第88話:木に寄りて魚を求む

「どこ?! どうして?! なんで?!」

 セフの必死な声が、ヒスイの耳にも届いてくる。あまりにも強くセフが掴んでくるので、ヒスイの右腕は痛い。

「ヒスイ、これって――」

「しっ! セフ、落ち着いて」

 強い語気で、ヒスイはセフを叱咤する。だが「落ち着いて」の言葉は、ヒスイ自身にも半分向けられていた。視界はよどみ、平衡感覚は揺らぎ、どこにいるのかあやふやな状態が続く。

 ヒスイは右手に力を込め、セフの手を握った。セフもその手を握り返す。いつしか視界の揺らぎは消え去り、二人の眼前に建物が姿をあらわした。

「ここは……?」

 セフは不審げに、周囲を眺め回している。白い壁に、青いタイルの張り巡らされた、“竜の島”ではあまり見かけない構造の建物だからだ。しかしヒスイは、ここがどこなのかよく分かっていた。ここは予章宮の廊下にあたる。――それも、自分の居室にかなり近い。

「予章宮よ、ここは」

「予章宮?!」

 ヒスイの台詞に、セフは目をみはった。

「でも、どうやって――?」

 更に何かを言おうとしたセフだったが、突然口ごもった。廊下の向こうから、足音が近づいて来たからだ。

「セフ、大丈夫よ」

 身構えるセフを、ヒスイは手で制した。だんだんと、ヒスイにも状況が掴めてきた。

「これはたぶん、私の記憶の中だから」

「記憶?」

「そう。カケイさんが、私の記憶を追体験させているの」

 それっきり、ヒスイは押し黙ってしまう。おそらくこの日は、ヒスイがちょうど記憶を失った日のことだろう。いやもっと正確には「失わされた」と言ったほうが正しい。

そうであるなら、記憶を奪いにきた人間がここまでやって来ることになる。

 そして、その人こそイスイ。

「ヒスイ?」

 動揺するヒスイを見て、セフが不安そうに訊ねる。

「どうしたの?」

「イスイが――」

 しかしそれ以上、ヒスイは言葉が出なかった。廊下の曲がり角から、何者かがやって来る。

 その光景に、二人は息を呑んだ。

 何者かが人間であるということは、辛うじて分かる。“足のようなもの”が、何者かの“体のようなもの”から生えている。

 ただし、何者かの全身は光に包まれていた。目を刺すほどではないにしろ、廊下に灯る蝋燭より強い光だ。光のせいで、何者かの姿はおぼろけになっている。色を変え、揺らぎつつ、何者かは輪郭を透き通らせていた。

 廊下を渡り、何者かはゆっくりとヒスイたちのもとへ近づいてくる。ヒスイもセフも、神秘と幾何の中間にいる何者かの姿に釘付けにされていた。

 廊下の中腹に到達すると、何者かの体から腕が伸びた。ドアノブを掴み、部屋へ侵入するらしい。

(私の部屋だ)

 ヒスイの手が、汗で湿る。そのとき。

「ダォシ……」

 絞り出すような声を、セフの喉が発した。

「え?」

 思わず口走ると、ヒスイは視線をセフに寄せた。セフの目にはもう、光り輝く人間の姿は映っていない。廊下のはるか奥を凝視したまま、セフは凍り付いてしまっている。

 金瓶梅の姿が、そこにあった。セフの師匠にして、十二国従の一角――金瓶梅魚ジムペイバイイヲが、廊下の彼方から白い何者かをにらんでいる。何者かの放つ光を受け、イヲの黄土色の衣も光り、緑色の髪も輝いて見える。

(この髪、この格好――)

 示し合わせたように、ヒスイの頭が痛みに軋む。

「ううっ……」

「ヒスイ?!」

 よろめくヒスイに、あわててセフは肩を貸す。

(そうだ、カケイさんの言ったとおりだ)

 地Qで執拗にヒスイを追いかけていた異形――その正体がイヲなのだ。

(でも、どうして?)

