第89話:竜の魂

「どうだったかね、二人とも?」

 幻は終わった。銀台宮へ引き戻されたヒスイとセフは、互いに顔を見合わせて息を切らすしかなかった。額と手のひらが、脂汗で湿っている。

「ハァ……ハァ……」

 息切れが収まらず、セフは激しく肩を上下させている。

「……カケイ様、一つだけ質問をしてもいいですか?」

 幻から醒める間際に思った疑問を、ヒスイはカケイにぶつけようとする。

「君が見た幻についてだろう、ヒスイ?」

「そうです」

「あれは誰の記憶でもない」

 カケイはすげなく言い放った。

「強いて言うのならば、君と、セフが見たかっただろう幻だ」

 なおも口を開こうとしていたヒスイだったが、その言葉に押し黙ってしまう。なるほど今の記憶のお蔭で、地Qで出会った異形の正体を、ヒスイは掴むことができた。

 だが、セフはどうだと言うのか。セフにとって、幻はあまりにもむごい光景ではないのか。

「カケイ様、」

 ヒスイの追求をたずして、セフ本人が口を開いた。

「わたしも……質問をさせてください」

 視線をセフに向けるのみで、カケイは言葉を発しない。それでも三人は、カケイが質問を拒んでいるわけではないと言うことを感じ取っていた。息を殺して様子をうかがっていたエバが、そっとセフに寄り添うと、その手を握り締める。

「ダォシは……ヒスイのお母さんを殺したとしたら……そのあと、何をするつもりだったのですか?」

「ヒスイを殺していただろう」

 エバの手が硬直する。

「ヒスイを殺して、イェンを殺して、キスイを殺していただろう」

「どうしてですか?」

 ヒスイが考える以上に、セフは落ち着き払っていた。答える間際、カケイはヒスイを見つめる。

「ヒスイは“竜の娘”だからだ」

 “竜の娘”、その言葉が放つ魔力に、ヒスイも、エバも、セフも互いに顔を見合わせた。

 この言葉は、初めて聞いた言葉ではない。転日宮に忍び込んだ際、サイファが何度も繰り返していた言葉だ。

 野鳥の鋭い鳴き声が、銀台宮の向こう側から聞こえてきた。鳴き声は一回きりで、それの他に音は無かった。

「カケイ様、」

たまらず、エバが三人の会話に割って入った。

「ヒスイが“竜の娘”だというのは、どういうことですか?」

「――この世界が七十年前、勇者によって平定されたのは知っているね」

「ええ……カケイ様と、サン様と、ヒスイのお母さんが一緒になって暗黒竜を倒した、って」

「暗黒竜が何者か、君たちは知っているかね?」

「それは……」

 エバは言いよどんだ。しかしヒスイには、カケイが暗示を暗示したいのかが分かった。

「暗黒竜なんて居ないんですね?」

「そうだ、ヒスイ」

「えっ? でも……」

 エバが視線を泳がせ、足を組みなおした。茶碗を握るエバの右手の指が、せわしなく動いている。

「ちょ、ちょっと待ってください。分からないです、どういうことなんですか? だって――」

「私も、サンも、イスイも、暗黒竜などというものは相手にしなかった。あれはサンが作り上げた神話だ」

エバに答える代わり、カケイは静かに語りだした。“神話”という言葉の醸し出す迫力に、ヒスイは俯いて唇を噛む。閉じたまぶたの後ろ側が、赤黒く光っているような気がした。

「エバ……君は天叔偉テンシュクワイの伝説は知っているね?」

 ヒスイの思わくとは別に、カケイの問答は続いている。

「はい……幼い頃、学童で学びました」

「もし暗黒竜が嘘の神話で、その天叔偉の神話が真実だとしたら、どう思う?」

「それって……」

「この島が、“スワイ”の亡骸だという話ですか?」

 エバが答えるより先に、セフが問い質した。

「その通りだ、セフ。スワイは死に、その身体は土に還った。しかしその魂は不滅だった。その魂を受け継ぐものが、ヒスイの母親だ」

「“魂を受け継ぐ”……ですか?」

 耳慣れない単語を、エバが訊ね返す。

「受け継いだら……どうなるんです?」

「心を支配することは、身体を支配することと同じだ。人間は心持ち次第で、その身体を思う方向へ動かすことができる。イスイは……いや、イスイとサンはそれを狙っていた。二人ははじめから、“竜の魂”を狙っていたのだ。この島を、この世界を瞬時にして作り変えてしまうことができるほどの、強烈な魔力を持った“竜の魂”をね」

「でも……」

 と、エバは途方にくれた表情でヒスイを見返した。いきなり言われても、容易には信じがたい話である。

 しかしヒスイは先ほどの幻を見た。そして幻の中で、おぼろげなイスイの実体を見た。イヲが超人ならば、イスイはまぎれもない超常だった。

あれを見せ付けられた以上、ヒスイは“竜の魂”を信じざるを得ない。

「“竜の魂”を巡る最終決戦に勝ったのがイスイだ」

 話を締めくくると、カケイもまたヒスイを見つめなおした。

「ヒスイ、君が生まれたのはその後、つまり君は正真正銘の竜の娘なのだ」

――“私という親にして、あなたという子供”

 ヒスイの脳裏を、竜の島に古くから伝わる諺がよぎる。イスイという竜にして、ヒスイという“竜の娘”。

「でも……だとしたら、どうしてキスイが私に敵対するのですか?」

 顔を上げ、ヒスイはカケイに訊ねる。ヒスイだけが、“竜の娘”たるわけではない。

「キスイが私を狙う理由なんて、存在しないはずです」

「イスイがこの世界を滅ぼそうとしたら、ヒスイ、君はイスイに刃向かえるかね?」

 答える代わりに、カケイが質問を返した。カケイの口調は終始穏やかで、かつ楽しげな印象だった。

「私は……闘えます」

 ヒスイは厳かに、カケイに告げた。エバもセフも、ヒスイに強い眼差しを注いでいた。ヒスイの覚悟はゆるぎないものだった。闘うことを宿命付けられているがゆえに、ヒスイはずっと予章宮という箱庭で育てられていたのだから。

