第90話:エバはお前に狂い、セフはお前を離れる。

 川原に一歩踏み出し、エバは自らの足を水に浸した。何のためにそんなことをするのか――それはエバにも分からない。とにかく、何かをせずにはいられなかった。

 そうしなければもう、エバは気が狂いそうだった。

――転日宮へ戻ったとき……それがヒスイの死ぬときだ。

 先ほど、カケイの発した言葉だ。

 まさか、まさか。

 そんなはずはない。

 そんなことはありえない。

 ようやくヒスイを探し出せたと思ったら、また喪うのか?

――そんな、どうしてですか?!

 何も返事ができないエバに代わり、身を乗り出してセフが訊ねた。

――ヒスイはジスモンダに……キスイに負けるんですか? それとも……

 セフを制し、カケイは答える。

――セフ、死ぬことと負けることは、同じことではない。ヒスイが死ぬからといって、相手に負けるとは限らない。

 それがどうしたというのだろう? 負けようが勝とうが、そんなことはエバにとって“どうでもよかった”。肝心のヒスイが死んでしまって、この世界からいなくなったとして、そうしたらエバは、どうすればいい?

 カケイの話を最後まで聞き終えることなく、エバは外へ飛び出していた。心臓は高鳴り、指がわなめいている。大して駆けてもいないというのに、息が切れ、胸がつぶれてしまいそうだった。

 川は滔々と流れ、水は静謐さを湛えている。水面に波紋が生じては、小さな輪を描いた。エバの涙は川に落ち、川の水と溶け合う。

「エバ殿、」

 エバの後ろから、誰かが声を掛けた。目を向ければ、そこにはタミンがいる。すぐ近くに迫っていたというのに、タミンの足音どころか、気配すらエバには分からなかった。

「そこで何をしておられるのです?」

 いつになく無機的に、タミンが尋ねる。タミンの声は小さかったが、エバを苛立たせるには充分だった。

「――泣いてちゃ悪いの?」

「なぜ泣いているのです?」

 怒りに駆られ、エバはタミンのいる方を振り向く。ともすればエバは、タミンの頬を叩いていたかもしれない。しかしタミンの冷徹な視線は、エバの激情を急速に削いでいった。

「う、うっ……」

 やり場のない感情をどこへ向けてよいか分からず、エバはその場に崩れ落ちる。川原の軟らかい泥が、エバの膝を包んだ。

「ヒスイが……死ぬのよ……」

 タミンに口走ったところで、何の益にもならないことはエバにも分かっていた。それでも言わずにはいられなかった。ヒスイは自分が死ぬ運命を知らない。死ぬ運命を知らぬまま、転日宮まで行き、そして死ぬ。結末を知らぬヒスイに、結末を知るエバはどう接すればよいというのか。

「そのようですね、」

 平板な口調で、タミンは答えた。彫像のように、タミンの表情は変わらない。タミンは崩れ落ちているエバを見下ろした。そして、

「ヒスイ殿は、あなたに殺されます」

 と付け加えた。

 エバは耳を疑った。川原の泥に、エバの指が食い込む。エバはタミンを見上げる。

「あたしが……?」

「そうです」

「ウソよ!」

 泥を掴むと、エバはそれをタミンに投げつけた。タミンの黒い衣装に、川原の泥が付着する。

 なおもエバは、タミンに掴みかかろうとした。タミンはエバの両手首を握り締める。タミンの手は氷のように冷たく、握る力は万力のように強かった。

 手首に爪を立てられ、エバは再び膝から崩れ落ちた。しかしタミンは、エバの手首を離さない。

「うそよ……」

「本当です」

 エバは言葉を繰り返す。しかし非情にも、タミンはそれを撥ねつけた。エバの手首から、血が滲む。

「何で、何であたしが……」

 途方にくれるエバに向け、タミンが言い放った。

「それは、あなたが弱いからです」

(あたしが弱い?)

「そうです、エバ殿」

 エバの心を見透かしたかのように、タミンが答えた。

「あなたが弱いせいで、ヒスイ殿は死ぬのです。ヒスイ殿にとって、あなたは足手まといです」

 “足手まとい”――その言葉に、エバは身震いする。――しかし、そうかもしれない。もう少しエバが強ければ、ヒスイは奪われずに済んだ。もう少しエバが強ければ、リリスと対峙することだってできた。もう少しエバが強ければ、フスは殺されなくて済んだ。

