第85話:獲物

 胸ぐらを誰かに掴まれた気がして、エバは死に物狂いで飛び起きる。

「誰ッ?!」

 胸を両手で押さえ、エバは周囲を確認する。だが、辺りには誰もいない。エバのこめかみを汗がつたった。

 どうやら、ただ幻覚を見ていただけのようだった。

(夢か……)

 周囲の安全を確認し、エバは胸を撫で下ろす。早鐘のように揺り動かされた鼓動も、次第に落ち着きを取り戻してきた。

 と同時に、エバはあることに気づいた。そう、つい今しがたまで眠っていたのである。

(リリスが来なかった)

 それはとりもなおさず、リリスがエバの夢に干渉しなくなったということだ。しかしなぜだろう? あれほどしつこくリリスの夢を見ていたというのに。今のエバには、その原因が突き止められなかった。

 そして、どのくらい眠っていたかも分からない。だがとにかく、今は以前よりも軽い心地だった。現実以上にむごい夢だったのに、それでもどことなく、エバは吹っ切れることのできた気がした。

(ヒスイを助ける)

 それが今の目標だった。いや、これからの目標であるのかもしれない。それ以外の難しいことは考えない。今の三人は――エバと、ヒスイと、セフの三人は、揃っていなくてはならない。それがエバの答えだった。

(ここはどこだろう?)

 ゆっくりと立ち上がると、エバはもう一度辺りを見渡した。霧で視界は利かない。加えて人の気配もしない。

「タミン……?」

 恐る恐る、エバは案内人の名前を口に出した。声は霧に紛れ、タミンの現れる気配もなかった。所在なくしていたエバだったが、不意に強烈な寒気が背筋を這った。

(何だ……?)

 自らの感覚にエバは取りすがる。エバの第六感が、何かを敏感に察知していた。怖気を感じるときはだいたい悪い予感だったし、それも高確率で的中するのだ。

 立ちすくんでいたエバは、ふとある方角へ無意識に向き直る。

 エバの第六感が、

「そちらへ進め」

 と言っていた。それと同時に、セフの画像イメージがエバの脳内をよぎる。

(行かなきゃ)

 エバは背嚢ランドセルを背負いなおすと、迷うことなくそちらへ駆け出した。もう頭痛は止んでいる。いつもより早く走れる気がした。


 霧の中を駆けるエバの耳に、小川のせせらぎが聞こえてくる。こんな霧深い山の奥でさえ、川というものは流れているようだ。

 さいわい、川の周囲は低い灌木のみで、今までの場所よりも見通しが良い。

 川べりまで来ると、エバは必死になって心当たりの原因を探す。やがて川の対岸で、エバは目的の存在を見つけた。

「セフ!」

 思いがけず声が大きくなる。対岸で倒れ伏しているのは、他ならぬセフだった。両手は岸辺の砂利を掴み、両脚は川の中へ投げ出されている。辛うじて川を渡りきり、そのまま精根尽き果てたようだった。

 居てもたってもいられず、エバは川の中へ足を踏み入れようとする。だが水底はよく見えず、砂の粒は細かかった。脚を取られそうになり、慌ててエバは右足を砂から引っこ抜く。

 エバは瞳を凝らして、セフの表情をうかがった。はっきりとは分からないが、苦悶の表情を浮かべている。何より血色が悪い。あまりうかうかはしていられないだろう。早くセフを介抱しなくてはならない。

(どうしよう?)

 川を渡る手立てを、懸命にエバは探した。川幅の浅くなっている箇所があればよいのだが、エバには見当がつかなかった。

 と、そのとき。エバの視界に細長い木の枝が飛び込んでくる。

(これなら……)

 とエバは駆け寄り、その枝を掴んだ。箒の要領で跨ると、エバは感触を確かめてみる。これならば、辛うじて川くらいは跳び越せそうである。

(よし……!)

