ヒスイは強く握り締める。

「私もセフも、すごい感謝しているの。ただ……エバのことが心配になっただけ」

「フフフ……大丈夫よ、ヒスイ」

 先ほどまでとはうって変わって、エバの表情が明るくなった。そんなエバを見て、ヒスイもセフも内心安堵する。

「どう、ヒスイ? あたし、前よりも強くなったのよ。だから――」

 更に言葉を継ごうとしたエバだったが、再びデンシャ全体を衝撃が襲った。

「何?!」

 セフの声が、山々を空振る。足場となっているデンシャの天井ががたついた。

(長くはもたない)

 ヒスイはそう直感して、走る電車の前方を睨んだ。転日京を乗せる切り立った断崖は、もう間近まで迫っている。あと少し、このデンシャが走り続けてくれればいい――。

「ヒスイ、あれ――」

「えっ?」

 エバの指に促され、ヒスイは転日京の中空に視線を注ぐ。

 そこに目をやれば、巨大な黒い影が出現していた。

「何、あれは?」

「塔……じゃないかな?」

 ヒスイの言葉に、セフが応答した。薄もやの向こうに潜む黒い円錐形は、確かに“塔”と呼んでも差し支えのない代物だろう。

 ヒスイが違和感を感じたのは、そんな塔が立ち現れている場所だった。ヒスイの記憶が正しければ、あそこは本来転日宮があるはずの場所だ。

「あんな場所に、どうして――」

 ヒスイが疑問を口にし終える前に、再びデンシャがどよめいた。

「ヒスイ!」

 エバが声をあげ、ヒスイに注意を促す。ヒスイもこのときには、自らに向けられているはっきりした敵意を肌で感じ取っていた。

 三人はもう一度、デンシャの背後に目をやった。姿こそ見えないが、イェンはきっとデンシャの下に隠れているのだろう。

 ヒスイは右手で、そっと銃把を握り締める。

「ちょっと、ヒスイ!」

「大丈夫よ、セフ」

 声を荒げるセフを、ヒスイは落ち着き払って宥めた。銃撃をイェンに向けることは、イェンに怪我をさせることと変わらない。けれど、ヒスイだって何もしないわけにはいかないのだ。仮にもしヒスイが闘うことをやめたら、イェンの相手をするのはエバになるだろう。そしてエバは今度こそ、イェンを抹殺しにかかるはずだ。

 エバには、イェンを殺してほしくない。

 だが、イェンもまた死んでほしくはなかった。

(そんなの、虫が良すぎるだろうか)

 ヒスイは迷っていた。その矢先、

――探セ。

 という声が、はっきりとヒスイに伝わってくる。

(えっ?)

 ヒスイは目を瞠ると、自身が握り締めていた銃を確かめた。今の言葉は間違いなく、銃がヒスイに向かって語りかけてきた言葉だった。銃から恐るべき戦慄が流れなくなった分、今度は自分の鼓動が銃へ流れつつあるのを、ヒスイは感じ取っていた。

(探すって、何を探せばいいんだ?)

 だが、それ以上のことを考えている余裕はなかった。デンシャの後ろから、イェンが這い出してくる。

 緑青色のイェンの瞳は、かつてないほど狂気の色にたぎっていた。イェンの服はあちこちが破け、さながら冥府から這い上がってきた亡者のごとき出で立ちだった。

 イェンは荒い息を吐きながら、なおも三人ににじり寄ってくる。エバの魔術をまともに喰らい、弱っている様子だった。

「イェンさん!」

 セフが再度、イェンに向かって呼びかけた。だが相変わらず、イェンは首を小刻みに傾げるだけで、セフの言葉に答えようとはしなかった。

「ヒスイ、そこから隠れて――」

 ヒスイの前に、エバが進み出ようとする。エバの両手の中には、もう既に闇の煙が吹き上がっていた。

「大丈夫よ、エバ。今度は私だけで何とかするわ」

「だめよヒスイ。次は失敗しないわ。必ず始末してみせるから」

 銃口をイェンに向けながらも、ヒスイはエバを見た。だがエバは、ヒスイに視線を合わせようとしない。すでにエバには、イェンを殺すことしか頭にないのだろう。

「ねぇ……エバ、私の言葉を聞いてくれないの?」

「えっ……?」

 ヒスイは敢えて、エバの執着心を逆手にとってみた。とっさの言葉だったが、エバへの効果はてきめんだった。

「違うわ、ヒスイ……そんなことは言わないで」

「なら、私に任せてくれる、エバ?」

「うん……わかった」

 エバがヒスイの後ろへ引き下がり、闇の煙を静かに発散させた。黒い霧が、一瞬だけデンシャ全体に散らばる。

 その点滅の最中、イェンの角が一瞬だけ青く光った。

 ヒスイはそれを見逃さない。

(あれは……)

 欠けていたはずのイェンの左角が、少しだけ長くなっていた。よく見れば、イェンの左角に青い何かが付着している。イェンの行動に警戒するあまり、そのことに気づかなかったのだ。

 肩をいからせると、イェンが咆哮を発した。イェンの足場となっていた天井の鉄板がへこむ。

「来る!」

 隣でセフが、吹毛刀を抜き放った。

 ヒスイは右手を伸ばし、引き金に指をかけた。銃声。今まさに飛びかかろうとしていたイェンの左角に、ヒスイの銃撃が炸裂する。左角に張り付いていた青い付着物が、銃声とともに四散した。それと同時に、イェン自身の身体も大きく後ろに仰け反った。イェンは受身を取ることもままならず、そのままデンシャの屋根にひっくり返ると、動かなくなった。

「ハァ……ハァ……」

 銃を降ろさないまま、ヒスイは浅い息をついていた。イェンを狂気へ駆り立てていた“何か”、その根幹を絶ったという感触が、ヒスイには伝わってきた。

――探セ。

 今にはヒスイも、銃が発した言葉の意味が分かった。銃が探せと言ったものは、エバとイェンの両方を救うための最善の方法だったのだ。

▶ 次のページに進む

▶ 前のページに戻る

▶ 『竜の娘は生きている』に戻る

▶ 連載小説一覧に戻る

▶ ホームに戻る

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする