第91話:それはアプラクサスと呼ばれる

 三人は揃って、再び銀台宮の敷地へと戻った。敷地の端にある花壇では、カケイがくつろいだ様子で庭の手入れをしている。

「カケイさん、」

 そんなカケイに、ヒスイは呼びかける。土を指先でより合わせていたカケイも、ヒスイの声に振り向いて立ち上がった。

「そろそろ行くつもりかね?」

「はい、カケイさん。その……いろいろとお世話になりました」

 ヒスイは両手を膝の前に揃え、カケイに深々と礼をする。カケイが返事をする前に、エバがカケイに言い放った。

「カケイ様は……私たちを助けてはくれないんですか?」

 頭を起こしたヒスイも、側で見守っていたセフも、エバの物言いにぎくりとした。エバの言い草にはとげがあった。ヒスイにこれ以上助力しないカケイを責めているような口調だった。

 更にエバがたたみかけようとした矢先、銀台宮の扉が勢いよく開け放たれた。中からはタミンがあらわれ、立ちすくんでいる三人に会釈することもなくカケイの側まで寄る。これで威勢が削がれてしまったので、エバはカケイの言葉を待つしかなかった。

「私は俗世から離れた身だ」

 不穏な空気が渦巻きつつあることを、カケイは意に介していないらしい。そのままの口調で、カケイは語りだした。

「たとえ今私がキスイたちの前に立ちはだかろうとも、私は何もできない」

「それでも、カケイ様に来てほしいんです」

 鼻息を荒くし、エバが一歩詰め寄った。

「あたしたち、完全に勝たないといけないんです」

「フフフ……」

 何気ない笑い声だったが、なぜかヒスイは慄然とした。どうもカケイの笑い方には、エバに対する憐憫の念が篭っているような気がした。

「この闘争はイスイが仕向けたものだ。そうである以上、ヒスイとイスイ、そしてキスイ以外はすべて排除されてしまうだろう。エバとセフ――君たちがどれほどヒスイと一緒にいようと思っても、だ」

 その言葉に、エバは悔しそうに目を細め、セフは頼りなさげにヒスイを見つめた。

「カケイさん、それでも私は三人で行きます。この三人でこれまでも乗り越えてきたんです。私は最後までそのつもりです」

「そうか」

 深く頷くと、カケイは交互にエバとセフを見やった。

「二人とも、それで構わないんだね?」

「もちろん!」

「はい!」

 かわるがわる、エバとセフが答えた。その返事に、カケイは心なしか嬉しそうだった。

「ならば、私は止めまい。さぁおいで、子供たち――君たちに渡したいものが一つある。これが私のできる、最後の力添えだ」

――……

 カケイに案内されて三人がやってきたのは、銀台宮の外れにある納屋だった。つくりは簡素だったが、ともすれば銀台宮そのものよりもこの納屋のほうが大きいかもしれない。

 何気なく道に目をやったヒスイは、そこに二本の線が刻まれていることに気づいた。

「カケイさん、ここって――」

 ヒスイが答えるより先に、カケイが両手を広げた。その動きに応じて、納屋の重たそうな鉄扉が音を立てて開く。

 両開きの鉄扉の向こう側には“デンシャ”が控えていた。

 目を瞠っていた三人だったが、やがてヒスイを先頭にしてデンシャへと駆け寄った。表面の塗装は剥がれ、錆が目立ったものの、下天でフスが紹介してくれたのと同じデンシャが、三人の前に現れた。

 ヒスイは身を乗り出し、デンシャの中を確認した。外側は汚かったが、内部はいたって清潔そうだった。

「このデンシャは――?」

 ヒスイに代わって、エバがカケイに訊ねた。

「このデンシャは、転日宮の奥まで繫がっている。君たちがサイファと対決したところだ」

 その言葉に、セフが顔を上げる。

「どうしてそこへ繫がっているのですか?」

「……建物全体が小豆色に塗られているのは、君たちも知っているだろう?」

「はい」

「あれは単なるサンの趣向というわけではない。サンが転日宮に施したカモフラージュなのだ。転日宮の深奥には、この世界の秘密が眠っている。“竜の魂”の在り処だったところだ」