 覚悟を決めると、エバは諸手もろてで枝を握りしめる。しょせんはただの枝である。うっかりすれば、川の真ん中でひっくり返ってしまいかねない。気を落ち着け、エバは自身の魔力を解放する。エバのかかとが浮き、爪先が地面を離れた。

 歯を食いしばり、エバはゆっくりと“箒”で川を渡る。笑ってしまいたくなるくらいの低空飛行だった。動作は緩慢だったが、それでも着実に対岸まで近づく。

 対岸へたどり着くと同時に、脚で挟みつけていた“箒”が急旋回した。堪らずエバは“箒”の柄を放し、岸へ転げ落ちる。落ちた拍子に脛を打ち、おでこを石にぶつけた。“箒”は川の中へ落ち、浮き沈みしながら下流へと流れ、見えなくなる。

「いたた……」

 涙目になりながらも、エバは立ち上がる。傍らにいるセフの肩を、そっとエバは揺り動かした。

「セフ……?」

 セフは動かない。

「セフ大丈夫なの? お願い、返事して!」

「う……ん?」

 エバの言葉に呼応して、セフは身じろぎをした。セフの瞳が見開かれ、エバの姿が映りこむ。

「……うわっ?!」

 瞳の焦点が合うやいなや、セフはのけぞりエバから離れた。それからしきりに自分の肩を触ると、何かを必死になって探っている。

「……斬れてない?」

「どうしたの……?」

「エバ……わたし、夢でも見てるのかな?」

 すがるようにして、セフはエバに訊ねる。この期に及んで、セフの顔が妙にはれぼったいことに、エバも気づいた。きっとセフは、気を失いながらも泣いていたのだ。

「――あたしだって、今しがた夢から醒めたばかりよ?」

 ただ改めて問われると、エバも生きた心地がしない。

「変な質問しないでよ」

 思わずそう言ってしまってから、エバは言い過ぎたと思った。

「ご、ごめん――」

 それでもセフは素直に謝った。それから二人とも黙りこくる。どうしていいのか分からなかった。二人とも自分のことを「不器用だ」と考えた。思えばあんなに激しく言い合ったのも、二人にとってははじめての経験だった。転日宮へ戻ろうとするセフに、エバはまだ我慢ならなかった。それに対し、自分に内緒でヒスイと逢瀬していたエバを、セフもまた見過ごすことが出来なかった。

 でも今は二人とも、大切なことに気づいていた。すべてのことは、ヒスイがいなければ何一つ解決しないのである。

「あのね――」

「えっと――」

 意を決して話しかけたエバの声に、たどたどしいセフの声が重なる。

「……なに?」

「ううん。何でもない……エバから、どうぞ」

 そう言われたあとで素直に謝罪するのは、エバにとって難しいことだった。口の先まで出かかっていた「ごめん」の言葉が、喉の奥底へ沈んでゆく。

「セフ、」

 しばらく間を開けてから、それでもエバは口を開いた。

「無駄なことは言わないわ。あたしは一つだけ言って、一つだけ訊ねる。あたしはヒスイを助けに行くわ――これが一つ目。セフ、――あなたはどうするの?」

 ……

 ……

「セフ、あなたはどうしたいの?」

 ……

 ……

 セフは唇をかんだ。セフにとっては重たい質問だった。ただセフがどう答えようとも、エバは必ず銀台宮まで行くだろう。

「わたしは……」

 答えようとしたセフ、答えを待つエバ。

――ザッ、ザッ。

 そんな二人の耳に、何者かの歩む音が聞こえてきた。

「今のは――?」

「シッ!」

 口を開きかけたエバを、セフは必死になって制した。音の在り処へ一歩踏み出すと、セフは吹毛刀を抜き放った。放たれた吹毛刀は霧を受け、まだらに輝いている。

――ザッ、ザッ。

 灌木を抜け、砂利を踏みしめ、霧の向こうから人影が姿を見せる。――金瓶梅ジムペイバイイヲだった。緑の髪をなびかせ、うずくまる二人を凝視したまま、イヲは悠然と近づいてくる。