「あたしが……ヒスイに着いていかなければ……」

「なるほど。その選択肢もありえます」

 真面目くさった口調で、タミンが応答する。

「しかし、リリス殿をどうするつもりです?」

「リリスを……?」

「そうです。リリス殿はあなたの姉に当たる人物。リリス殿はヒスイ殿を殺しにかかるでしょう。それもこれも、あなたがリリス殿より弱いせいです」

 エバは唇を噛んだ。エバがリリスより強ければ、こんなことにはならなかった。エバがリリスを凌いでいたなら、リリスは野放しになどされなかっただろう。

 ヒスイに従おうが、ヒスイから離れようが、いずれにしてもヒスイは死ぬ。しかもエバのせいで。

「あたし……どうすれば……」

 それ以上を、エバは言葉にできなかった。エバもタミンも何も言わず、ただ川のせせらぎだけが耳に響く。

 しばらくして、タミンが手の力を強めた。

「――力が欲しくありませんか?」

「え……っ?」

 唐突なタミンの質問に、エバは目を白黒させる。エバの手首を握るタミンの力は、ますます強くなる。

「――あなたに力を貸してやっても良い、と言っているんです」

 今までで一番、タミンの声には感情がこもっていた。強欲と邪悪が入り乱れた、人外の感情だった。

「あなたが力を得て……強くなれば……ヒスイ殿を救える!」

 エバは、タミンの闇に気づけない。タミンがどれほどの魔力を持っているのか、エバは知っている。

「お願い……力を」

 今度はエバが、タミンの衣を掴む番だった。

「力を、貸して」

 タミンの力さえ手に入れば、ヒスイに敵対するすべてを、滅ぼすことができるはずだった。


 川原の奥で、ヒスイは銃の稽古をしていた。

 エバたちがここに連れられてくるまでに、だいぶ時間が有った。左手の指は欠けてしまったが、今は右手で銃を構えることができる。銃撃を放つときに感じる衝撃は、今までより大きい。銃把を素手で握れば、銃の鼓動に呑み込まれそうになる。

 それでもヒスイは耐え、練習を重ねた。いつからだろうか、ヒスイは自らの恐怖心に耳を済ませるだけの余裕さえできていた。

 川原へ落ちようとする木の葉に、ヒスイが照準を合わせる。そのとき、

「ヒスイ!」

 と、背後から声がした。セフの声だった。

「セフ、どうしたの?」

「ヒスイ、エバを見なかった?」

 銃をおさめると、ヒスイは首を振る。

「エバを見失っちゃったの?」

「そうなんだ」

「どうして?」

「それは――」

 セフは言いよどんだ。ヒスイ本人に、「ヒスイは死ぬ」というカケイの予言を伝えることはできない。しかしその経緯を説明しなければ、エバがいなくなった状況を伝えることだってできなくなる。

「ええっと、とにかくエバを見失っちゃって……」

「たぶん、大丈夫よ」

 落ち着かないセフの話を遮ると、ヒスイはセフの手を掴んだ。

「エバならきっと、戻ってくるだろうから」

「え? ……うん」

 ヒスイの言葉は確信に満ちていた。セフも圧倒され、言葉を飲み込んだ。

 ヒスイの左手に、セフは視線を落とした。小指と薬指が欠け、痛々しくかさぶたが這っている。

「セフ、ゴメンね」

 唐突に、ヒスイが言い放つ。

「えっ……?」

 不意を突かれたセフは、そんな間抜けな返事しかできなかった。

「ほら……今までずっと、あなたに気が回らなくて」

「う、うん」

 セフはどぎまぎして、ヒスイを見つめ返した。ヒスイは、予章宮での一件を言っているのだろう。面と向かってヒスイに謝られると、セフは落ち着かなくなってしまった。

「それはいいよ、ヒスイ。だけど……一つだけ、教えてほしいことがあるんだ」

「何、セフ?」

 ヒスイの手を離すと、セフはヒスイから一歩離れる。

「――怒らないかな?」

「怒らない? 私が? フフフ……怒ったりなんかしないわよ」

「じゃあ、訊くけどね。――一人、知り合いがいるんだ。まだ知り合って間もないけど、ヒスイも知っている人」

 話している間、セフはそわそわしていた。

「うん……それで?」

「ソイツは……強いヤツで、その部分だけは尊敬するけど、こう言ってたんだ、『ヒスイはひねくれ者だ』って。『お互いひねくれ者だから、分かるんだ。ヒスイは自分とソックリだ』って、言ってた」

「――きっとその人は弓の名手で、セフのことをからかうんでしょ?」

「え……いや、まぁ、そうなんだけど」

「その人の言っていることは、半分正しくて、半分誤りよ」

 ヒスイのセリフを、セフが口の中で反復する。それから慎重そうな表情で、再びヒスイに訊ねた。

「何が正しくて、何が誤りなの?」

「私がひねくれ者だ、ってことは正しいわ。でも、その人はひねくれ者なんかじゃない」

 答えを聞いたセフが、眉をひそめる。

「ひねくれ者じゃない?」

「ええ」

「アイツが?」

「そうよ。ひねくれ者は私だけ」

「……ヒスイ、その言い方はズルいよ」

「フフフ、自分でもそう思うわ。でも――」

 ふとヒスイは、自分の両手のひらを見つめた。先ほどまでセフが触れていたから、セフのぬくもりが残っている。ヒスイは名残惜しげに、そのぬくもりを握り締める。それから、ヒスイは目を閉じた。

