第86話:生きた伝説

「――大丈夫だった?」

 ほとぼりがさめてから、エバはセフに尋ねた。

 その口調は半分、自分に対しても向けられていた。

「――うん」

 セフはしきりに頷いていた。まだ顔色が悪い。

「タミンは? 後ろの、後ろにいた化け物は?」

「タミンなんていないわ」

「えっ……?」

 言葉の真意を図りかね、セフは目を白黒させた。当然のことながら、それはエバも予期していた反応だった。

「いいえ。もっと正確に言うわ、セフ」

 段取りをつけて、エバは話し始める。

「確かにタミンはいたし、化け物もいた。でも……でもどっちかは幻影よ。タミンが化け物の幻影を作ったのかもしれないし、化け物がタミンの幻影を作ったのかもしれない」

 エバの差しのべた腕を、セフは掴む。二人とも立ち上がった。

「でも……何のために?」

「あたしたちは……試されてた」

 タミンの霊感に感化でもされたのだろうか。とにかく、今のエバは冴えわたっていた。

「ねぇセフ、あたしと離れてから河原で倒れるまでに、何かあったでしょ?」

 エバに訊かれ、セフは答えにつまる。それでもエバの強い視線につき動かされ、とつとつとセフは喋りはじめた。師匠の金瓶梅ジムペイバイに鉢合わせたこと。そして追いかけられ、切り刻まれたこと――。

「そうか」

 話すうち、セフにもだんだんと事情が掴めてくる。

 要するに、あの金瓶梅の奇行ですらも、タミンの捏造した幻覚なのだ。

「セフ、あたしこれまでずっと酷い頭痛だったのよ」

 憤るセフをなだめるように、エバも話を継いだ。

「姉さんに――リリスに追いかけられる夢ばっかり見ててね。今思えばそれも、タミンの仕業だったに違いないわ」

 霧深い山の中で、先も見えず、あても知れず、二人はひたすら迷い、浮き足だっていた。――タミンにとっては格好の場所だっただろう。

「でも……だとしたら、これからどうするの?」

 釈然としないまま、それでもセフは訊き返した。もしタミンの行動がすべて、二人を“喰う”ためだけのものだったとしたなら、今までのふるまいはすべて嘘だということになる。つまり銀台宮などは存在せず、もしかしたら……ヒスイは復活などしないのかもしれない。

 しかしエバはかぶりを振った。

「いいえ、大丈夫よ。このまま行きましょう」

 その言葉に、改めてセフはまじろいだ。

「『行く』って言っても、だって、場所だって分からないのに……!」

「じゃあ、どこへ戻るわけ?」

「それは……」

 エバに質され、セフは言いあぐねた。すでに山中を錯綜し、ここがどこなのかさえ分からなくなっている。なるほど進むあてはないだろう。しかし戻る道筋すらはっきりしていないのだ。

 しょせん進退は同じである。ならば歩くしかなかった。


 道なき山中の湿った土を踏みしめつつ、二人は真っ直ぐに歩いてゆく。

 エバもセフも、終始無言だった。どこへ辿り着くか分からない今の状況は、直接二人の関係にも当てはまっていた。

 二人の間を遮っていた、分厚い心の垣根はもうない。だからといって、二人が目的を一にしたわけでもない。

 そんな二人を、ヒスイの存在が繋ぎとめている。

「待って」

 半歩ほど先を進んでいたセフが、立ち止まってエバに合図する。セフの鋭い視力が、霧の向こうにいる何かを捉えたらしい。

「近づいてくるよ……どうする?」

 とは言いながら、早くもセフは氷霜剣を構えている。エバもタクトを握り締め、様子をうかがった。

 霧の中から、何者かのシルエットが浮かび上がってくる。霧を受けて七色にきらめく、鮮やかな長い体毛、放射状に広がった、たくましい、幹のような角。

 銀台に棲むといわれる聖獣、孟然努羚マウレンチュグリだった。

「すごい……」

 その優美な姿に、二人とも息を呑んだ。氷霜剣をしまったセフの下に、マウレンチュグリは頭を近づけてくる。

おっかなそうにしていたセフだったが、マウレンチュグリの角の付け根を撫でてあげた。青い瞳を細め、マウレンチュグリは嬉しそうだった。

 聖獣の人懐っこい様子を見ていたエバも、以前の記憶を反芻していた。マウレンチュグリに出くわしたのも、思えば今回が初めてではない。デンシャで国師廟へ向かう最中、山の向こうにいるマウレンチュグリを、エバはヒスイと一緒に見ていた。