「フフフ……」

 その言葉に、カケイが微笑する。

「キスイも君と同じことを言っていたのだよ」

「キスイが……?」

「そうだ。七十年前に、イスイは今の“竜の島”を作り上げた。だがそれを、イスイは滅ぼすことに決めたのだ」

 すぐに言葉が出ず、四人の会話に間がよぎった。

「“滅ぼす”? 何のためにです?」

 我慢できず、エバが問い返す。しかしカケイは、静かに首を振るのみだった。

「私には分からない。イスイを分かったつもりになるのは、イスイを分からないと言うのと同じだからだ」

 寓話めいた口調でそう答えると、カケイはエバの茶碗に茶を注ぎなおした。

「ただ、そんなイスイにキスイは刃向かった。そしてイスイは、キスイに交換条件を出したのだ。もしキスイがこの“竜の島”を理想郷に作りかえられたのならば、イスイはこの世界を滅ぼさない、と。ヒスイ、君はイスイに残されたこの世界の一部。つまりはキスイに改変されるべき対象なのだ。もし理想郷の実現のために、キスイが君を邪魔だと判断したのならば――」

「そんな……そんなの理不尽じゃないですか!」

 差し出された茶を受け取る前に、エバがいきり立って立ち上がった。エバの鋭い声に、セフは思わず仰け反っている。一方のカケイは座ったまま、静かにエバを見つめ返していた。

「エバ、落ち着いて。大丈夫よ? まだ私死んでないんだから」

 笑みを零しつつ、ヒスイはエバの服の袖を引っ張った。悲痛な視線を投げかけていたエバも、ヒスイにうながされて座りなおした。

「理不尽、か」

 顎に手を当て、カケイは考える仕草をしている。

「そうかもしれない。世界は理不尽に満ちている。ヒスイがイスイの娘であるのも偶然。そしてそれも理不尽なのかもしれない」

 イスイとキスイに、ヒスイは思いをはせる。会ったこともない自らの母親に、存在したことさえ知らなかった自らの妹。

しかし、二人はヒスイのことを知っている。

 ヒスイは“竜の島”に生まれ、キスイは地球に生まれた。どうしてイスイはそのような選択をしたのか? なぜ二人をイェンに預けようと考えなかったのか? よりによってヒスイだけ。

 その理由はヒスイにも分からない。だがそのことの意義は、ヒスイにもよく分かった。イスイの作り上げた“竜の島”という箱庭に、イスイの生み出した“竜の娘”。逆に言えば、それだけヒスイは優遇されていたということにもなる。正しきピースが、正しきジグゾウの中に納まっていた。

 だが、キスイはどうだったのか。同じイスイの娘でありながら、キスイはずっと疎外されていた。地球という異空間の中で、自らの存在を姉に認知されぬまま、それでいて自らは姉をよく知り、姉の世界を見て、それにおびえ、それに憧れ、胸を締め付けられるような思いを堪え続けてきたのかもしれない。認知されることのない一方的な眼差しを常にヒスイに送り続け、そうしてキスイは狂い続けていたのかもしれない。

「私も……」

 考えのまとまらぬまま、それでもヒスイは言葉を発した。

「私もキスイも、イスイの娘。イスイは私とキスイとを闘わせるように仕向けている。でも……」

 それっきり、再びヒスイは押し黙ってしまう。このまま行けば、近い将来にヒスイとキスイは対峙するだろう。どちらかが敗れ、どちらかが勝つ。しかしその結果は、すべてイスイの手の内。

(ならばイスイと闘うのか?)

 それもありえる。だが何のために闘うというのだろうか? “竜の島”を滅ぼさせないために? それならば、キスイと闘う必要はまったくない。キスイと共闘して、イスイを倒すことだってできるかもしれない。

 でも、だとしたらキスイのこれまでの行為には何の意味があるのだろうか? そもそも世界計画の序盤で、キスイは自らの存在をヒスイに打ち明けることだって充分できたはずなのだ。なぜそれをしなかったのか? ――それはやはり、キスイはヒスイと闘うつもりだからなのだ。そうでなければ、キスイはここまで破壊の限りを尽くさなかっただろう。

 ならば、ヒスイが取るべき道は一つしかない。

「でも、私はキスイを知らないといけません。カケイ様、私は……キスイに会いに行きます」

「そうか、ヒスイ……それが君の答えだね?」

「はい」

「ならば……私は止めまい。キスイに会うために、私も準備をしてあげよう。それから――」

 と、カケイはエバとセフを見つめた。見つめられ、二人とも背筋を伸ばす。

「エバ、セフ、君たちに少し話をしたいことがある。ヒスイ、すまないがしばらくの間席を外してくれないか? 二人に関わる大切な話だから」

「はい。分かりました」

 ヒスイは席を立った。床に転がったお面を脇に抱えると、二人に手を振って微笑む。

「ちょっと川原にいるわね、私」

「うん、分かった――」

部屋を出て行ったヒスイの背中を、エバは見送る。


「カケイ様、その、話って何ですか?」

 扉が閉まってから、セフがカケイに訊ねた。

「ヒスイのことだ」

 その言葉は、妙に重々しかった。嫌な予感に襲われ、二人とも軽く拳を握った。

「転日宮へ戻ったとき……」

 ため息をつくように、カケイが話を始めた。

「それがヒスイの死ぬときだ」

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