「どうして……?」

 エバは半信半疑といった様子だった。それでもみなぎる殺気に、エバは後ずさるしかない。

 目にも止まらぬ早さで、イヲが抜刀をする。細い刀身が霧の中を浮き沈みする。口をひん曲げ、イヲは哄笑した。さながらヘビのように、舌を口から出している。

「セフ……?」

 脇で吹毛刀を構え、セフが立ち上がった。相手はセフの師匠である。しかし、イヲに対するセフの態度は決然としていた。

師範ダォシ、それ以上寄らないでください」

 弟子に制されても、イヲは何一つ言葉を発しなかった。その代わり、大げさに首を傾げてみせる。まったく直角に近い首の傾げ方だった。ただならぬものを感じ取って、セフもエバも嫌悪の念を覚える。

 イヲが一歩近づく。

「ダォシ!!」

 恐怖のためか、哀切のためか、セフの叫びはかすれていた。イヲがまた一歩近づく。振り上げられた太刀は、真っ直ぐにセフを狙っている。言葉にならない叫びが、セフの喉から響き渡った。エバの下を飛び出すと、セフはイヲめがけて踏み込み、吹毛刀を振り下ろした。

 右肩から左の腰骨にかけて、セフの吹毛刀が一閃を浴びせる。それ自体が光源であるかのように、吹毛刀が二人の眼前で光る。

 血が吹き上がり、辺りを覆う霧をぬらす。

「あっ?!」

 エバの唇から、今度こそ言葉が漏れた。セフに切り裂かれ、今まさに崩れ落ちようとしている肉体――。

 それがいつの間にか、リリスに変わっていた。

「姉さん!」

 叫び声が山中に響くのと、リリスの肢体が土に叩きつけられるのと、どっちが早かっただろう。リリス“だった”死体は血しぶきにまみれ、ぐちゃぐちゃになる。

 ウソだ。

 姉さんが……死んだ?

 目の前に起きている現実は、確かにそうだった。エバの慣れ親しんだ姉、そしてエバを裏切った姉が、いま霧深い山中でしかばねとなって転がっている。目で見える事実はそう語っていた。

 だが、何かがおかしい。

 少なくともエバの直感は、目の前の光景を否定していた。おかしい――何が? ――なぜリリスは、イヲに変身していたのだろう? ――魔法が使えるはずなら、二人に接近する必要などないはずだ。――遠巻きに二人を眺めつつ、ただ魔法を放って業火に巻き込めば良いだけ。――魔法が使えないのなら、――今死んだのはイヲの方か? ――いや、ならばどうして、死ぬ間際になってリリスの姿になったのか?

 事態を飲み込めずにいるエバの耳に、澄んだ金属音が響いた。

「あ……ぁ」

 見れば、吹毛刀を取り落としてひざまずく、セフの姿があった。


 一瞬の出来事だった。

 イヲの右肩に、振り下ろした吹毛刀が食い込む。その最中、イヲの姿が揺らぎ、リリスに姿を変じた。

 心臓が噴火してしまうかのような、強烈な罪悪感が一気にセフを襲った。だが太刀はもう、セフの力量を離れた凶器と化していた。吹毛刀は肉を食い破り、リリスの姉をただの死体へと裁断する。見開かれたセフの目に、崩れ落ちるリリスの肢体が映った。だがもう、セフの意識は消し飛んでいた。

 セフの全身全霊が、すべての罪を了解した。

 セフの親しんでいたヒスイを、エバは間接的に奪った。

 今、エバの親しんでいたリリスを、セフは直接的に奪っている。

 一時はエバの所業を憎みさえした。だが今の自分はどうか? エバよりも卑劣なことを、取り返しのつかないことをしてしまったのである。――しかも、当人の目の前で!

