「おいで、子供たち――」
悠然と去る孟然努羚を側目に見てから、改めてカケイが二人に告げた。
そのとき、
ぱあん、
という乾いた音が、のどかな銀台宮の空に突き抜けた。エバとセフは戦慄する。今の音は、紛れもなく銃声だった。
「今のは――」
「ヒスイだ」
二人が口をさしはさむ前に、カケイが説明した。その一言に、二人の脚がすくむ。
――ヒスイ殿が先に復活し、おふた方がそれに間に合わずにいることを、主はお望みでないでしょう――
ヒスイは生きている。紛れもない事実に胸が高鳴る反面、タミンの言葉が二人の脳裏をよぎった。
「どうした、子供たち?」
浮かない顔をしているエバとセフを、カケイも不思議に思ったようだ。
「カケイ様は、その……お怒りですか?」
顔色をうかがいながら、セフが訊ねる。
「私が? 何のために?」
「タミンが言っていたんです」
セフが口を開くより先に、エバが話を続けた。
「あたしたちは、ヒスイが復活するより前に銀台宮へ行かなくちゃいけない、って――」
そこまで言い終えると、エバは口をつぐんでしまった。
思えばタミンの言っていることはおかしい。エバの目の前で、タミンはヒスイの死体を光に変えて集めていた。それは「ヒスイの復活に必要だから」だ。
そんなタミンがエバたちと行動する以上、「ヒスイの復活に二人が間に合わない」なんてことはありえない。つまりタミンの言葉はどこかが嘘からできているのだ。それでは、何のために噓をついたのか?
「タミンはそんなことを言っていたのか」
ややあきれ返った口調で、カケイが呟いた。
「いろいろと言わねばならぬことが多いようだ」
「それじゃあ……タミンの言っていることは嘘、ですか?」
「エバ、逆にどのような理由で私が怒ると思うのかね?」
「それは――」
エバは言いあぐねる。タミンの言説を信じる要因は他にもある。イェンがためらったことなどは、その最たる例だろう。ただカケイを目の前にして、そうした例をあげつらうのは無駄な気がした。今、二人の目の前にいるこの大賢者が、烈火のごとく怒り狂うさまなどまるで想像ができなかった。
ぱあん、
ふたたび銃声が、木々の合い間に轟いた。
「タミンについては後で私から言っておく。――さぁ、それよりもヒスイだ」
カケイはそういうと、銀台宮の軋んだ扉を開ける。
魔術師の端くれである以上、エバは大賢者の部屋というものに興味があった。だがエバの期待とは裏腹に、銀台宮の内装は何ともつましいものだった。よく言えば整頓されている、悪く言えば物がまったくない。がらんどうなわけでもないが、少なくとも魔術的な道具はなかった。
「がっかりしたかね?」
「へ? ――い、いえ別に!」
「フフフ……」
必死になってとりつくろうエバに、カケイは優しく微笑みかけた。カケイがさっと右腕を払う。その動作に応じて、脇においてあった籐製の椅子が三脚、部屋の中央にまで運ばれてきた。
「さあ二人とも、ここに座りなさい。……どれ、私がヒスイを呼んでこよう」
カケイは二人を座らせると、部屋の置くにあったもう一つの扉へと向かった。建物の構造からして、中庭に面しているようだった。
「ヒスイ、」
扉を開き、カケイが奥に向かって呼びかける。
「こっちへおいで、お客様だ」
その言葉に、エバとセフは固唾を呑んだ。
芝生を駆ける音が、二人の耳元まで近づいてくる。と、突然、
「好好……あっ!」
泣きっ面をした赤い鬼の被り物が、ドアから顔を覗かせた。しかし角が扉の枠に引っ掛かり、お面を被っていた当人だけが部屋に転がり込んだ。
「いててて……」
「ヒスイ――」
お面が床にこぼれ、軽やかな音を響かせた。
涙目になって頭をおさえているのは、まぎれもなくヒスイだった。いても立ってもいられず、エバは椅子から立ち上がり、ヒスイの側へ寄る。茶色い髪、青い瞳に、無邪気そうな顔立ち。
「好好兒、エバ――」
そしてこの言葉。
「どうしたのよ、エバ? フフフ……」
エバはもう、ただヒスイに抱きつくしかなかった。今までの苦しみや、憎しみが、すべて波のように退いてゆく気がした。ヒスイの心臓の鼓動が、エバにも伝わってくる。ヒスイは、勇者の娘は生きている。