「ねぇ、あなた……」

 膝を曲げ、マウレンチュグリの正面をエバは覗き込んだ。聖獣と、エバとの瞳が交錯する。話など出来ないことは分かりきっていた。それでも訊いてみたい気持ちを、エバは抑えられない。

「もしかして、カケイ様の居場所を知らない?」

 “カケイ”と言ったとき、この聖獣が笑ったようにエバには見えた。マウレンチュグリは答える代わりに、悠然と向きを変え、もと来た道を戻り始める。それから後ろを振り返り、またもう少し前へと進んだ。まるで二人を相手に、

「着いて来い」

 と言っているようだった。

 マウレンチュグリに連れられて、二人は山の中を歩き続ける。

 山の勾配は次第に上がりつつあった。マウレンチュグリは霧をものともしないが、エバとセフはそうもいかなかった。

 二人が慎重に坂を登っている際には、先を行くマウレンチュグリは歩みを止め静かに二人を見守っていた。二人が登りきるのを待ってから、マウレンチュグリは再び歩きだすのである。

 やがて突然、山の霧が晴れる。

「霧が……」

 最後尾にいたセフが、感慨深く呟いた。

エバも同じ気持ちだったが、息が続かず、押し黙ったままだった。

 それはそれは、不思議な場所だった。先ほどまでの山中とは似ても似つかない、穏やかな場所である。空からは日差しが降り注いでいる。周囲の草木は照らし出され、色を濃くしていた。どこからか、水のせせらぎも聞こえてくる。近くに川があるようだ。

 エバはふと、予章宮の付近を思い出した。ここの光景は、まるでまったく予章宮と重なる。

 マウレンチュグリが先を進む。光景に見とれていた二人も、そのあとに続いた。芝生には細い道が続いている。

 エバとセフは、お互いに顔を見合わせる。道がある以上、人が近くに住んでいることになる。

 それはとりもなおさず、大賢者のカケイが近くにいるということだ。

 小川に掛けられた小さな橋を渡る。その向こうには花壇が広がり、奥には建物が見えた。

「ここが――」

 今度こそエバも呟いた。目の前にある建物こそ、二人の探し求めていた銀台宮だろう。

 しかし二人の想像以上に、建物はこじんまりとしていた。石壁のあちこちには亀裂が走り、そこを蔦が這っている。心なしか、右へ傾いているようにも見えた。

「エバ、この建物――」

 緊張した面持ちで、セフが口を開いた。

そこまで言われ、エバもあることに気づく。こんな様式の建物は、竜の島にない。

 下天で見た塔の一部と、建物は似かよっている。

「――あぁ、ありがとう。さぁ、おいで……これを食べなさい」

 第三者の声を聞きつけ、エバもセフも身構えた。マウレンチュグリは、二人のずっと前方にいる。頭をかがめ、何かを漁っていた。

 どうやら、声の主から餌をもらっているらしい。

 マウレンチュグリの巨体に阻まれ、声の主の姿は見えない。しかし、声の主が自らエバたちの方へやってきた。

「――はるばると歓迎ようこそ、二人とも。そしてはじめまして」

 深い、静かな声で主は挨拶をした。

「あなたが……」

「そうだとも、魔術師の娘。――私がカケイだ」

 声の主――夏瓊カケイはそう答え、にこやかに微笑む。カケイはすらりとした出で立ちで、白のローブをまとっていた。

 この人こそが伝説の大賢者・カケイ。ヒスイの親を知る、数少ない人物の一人。

「あの……」

 そう言ったきりで、エバは次の言葉が出なかった。訊きたいことは山ほどあったはずである。ヒスイはどうしたのか、タミンはどうしたのか、そしてあなたが本当にカケイなのか――。