 ヒスイのまぶたの裏に、一つの光景が浮かび上がってきた。その中には、二人の人物がいる。一人は背が高く、頑丈そうな体格をしている。その人物は眠たそうで、機嫌がわるそうだった。その人物の名前は、ヒスイも知っている。

 その人物の隣に、セフが寄り添っていた。そんな光景だった。

「でもセフ、あなたはあの人のことが好きになるわ?」

「えっ?!」

 セフが大きな声をあげ、後ろへと飛びのいた。

「ちょ、ちょっとヒスイ、からかわないでよ……」

「いいえ。――ロイとセフ、か」

 あからさまに名前を出すと、ヒスイは愉快そうに肩を震わせる。

「なんだか、凄いぴったりじゃない? フフフ……」

「やめて、やめてってば。うわっ……うわーっ?!」

 顔を真っ赤にすると、セフはそのままもと来た道を戻ってしまった。


「ヒスイ」

 からかい半分でセフを追いかけようとしたヒスイだったが、後ろから誰かに呼び止められた。

 呼び止められた瞬間、反射的にヒスイの脚が震えた。文字通り“浮き足立つ”思いがした。それでもヒスイは振り向いてみる。

 声の主がエバだからだ。

「エバ……」

 本当なら、ヒスイは続けて「どうしたの? セフが探してたのよ?」と訊ねるつもりだった。だがエバの表情を見て、ヒスイは口を開くのをためらった。

 川の向こう岸に立っているエバは、目を見開いてヒスイに微笑みかけている。川の浅いところを渡り、エバはヒスイへ近づいてきた。

「エバ……セフが探していたわよ?」

 本来言うべきセリフを、ヒスイはやっとの思いで口にした。ヒスイの本能が、「エバに話しかけてはならない」と言うことを囁いていた。

「エバ、訊いてる?」

「ねえヒスイ、あたし、ヒスイに着いて行っても良いよね?」

 ヒスイが語り終えるより前に、エバはもう自分の話しに入り込んでいた。

「あたし、覚悟を決めたわ。――もう今までの弱いエバとは違うの。ヒスイの邪魔をする奴は、誰であっても許さない。だから……ヒスイ、あたしを連れて行って――お願い」

 と、エバはヒスイの手を取る。エバの指先は驚くほど冷たかったが、ヒスイは身震いを堪えた。

「もちろんよ、エバ。一緒に行きましょう」

 動揺をエバに感付かれないために、ヒスイはわざとエバの手を強く握り返す。その最中にも、ヒスイは自らの動揺の原因を探っていた。

 エバの様子がおかしい。

 自分の感情を、ヒスイは忠実になぞってみた。先ほどまで本能は「エバから離れるように」とヒスイに忠告していた。しかしエバが接近した今となっては、こうヒスイに訴えかけていた、

「エバに逆らうな」

 と。

「エバ……ごめんなさい」

 エバの瞳を見て、ヒスイは話を進める。エバもまたヒスイを見つめ返していたが、どうもヒスイが思っているような感情はこもっていないようだった。

「“ごめんなさい”?」

 エバが、ヒスイの言葉を反復する。

「どうして?」

「それはね……」

 ヒスイは慎重に、紡ぐべき言葉を選んだ。

「私が不器用なせいで、あなたを散々傷つけてしまったわ。リリスお姉さんが私を裏切ったのも、あれはきっと……」

 ヒスイが語り終える前に、エバが頭を振った。

「姉さんは死んだわ」

「えっ……?」

「ほら、ヒスイだって知っているでしょう?」

 瞳を震わせながらも、エバが話を進める。

「泰日楼へ戻ったとき、リリス姉さんがいたじゃない? 炎に巻かれて……氓に八つ裂きにされて……そうよね、ヒスイ? ――『そうだ』って言って!」

「エバ……」

 かけるべき言葉を探そうとしたヒスイだったが、そんなヒスイの両肩をエバが掴んだ。エバはもう、ほとんど泣き笑いの表情になっている。

「クライン導師も亡くなって……姉さんもあたしたちを裏切って……その上、その上ヒスイ、あなたまで死んじゃったら……あたしいったい、これからどうやって生きていけばいいって言うのよっ?!」

 最後の言葉は、咆哮と言っても良かった。ヒスイは絶句し、自らの膝下に崩れ落ちている少女を見つめる。

 “エバは狂っている”――恐るべきフレーズが、ヒスイの脳裏をかすめた。エバは狂っているのだ。それも他ならぬ、自分のせいで。

「――心配しないで」

 ヒスイはしゃがみ込むと、エバの身体を抱きしめた。

「大丈夫よ。私、そんなに簡単に死なないのよ? エバだって知っているでしょう?」

 むせび泣くエバを、ヒスイは必死になって抱きしめる。

「もし私が死にそうになったら、エバが助けてくれるんでしょう? ……だから一緒に行きましょう?」

 それしか、ヒスイには言えなかった。自らが喪ったものの大きさを確かめるように、ヒスイはもう一度、エバを強く抱きしめた。

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