ヒスイの腕を撫でて、エバはヒスイの指を掴もうとした。それができずに視線を這わせ、エバは目を見開いた。
「うそ……?」
ヒスイの左手を握り、それを目線の高さまで持ち上げる。
「ヒスイ、その指……」
二人を呆然と眺めていたセフも、思わず声をあげた。
ヒスイの左手には、小指と薬指がなかった。叩き切られたかのようななまなましい傷跡が、ヒスイの左手に大きなあざを作っていた。
「えへへ、ちょっとしくじっちゃった」
「しくじった、って……」
おどけて舌を出すヒスイの一方で、エバはそんなヒスイの左手に、自らの両手を重ねた。
「なんで?! そんな……そんなことって!」
「大丈夫よ、エバ。……右手でも、銃くらい握れるわ」
「でも!」
銃の魔力は、ヒスイにも直接作用する。だからこそヒスイはグローブで左手を固めていたのだ。左手が使えない今、ヒスイは無防備のまま銃を使わなくてはいけなくなる。
「“そんなことよりも”、ね……」
エバの両手を穏やかに払いのけると、ヒスイはほほえみを崩さぬまま、二人に眼差しを送った。
「二人とも、ごめんなさい。……私のために闘ってくれて、ありがとう」
ヒスイの謝罪に、エバもセフも言葉に詰まった。
どういうわけか、ヒスイに謝られている。
ただ二人とも、その理由には薄々感づいていた。
「――見てたの?」
おそるおそる、エバが問いかけた。ヒスイは顔を上げると、静かに頷く。
所在なく、セフが顔を背けた。
エバたちが到着する遥か以前に、もうヒスイはこの銀台宮にたどり着いていたのだろう。そしてそれから、ヒスイはずっと二人のことを見ていたのだ。きっとカケイが手を貸したのだろう。
「ごめんね」
「――やめて」
エバが答えるより前に、セフがヒスイをさえぎった。
「謝られると……みじめになる」
重苦しい沈黙が、三人を苛んだ。こんな気持ちになるために、はるばるここへやって来たわけではないはずなのに。
「――さぁ、三人とも」
カケイが口を開く。
「今はもう話してくれるな。お茶をごちそうしよう」
身をひるがえし、カケイが台所へ近づいた。
「子供たち、話はそれからだ」
「話……ですか?」
エバが訊ねる。
「そうだ」
カケイが指を鳴らすと、炉に火が灯った。
「三人とも、私に聞きたいことがたくさんあるはずだ」
ヒスイが拳を握るのを、エバもセフも見逃さなかった。
三人の下まで、茶が運ばれてくる。立ち上る湯気が、三人の鼻をついた。
「さあ、どうぞ。二人とも、きっと疲れたことだろう」
「――いただきます」
碗を抱え、エバは口をつける。ほんのりと甘い茶が、喉の渇きを潤してゆく。
「さぁ……何について話そうか」
椅子に腰かけ、カケイはくつろいだ姿勢をとる。
「カケイさん、」
と、ヒスイが口を開いた。
「イスイのことを話す前に、キスイの話をしてくれない?」
「キスイ?」
はじめて聞かされる言葉に、セフが首を傾げた。
「ジスモンダのことよ、セフ」
「そうだ……!」
エバもセフも、顔を見合わせた。ジスモンダの企てについて、ヒスイに話をしなくてはならない。
「あのジスモンダってやつは――」
「……あれは私の妹よ」
言葉をすぐに受け止めきれず、エバもセフも口を開けたまま、ヒスイの瞳を見つめた。ヒスイがおどけていないと分かると、エバとセフは凍りついた。
そうだ、どうして気づかなかったのだろう。あれほど似ているのだから、姉妹であることを疑ってもよかったはずだ。
「信じられない……」
ただ、これがエバの率直な感想だった。ジスモンダがヒスイに似ているとはいえ、どうしても現実味は沸かなかった。ヒスイの親類が、イスイの他にもいるなんて。
「はじめは私も信じられなかった」
お茶を啜りながら、ヒスイが話を続ける。
「けどね、二人がここへ来る間、私も旅をしていたのよ。キスイについては、そこで知ったわ」
「旅って……どこに?」
身を乗り出して、セフが訊いてくる。
「チキュウだ」
ヒスイに代わって、カケイが話を継いだ。
「チキュウ……?」