 しかし現実にカケイと出くわし、エバの頭の中は真っ白になってしまった。

 ただしそれは紛れもなく、カケイが本物であるという証拠だった。そうでないとしたら、カケイの持つオーラをどう説明すればよいのだろう。

「フフフ……」

 しゃちほこばっている二人の様子に、カケイも気づいたらしい。エバに近づくと、カケイはその手を握った。

「エバ、この私が怖いかね?」

「いえ、その……そんなことは……」

 手を握られ、エバは浮き足だつ。だがそれも一瞬のことで、すぐさま心が落ち着いてきた。

「その……あたしたち、ヒスイに会いに来たんです!」

「そうだろう。私もよく知っているよ。タミンをそっちへ向かわせたはずだ」

 “タミン”の言葉に、エバもセフもどきりとする。

「タミンとは……その……」

 セフが口をはさんだ。タミンとカケイとの関係がいまいち分からない。ただし、タミンが言うほどカケイは残酷でないだろう。これはもう、二人にとって間違いのないことだった。

「途中で、はぐれてしまって」

「――タミンは隠れるのが上手だからね」

「えっ?」

 エバが訊こうとした矢先、

「タミン!」

 と、カケイが声を張り上げた。声の矛先は、エバとセフのはるか後ろに向いている。

 声のかけられた方角に、エバもセフも目をやった。誰もいないはずの花壇の花々が、不思議なゆらめき方をする。それに続いて、突然タミンが姿をあらわにした。

「主よ、私はここにおります」

 タミンは漂然と言ってのける。二人の冷たい視線など、まるで意に介していないようだった。

「タミン、君は私が頼んだ以上のことをやってのけようとしたな?」

 幾分かあきれ返った口調で、カケイがタミンに問うた。その口調には、非難の念もこもっている。

「決められた未来を決められた未来にするため、過去を歩むのは必然です、主よ」

 悪びれた様子もなく、タミンはカケイに言葉を返した。それから突然身を翻すと、花壇を抜けて遠く離れていった。

 このときようやく、エバはタミンの変化に気づいた。タミンは確か草履を履いていたはずだった。ところが今やその脚には、ひづめが生えている。

(人間じゃないんだ)

 この期に及んで、エバは唇を噛んだ。とんでもない相手に連れられて、二人はここまでやってきたことになる。

「どこへ行くのだね、タミン?」

 背中を見せるタミンに、カケイが訊ねた。

「主よ、少し山を巡ります。客人のために山菜でも摘みましょう」

 言い終えると同時に、タミンの姿が見えなくなる。姿を消したのか、遠くへ転移ワープしたのか、エバには分からなかった。

「タミンの言葉を信じよう」

 特に感慨もなく、呟くようにカケイは言った。

「さぁ、子供たち。こちらへおいで。道中は長かったに違いないから――」

「カケイ様、その――」

 扉まで案内しようとするカケイに、セフが訊ねた。

「あのタミンという子は、何者なんですか?」

「――タミンという“子”か、フフフ……」

 セフの質問に、カケイは肩を震わせて笑った。

「セフ、君にはタミンが子供に見えるかね?」

「えっ?」

 返された質問に、セフは目を細めた。

「……私には、子供に見えます」

 それからセフは、同意を求めるようにエバにも視線をやる。エバも頷き返した。

「そうか。タミンが今の言葉を聞いたら、きっと喜んだことだろう」

「……カケイ様とタミンとは、どのような関係なんですか?」

 今度はエバが質問をした。

「タミンは、『自分はカケイ様の弟子だ』と言っていましたが」

「うん? フフフ……。まぁ、私がタミンに飼われている、といったところかな」

 答えの意味が分からず、二人とも目を泳がせる。カケイとタミンとの関係が、ますます謎になってゆく。しかしそれ以上のことを尋ねるのは、なぜか憚られるような気がした。

 いずれにせよ、カケイが銀台宮の主であることに間違いはなさそうだ。

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