「あ……ぁ」

 全身が痺れたようになり、セフは太刀を取り落とす。逃げ出したいのに、膝はいつの間にか地面についていた。全身を切り刻みたい衝動にセフは駆られる。だが、今のセフにはもう、取り落とした太刀を握る力さえ残っていなかった。

 生臭い血の匂いが、セフの鼻をつく。

 セフの目から、涙がこぼれた。

「――セフ!」

 声とともに、エバがセフの身体を揺さぶった。

「エバ……エバ……わたし……」

 それ以上、セフは言葉を紡げない。目から溢れる涙が、しきりに頬をつたい、地面に落ちる。

「大丈夫よ、セフ……。ほら、よく見て!」

 セフを励ましつつ、エバ自身もリリスの亡骸を注視した。

 何かがおかしい――そんなエバの直観は、当たった。

 斜に切り裂かれ、生気を失ったリリスの亡骸。その亡骸が突然、青白い炎を噴いて燃え始める。すすり泣いていたセフも、この異常現象に目を丸くした。

 炎は電気を放ちながら発散される。やがてリリスの亡骸そのものが、溶けて無くなってしまった。

「どうして……?」

 泣くことも忘れて、セフが問いただす。

 エバは黙ったまま、今度は霧の向こう側をにらんでいた。

「幻覚よ」

「幻覚? って――」

 エバの言葉を、セフは繰り返す。

「何で? どうして?」

「シッ! ――」

 セフの口を閉じさせ、なおもエバは前方を睨み付けていた。深い霧は空間を塗りつぶすかのように垂れ込めている。その向こう側――、

 そこには、タミンが立っている。

「タミン!」

 思わずセフは叫ぶ。

「ダメ、ダメッ――!」

 とっさに、エバはセフの口を塞いだ。

「ダメ――」

 それ以上の言葉は、エバの口から出ない。どうして「ダメ」なのか、エバは直観的に分かっていた。

 どう言えばセフに伝わる?

 このことを、どう表現すれば……。

 そうだ。

 セフの耳元で、エバは囁いた。

「タミンに喰われる」

 目玉だけを動かして、セフがエバを見つめた。驚愕の念が、セフの黒い瞳から伝わってくる。

 しかしエバは真剣だった。下手に逃げるような行動を取れば、きっとタミンは二人を“喰う”だろう。

 どうしてか? ――その理由は分からない。それでも、エバは動かしがたい確信を抱いていた。

――タミンに喰われるな。

 イェンの言葉は、まさしく真実なのだ。

 霧の中、タミンは真っ直ぐ二人を見つめている。タミンの持つ水色の瞳は、静けさを湛えている。ただしそれは、本来人間が持つべきではない静けさ、すなわち死の静寂だった。

 エバとセフを見つめるタミンも、タミンに見つめられるエバとセフも、お互い墓石のごとく沈黙したままだった。

――ドスッ、ドスッ。

 二人の背後から、突如として地響きが沸き起こった。何事か分からず、セフはただただ身を強ばらせている。

 セフの体に手を回したまま、エバも身じろぎをしない。セフの精神が混沌の極みに達している一方で、エバは冷静だった。

――ドスッ、ドスッ。

 規則的な地響きが、二人へと近づいてくる。巨大な生物の足音であることは明らかだった。セフが脚を動かし、何とか立ち上がろうとする。だがエバは、それも許さなかった。

――ドスッ、ドスッ。

 規則的な足音とともに、腐敗臭と、ぞっとするほどの冷気が立ち込めてくる。

 しかしエバには分かっていた。たとえ背後に何が迫っていようとも、今はタミンから目を離してはいけない。

 タミンの思うつぼだからだ。

 うずくまる二人のすぐ耳元で、足音の主が喉を鳴らす。唾がこちらまで飛んできそうな、大きな音だった。それはいつぞやの転日宮で聞いた、竜の唸り声にも似ていた。手を伸ばせば届くほどの近さに、足音の主は迫っている。冷気はますます強くなり、もはや腐敗臭すら気にならなくなっていた。

 タミンはずっと、こちらを見ている。

 エバもずっと、タミンと視線を合わせつづける。

――ドスッ、ドスッ。

 どれほど互いに睨みあったことだろう。やがて足音の主が再び歩み始めた。規則的な闊歩とともに、次第に二人から離れてゆく。冷気がおさまり、臭いもしなくなった。

 それと同時に、タミンの姿も消えてしまう。

 足音は遠ざかり、ついには二人の耳にも聞こえなくなった。嵐の後のように不気味な沈黙のなかに、エバとセフだけが取り残されていた。

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