どこかで聞いたような単語に、エバは眉をひそめた。それからふと、フスとのやり取りを思い出した。フスは自らを“転生者”だと名乗っていた。そしてそんなフスがかつていた世界こそ“チキュウ”だった。
「フスが話していたところ?」
「――そうよ」
ためらいがちに、ヒスイが答えた。それから左手を、二人の眼前につき出す。
「その世界で、指と、案内人を失ったわ」
ヒスイの口調は、悲痛そうな響きを伴っていた。
「そう……なんだ」
案内人とは誰なのか、エバもセフも知りたかった。だがヒスイに訊ねるのは憚られるような気がした。二人とも、フスを喪い自分を責めるヒスイのことを思い出したからだ。
「ヒスイ、あれは君のせいじゃない」
すかさず、カケイがヒスイに答えた。
「あの案内人は、自分の意思で君の案内をかってでたのだ。死ぬことも覚悟していただろう。――君がそれを気に病む必要はないし、ケメコだってそれを望むまい」
“ケメコ”という名の案内人は、タミンよりも非力だったらしい。だがタミンに比べれば、ケメコという案内人はなんと忠実だったのだろうか。
「ケメコのためにも、私は負けるわけにはいかない」
低い声で、しかし決然とヒスイは呟いた。その迫力に、エバもセフも無言のまま頷く。
「その……」
ややあってから、セフが口を開いた。
「カケイ様、一つ伺ってもよろしいですか?」
「いいとも。何についてだね?」
「わたしの……師範のことです」
ヒスイとエバは、互いに顔を見合わせた。お互いの脳裏に、僧正の発した最期の言葉がよみがえってくる。
――国従を探すのだ!
死の末期、僧正は確かにそう言った。国従、すなわち金瓶梅魚を探すのも、三人の冒険における目的の一つだった。
「カケイ様、わたしは――ダォシはもう死んでしまったと考えています」
セフの言葉に、ヒスイは思わず息を殺した。セフにとって、イヲはかけがえのない存在だろう。そんな自らの師匠の死を、実に淡々とセフは受け入れていた。
「ですが、もしご存知ならばお教えください、カケイ様。わたしのダォシが、どのように死んだのかを」
セフの言葉を聞き終えると、カケイは深くため息をついた。それから建物の天井を見上げ、何かを考える仕草をする。カケイが何かを知っているのは明らかだった。三人とも真剣な眼差しを、カケイの挙措に向ける。
「セフ、イヲは死んでなどいない」
その言葉に、セフは答えなかった。いや、答えられなかったのだろう。
「じゃあ、今どこに――」
「いや、難しい。生きているとも言いがたい」
呆気にとられているセフを尻目に、カケイはヒスイに視線をおくった。
「ヒスイ、君は地Qで、たびたび異形に襲われたはずだ。君の指を損なった異形のことを、忘れてはいないだろうね?」
「はい――」
そこまで答えたヒスイは、カケイの質問の意図を見破った。
「それが……まさか、その異形が?!」
「そうだ」
「でも、そんな……ちょっと待ってください!」
堪らずセフが悲鳴を上げた。
「ごめんなさい、カケイ様……でも、でもそんなこと言われても、わたし、その、どうすればいいのか――」
「セフ、落ち着いて」
思わず立ち上がったセフを、エバが必死で宥める。
「そうだろう……にわかには信じがたい話だ……」
カケイはしばらく思案げに顎を撫でていたが、やがて何かを思いついたらしい。
「ヒスイ、セフ。今から君たちに幻を見せよう」
「まぼろし、ですか?」
「そうだ。二人にとって大事な幻だ。ヒスイの喪った記憶と、セフの失われたダォシがそこにいる」
「それは……」
ヒスイが尋ねる前に、カケイが指を鳴らした。
「ヒスイ、これって――」
セフが不安げに訊ねる。だが、言葉の最後のほうは、ほとんどかすれ、聞こえなくなっていた。部屋にあるありとあらゆる物が色を失い、影を失い、質量までも失っているような錯覚に、ヒスイはとらえられた。立ちくらみを覚え、ヒスイはとっさに椅子を掴もうとしたが、やけに空気が重く感じた。
天井がヒスイにのしかかり、床がヒスイめがけてせり上がってくる。カケイの放った魔法が空間をゆがめ、ヒスイとセフを魔法の世界へ誘おうとしていることが、ヒスイにもようやく分かった。