 ヒスイは、その言葉に息を呑んだ。

「でも……どうして銀台宮にデンシャがあるんですか?」

「『いつでも私が遊びにこられるように』と、サンが私にくれたものだ」

「――使ったことはあるんですか?」

「かつて一度だけ」

 その言葉に対し、ヒスイは反射的に身震いした。その理由が分からず、身震いを悟られまいと、ヒスイは傍らにある手すりを強く握り締める。

「ヒスイ殿、」

 タミンがヒスイの名を呼ぶ。タミンの手には、ランタンが握られている。

「そのランタンは――」

「ヒスイ様、あなたの身体です」

「私の……“身体”?」

「そうです。あなたが復活してしまった今は無用の長物かもしれませんが、何かの役に立つことも有るでしょう。それにもともと、身体はあなたの物。ですからやはりヒスイ様がお持ちになるのが適当です」

「分かったわ……じゃあ、貰っておくわね」

「ぜひ」

 ランタンを受け取ると、ヒスイ、エバ、そしてセフの三人は電車に乗り込んだ。乗り込むと同時に扉は閉まり、どこからか警笛が高らかに鳴った。

 デンシャは次第に速度を上げ、見送っていたカケイとタミンの姿が小さくなる。次第に銀台宮の姿もかすみ、窓の向こうは霧に沈んでいった。

――……

 め、めめん、めめん、めめん。

 め、めめん、めめん、めめん。

 デンシャは一定のリズムを刻みつつ、車線をんでゆく。

 め、めめん、めめん、めめん。

 め、めめん、めめん、めめん。

 下天から転日京へ向かうときと同じ沈黙が、三人の上にのしかかっていた。窓の向こうの景色は霞にまぎれ、涼やかな空気が室内を冷たく照らしていた。この前まで夏だったというのに、まるで嘘のように季節は秋めいていた。

 三人は一言も発しない。エバは椅子の端に座り、手摺に縋るようにしがみついていた。セフは腕を組んだまま、視線を横にして窓の向こうを見つめている。

 ヒスイは座席に腰掛けることをしなかった。地べたに座り込んで、膝を抱えてうずくまっている。頭の中ではずっと、自分の双子の妹・キスイのことを考えていた。

 今のヒスイたちの行動は、はたしてキスイの予想通りなのか――。それがヒスイの気になることだった。下天へ行くことも、サイファを倒すことも、そして大賢者・カケイの下まで行くことも、多かれ少なかれみなヒスイが決断したことだ。しかしその決断が、もしもキスイによって促されたものだったとしたなら?

 だとしたらキスイは、待っているのだ。ヒスイが本当にヒスイの意思で、自らのもとへ来てくれるのを。

「ねぇ、ヒスイ」

 うずくまるヒスイに、ふとエバが声をかける。エバの呼びかけに、ヒスイは思わず身震いした。それから今の身震いがエバに感づかれていないか、ヒスイは恐る恐る顔を上げた。

 座席を立つと、エバはヒスイの側にしゃがみ込んだ。表情も顔色も、エバは今までと変わらないようだった。にもかかわらず、エバ全体の雰囲気は、冷気を帯びているようにヒスイには感じられた。

「どうしたの、エバ?」

「……すごい変な話ししていい?」

 窓の向こうをうかがっていたセフも、二人を気にして振り向く。

「何か変なことでもあったの、エバ?」

「ねえヒスイ、カケイ様ってどんな人だった?」

 意表をついた質問に、ヒスイは面食らった。しかし言葉とは裏腹に、エバの表情は真剣そのものだった。

「“どんな人”って……。そうね、『大賢者』って肩書きほどは怖そうな感じじゃない人よね。穏やかで、優しそうで――」

「違う、ヒスイ、そういうことじゃない」

 エバがかぶりを振って、ヒスイの言葉を途中で遮った。

「あたしの訊き方がまずかったわ。ヒスイ、カケイ様はどんな顔つきをしていた?」

「顔つき? どんなって――」

 説明するのもばかばかしいように、ヒスイには感じられた。初対面ならともかく、何せエバもセフもカケイ当人に今しがたまで会っていたのだから。

「セフ、あなた覚えてる? ――カケイ様がどんな顔をしていたか」

たじろいでいるヒスイの返事を待たずして、エバはセフに同じ質問をした。

 答える代わりに、セフは腕を組みなおして考える仕草をする。セフはしばらく視線を床に落とし、口を引き結んでいたが、ついに残念そうに首を振った。

「ダメだ……でも、あれ? 何でだろう?」

 そう口にすると、セフは頭を抱えてしまった。

「おかしいな? 何でだろう? ……カケイ様がどんな人だったのか、全然思い出せない!」

 セフの返答を聞いたエバが、これ見よがしにもう一度ヒスイを見やった。エバが何をほのめかしているのか、ヒスイもようやく理解できた。

 要するに、エバもセフもカケイの顔を完全に忘れ去ってしまっているのだ。

「ほら……二人ともしっかりしてよ」

 しかし、ヒスイだけは違っていた。

「カケイ様は、ほら、背が高くてすらっとしていて、鼻筋が通っていて、すこし色黒で、水晶のような綺麗な瞳をしていたわ。髪も長くて、それこそ雪のように白く透き通っていて……」