 白い何者かの動作が止まる。どうやら何者かも、イヲの存在に気づいたらしい。再び揺らめくと、何者かはイヲの方角へ向き直った。

 相手に怯むことなく、イヲは刀を抜き放つ。目にも止まらぬ、瞬間的な抜刀だった。

 ヒスイは喉を鳴らし、様子を見守った。さすが十二国従の一員だけある。剣で勝負をすることになったら、ヒスイなど一たまりもないだろう。

 しかし現実には地Qで、イヲは異形と化してしまっていた。そうである以上、この何者かと闘い、イヲは負けていなくてはならない。その瞬間を今、ヒスイたちは垣間見ているのだ。

 イヲが一歩を踏み出す。そして次の瞬間にはもう、白い何者かに刃を振りかぶっていた。

(えっ――?)

 恐るべきイヲの速さに、ヒスイは動揺する。イヲが間合いを詰めるのに、まばたきするほどの時間さえたっていないだろう。ヒスイだって動体視力には自信がある。そんなヒスイですら、イヲの動作を見逃したのである。

 長刀が高く振り上げられる。イヲの左肘がしなった。イヲの太刀が、白い何者かに牙をむく。太刀の刃先が、白い何者かに食い込んだ。

「あっ……!」

 隣でセフが声をあげた。そのとき、

 がいん、

 という耳慣れない音が、予章宮の廊下を響き渡った。歯車と歯車とが、深くかみ合ってしまったかのような、鳥肌が立つ音だった。ヒスイの袖を掴む、セフの指の力が強まる。

 奇妙な沈黙が、白い何者かとイヲとの間に横たわっていた。こうなることは予期していなかったのだろう。イヲさえもがまじろぎ、太刀の柄から指を離した。

 深々と食い込んだ太刀は、相変わらず何者かの身体に刺さったままだった。切り口から体が裂けることもなく、血が流れることもない。

 がいん、がり、がり、がり……

 ふたたび、歯車同士が互いをかみ合うような音が響く。金属の擦れ合う不快な音とともに、太刀が何者かの身体に吸い込まれてゆく。それは岩塩が細かくすり潰されている音にも似ていた。

 ヒスイとセフが見守る中で、太刀は完璧に体の中へ飲み込まれてしまった。何者かに、苦しげな様子はない。

 丸腰のイヲに向かい、白い何者かは触角を伸ばした。触角の輪郭は次第に精度を増し、輪郭がはっきりしてくる。おぼろげな何者かの輪郭の中で、手の形だけが質感をともなって浮かび上がってくる。白くて細い、綺麗な指だった。

 それはイスイの手――。ヒスイはその手を凝視した。見つめていれば、何かが思い出せるような気がしたからだ。それでもヒスイの脳裏には、何のひらめきもなかった。

 開いた手を閉じ、“イスイ”がイヲを指差した。次の瞬間、白い一条の光が“イスイ”の指から放たれる。光は予章宮の暗闇をつんざき、イヲの右目を貫いた。

 決定的な瞬間だった。ヒスイの隣で、セフが声を殺しているのが分かる。イヲは仰け反り、強い力に揺さぶられて廊下の壁に激突する。床に崩れ落ちると、イヲは動かなくなった。

 “イスイ”が再び手を開いた。開くとまた、輪郭がかすんでゆく。どうやら“イスイ”は、自分の姿を自らの力で隠しているらしい。

 姿を揺らめかせつつ、“イスイ”は再び扉を掴んだ。そのまま、ヒスイの居室へと姿を消す。

「左手、だったね……」

「……えっ?」

 セフの言葉に、ヒスイは振り向いた。セフは目に涙を浮かべていた。それでもつとめて明るく、セフは振る舞っていた。

「ほら、今の手……左手だったよね? やっぱりヒスイのお母さんなんだよ。二人とも……同じ利き手で……」

 それ以上を言葉にできず、セフは額をヒスイの肩につけてすすり泣く。そんなセフに、ヒスイはかける言葉がなかった。自らを育ててくれた師匠の死を、セフは今まざまざと見せ付けられた。そしてその死は、ヒスイの母親によってもたらされた。セフだって覚悟はしていただろう。しかしこの現実は、セフの想像以上だったに違いない。