 と、ヒスイは思いだせる限りのカケイの特徴をあげつらった。エバとセフはすぐに思い出してくれるものとヒスイは考えていたが、それは見込み違いだった。ヒスイが特徴を挙げれば挙げるほど、二人は顔を見合わせたっきりになってしまうのだった。

「ヒスイがそういうのだから、きっとカケイ様はそんな感じの人だったのよね」

 誰にとっても腑に落ちない結論を、エバは下した。

「でも……でも、おかしいな」

 セフが悔しそうに髪を握り締めた。

「覚えていないなんてこと、ないはずなのに」

「カケイ様が忘れさせたのよ」

「エバ――」

 エバの言葉に反応したのは、セフではなくてヒスイの方だった。

「エバ、それはどういうこと」

「つまりね――」

 つまり、

 ヒスイの母親はカケイ。

 すなわち、

 カケイの真の姿こそイスイ。

……

……

 カケイが自分の母親だって?

「まさか……」

 ヒスイは声を絞り出すだけで精一杯だった。

「にわかには信じがたいかもしれない。でもヒスイ、きっとそうよ」

……

……

「いえ、エバ――やっぱりそれはおかしいわ」

 肩にかけられたエバの手を、ヒスイはやんわりと払いのける。

「仮に親子なのだとしたら、私とカケイさんはあまりにも似ていなさすぎる」

「似ているかどうかなんて関係ないでしょう?」

 エバは立ち上がると、せわしげに窓の向こうを顧みた。エバの視線は、過ぎ去ってしまった景色の向こう側へ集中している。

「私も、セフもカケイ様の顔を覚えていない。それなのにヒスイ、あなただけがはっきりと覚えていて、特徴を言うことができる――。それはどうして? ――あなたのお母さんが持つ超常的な力は、あなたにだけ効かないからよ」

「でも……だとしたら……」

 だとしたら、何になるというのか。ヒスイはそれが訊きたかった。エバの言うとおり、カケイの正体がイスイであり、そのイスイが何かしらの魔術を使い、自らの人相に関わる記憶をエバとセフから取り除いたとしよう。だがそんな術を弄して、いったいイスイに何の得があるというのだろうか。

「予章宮の……」

 だがヒスイが口を開く前に、セフが震える声を発した。

「ヒスイ……わたしたち、カケイ様に予章宮での幻を見せてもらったよね? カケイ様はあれを『誰のものでもない記憶』って言ってたけど……あれってもしかしたら、ヒスイのお母さんの記憶なんじゃないかな? もしヒスイのお母さんの記憶だとしたら、それを持っているカケイ様は――」

 それ以上のことを、セフは言わなかった。だがセフの言わんとすることは、ヒスイにもはっきりと分かった。セフの言葉通りに考えてみれば、あやふやだった記憶の所在もはっきりと掴めてくる。

「カケイさんが私たちを躍らせていた、とでも言うの?」

「そうよ……カケイと、イスイとは同じ人だったのよ! あぁ、くそっ……」

 露骨にエバが舌打ちをして、ヒスイから遠ざかった。

「あのとき分かっていたら! そしたら――」

 そのあと、エバがなんと言おうとしたのかは分からない。

 ただ、唇の形は

 し、

 という音を発する手前だった。

 「死」か、「始末」か。

 ヒスイは怖くて訊けなかった。

 しかしそのときだった。

「何?!」

 デンシャの天井から、ものすごい音が響いてきた。ヒスイたちがいる車両の、ちょうど二つ後ろの車両からである。細長い照明が衝撃に明滅し、一部が壊れて床に散らばった。

 三人は立ち上がると、めいめい武器を手にとって天井へ視線を注ぐ。はじめの大きな音のあとも、天井を陥没させているかのような低い音が規則的に響いてきた。その都度照明は弾け、車内は薄暗くなる。

 音はどうやら、足音のようだった。足音はヒスイの真上まで近づくと、不意に止まった。

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