 ヒスイはイスイを怖れている。“イスイ”はイヲの命を奪った。そして地Qでイヲは、ヒスイの命を執拗に狙っていた。

 笑い出したくなってしまうくらい、奇妙な因果の連鎖だった。

 ヒスイの視界が、かすかに動く何かを捉えた。

「……見て!」

 張り詰めた声で、ヒスイがセフを促す。セフも顔を上げ、ヒスイが示す方角を見つめた。

 廊下の奥でうずくまっていたイヲが、指をかすかに動かした。それから少しずつ身をもたげ、苦しげに天井を見上げた。強烈な光に差されていても、まだ息があるらしい。

 懐から、イヲが何かを取り出した。イヲの手元を凝視し、ヒスイもセフも言葉を詰まらせる。

 イヲの手には、灰色の泥のようなものが握られている。ヒスイは一目見て、それが“竜の胚”であると分かった。

 左手を震わせながら、イヲが“竜の胚”を右目へ持ってゆく。イヲの右目の部分には、黒々とした穴が開いている。血は一滴も流れていない。惨さより、嫌悪のほうが勝った。まるで目だけが切り取られてしまったかのような有様だった。

 右目のくぼみに、“竜の胚”が吸い付く。傷口を狙い撃ちにして、一匹のヒルが食いつくような光景だった。張り付いた“竜の胚”に、イヲが悶える。歯を食いしばり、声を絞り出しているような様子だったが、ヒスイたちの下にその声は届かなかった。

 不意に、イヲが立ち上がった。肩をいからせ、全身を小刻みに動かしている。イヲの右腕が、ありえない方向に捻じ曲がる。捻じ曲がった右腕はふくらみ、黒ずみ、先端が二つにはじけた。“竜の胚”が、今まさにイヲの身体を食い破っているのだ。

「あ……あ……」

 隣でセフが嗚咽していた。だがヒスイには、そんなセフに構ってやれるだけの余裕がなかった。肥大化した右腕は幹のように太くなり、イヲの右手指はそれぞれが枝のように発達していた。親指が異様に太く、長く伸びている。

 地Qで出会った異形の姿が、今完全にヒスイの前に再現された。

 イヲの顔だった部分が、ヒスイたちの方角を向く。顔の右部分は“竜の胚”に呑まれ、新たな目を四つ形成していた。

 その四つの目が、ヒスイを見据えた。

 それまで安全な位置にいたはずのヒスイだったが、ふと戦慄に心臓が鷲掴みにされた。

(まさか……見られている?)

 ヒスイの予感は正しかった。身体に新たな武器を携え、イヲが二人の下へ近づいてくる。

「ヒスイ!」

 事の重大さに、セフも気づいたらしい。

「どうするの?!」

「分からない、でもとにかく――」

 後ずさろうと、ヒスイは右足を後ろに出した。しかし、その足は床に触れなかった。

「あっ――」

 ヒスイの隣で、セフも声をあげている。視界が反転し、肉薄してくるイヲの姿が、一気に遠のいた。三半規管が揺さぶられ、ヒスイもセフも暗闇の彼方へ落下してゆく。

「終わったんだ」

 ヒスイは呟いた。本当はセフに語りかけているつもりだったが、肝心のセフの姿はもうない。二人がそれぞれ別に、幻影から現実へ引き戻されている。

(終わった?)

 そして呟いている最中、ヒスイは自分の言葉に違和感を持った。理由は分からないにしろ、“イスイ”は一度ヒスイを訪ねにきている。そしてそんな“イスイ”を、イヲは狙っていたのだろう。

 そこまでは分かる。だがこのとき、ヒスイは自分の居室にいたはずなのだ。そうであるのだとするなら、今の一部始終は自分の記憶であるはずがない。

 それならば、今の光景はいったい誰の記憶だというのだろう。

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