あのあと、どうやって寺院にまで戻ったのかを、セフはよく覚えていない。
それでも、あのときの物悲しい、突き放されたような絶望感を、セフは今だって思い出せる。偶然にしては、あまりにも良く出来すぎていた。ヒスイもエバも、まさか自分があそこにいたとはつゆとも知らないことだろう。
だが、二人が知っていたとしても、何かが変わったとでもいうのだろうか? こんなにも苦しい思いをするくらいなら、自分はやはりあの二人と関わらなければよかったのだ。自分とは異なる性質の二人を招きいれ、仲がよい“つもり”になっていただけ。
それで実際はどうだったか? ――結局ヒスイとエバは知らず知らずして共犯となり、知らず知らずしてセフを苦しめている。
なんだ、
なんだよ、それ、
みじめじゃないか。
先の見えない霧の中、どうしても思考だけが冴えわたっていく。言葉にならない叫びが、セフの口をついて迸る。
こんなことをしたって、何の得にもならない。みじめな気持ちがいっそう募るばかりか、自らの修練を否定する行為でもあった。
それでもなお、セフは声を上げずにはいられない。自らの野性を、悟性が止められなかった。
旅の間中、セフはずっと我慢していた。それは他ならぬヒスイが記憶を失っていたから。ヒスイに罪はない。――それだけはセフも確信できていた。あのときの口付けだって、泣いているエバを宥める目的だったはずなのだ。
そうであるならば、やはり原因はエバである。
セフはエバをのろった。セフの持たぬものを、エバは何でも持っている。それで、その上でなおヒスイまで奪おうとするのか? そして、もし奪うことに完全に成功したなら、エバは自分にどんな態度をとるのか?
まるで、それがさも当然であるかのようにエバは振る舞うのだろう。自分が心に負った傷など、何一つ理解しようとしないままに!
赦せない。そんなことは赦せなかった。ヒスイを手に入れるため、エバはセフのことを踏み台にしていたのか、噛ませ犬にしていたのか? エバに下心がないにせよ、結果的にやっていることは同じだった。そんなこと、セフの尊厳が赦せるはずがなかった。
自分が一段ずつ積み上げて十にするものを、エバは颯爽と飛び立って十にしてしまう。セフはエバが妬ましかった。そしてエバを妬ましいと思う、自分の存在すら赦せなかった。
霧深く、険しい道のりにもかかわらず、セフは速度を緩めなかった。そのせいでくたびれるのも早く、いつしかセフは膝に手を当てて立ちすくんでいた。前に屈み、荒く息をする。目にたまった涙が、そのまま土くれに吸い込まれていった。
そのままの姿勢で、セフはしばらく息をついていた。心に渦巻くわだかまりを解くのに、セフは必死だった。
――ザッ、ザッ。
その最中、セフの耳に異質な音が届いてきた。規則正しく、土を踏みしめる音である。エバか? それともタミン? ――いや、そのどちらでもないようだった。
背嚢ランドセルを地面に置くと、すぐさまセフは吹毛刀を構える。はっきりしない視界の中で、吹毛刀の刀身は澄み渡った光を投げかけていた。
足音はどことなく悠長に聞こえる。敵意は感じられないが、こんな山奥で人に出くわすのはおかしなことである。油断は出来なかった。
――ザッ、ザッ……。
不意に、足音が止まった。と同時に、視線が自分に向けられていることにセフは気づいた。どうやら向こう側の人間も、セフの存在に気づいているらしい。
セフは吹毛刀を強く握ると、霧の中でますます目を凝らした。
そよ風に流され、分厚い霧が少しだけ剥がれる。霧間からのぞく、人影の正体。
「師範……?!」
セフは目をみはった。黄土色の衣に、緑色の帯。白い肌に、鮮やかな緑色の髪――、
セフの師範にして国従である、金瓶梅魚の姿がそこにあった。
緑の瞳で、イヲはじっとセフに眼差しを注いでいる。赤い唇は固く引き結んであったが、心なしか愉快そうな様子だった。
張り詰めていた緊張の糸が、瞬時にしてほどける。セフの胸中は懐かしさでいっぱいになり、目頭が再度熱くなった。思ってもみなかった再会だった。てっきり死んだものと思い込んでいたのに、いまやこうしてはっきりと、イヲがそこにいるのだ。
「師範――」
セフはもう一度呟いて、吹毛刀の切っ先を下ろした。イヲも明らかにセフの存在を認めているようだったが、反応はなかった。自らに圧し掛かっていた疲労の波が、一気に引き寄せて行くのをセフは感じた。
セフは吹毛刀を鞘に収めると、堪らずイヲの元まで駆け出す。老師を失い、故郷の町・泰日楼を失い、しかしそれでもなお、師範だけはそこにいる――。
イヲの下まであと一歩。セフがそこまで踏み込んだ矢先、セフに向かってイヲが何かを突き出した。
(あっ――!)
突き出されたものを確認して、セフはその場に凍りつく。セフの喉元に、突き出されていたのは、ぎらついたイヲの太刀だった。少しでも身じろぎしたなら、セフの喉は確実に切り取られていたことだろう。
「師範――?」
思いがけないイヲの行動に、セフは唾を呑んだ。イヲの行動は、イヲが幻影ではないことをまぎれもなく証明している。にもかかわらず、イヲの行動は幻影的な何かだった。
何の予備動作を経ることもなく、イヲは抜刀している。その身のこなしの早さ、隙の無さこそ、イヲが国従になれたことのゆえんでもあった。
ただその矛先が、弟子のセフに向けられているだけ。
「よしてください、師範……?」
セフは一歩下がった。それに従い、イヲも一歩前に出る。切っ先は相変わらず、セフの喉元に向けられたままだ。
この期におよび、真っ当な恐怖心がはじめてセフに襲い掛かった。イヲは決して、冗談で剣術を弄する人物ではない。
「師範……何を……何をお考えですかっ?!」
最後のセフの言葉は、半ば悲鳴に近かった。どれだけセフが後ずさっても、イヲはその都度前へ出てくる。いつの間にか、イヲの表情は変わっていた。唇の端をゆがめるようにして、イヲは憫笑していた。
「――憐れな奴」
イヲが口を開いた。
「憐れな奴――憐れな奴――、アハハ! 憐れな奴!」
地獄の底から沸きあがってくるような、怖ろしい響きを孕んでいる声だった。その声に脅されるようにして、セフは更に半歩下がろうとする。
だが、それは出来なかった。セフの背中に固いものが当たる。イヲに気を取られている合間に、いつしかセフは木の側まで追い立てられていたのだ。
絶望と恐怖でしゃがみ込みそうになるセフの額に、イヲの握る太刀が突きつけられる。少しでもイヲが左手で押しやれば、たちまちにしてセフの額など割けてしまうだろう。
――国従を、……国従を探すのだ!
老師は――僧正は、死ぬ前にこう言い放った。
これがその理由。言葉の真相。
「嫌だ……」
喉から出るか細い声。
「嘘だ」
とは言えなかった。太刀の放つ冷気と、イヲから漲る殺気とが、セフに「嘘だ」と言わせなかったのだ。セフの心は、もはや挫けていた。
イヲがかかとを突き出し、セフの右足を踏みにじる。セフの嗚咽が、痛みで一瞬だけ止まる。セフの間際まで顔を寄せると、イヲは目をむいてセフを覗き込んだ。口を開き、長い舌を蛇のようにはみ出させる。
「昔のお前は……斬るに値しなかった……!」
頬をつたうセフの涙を、イヲは器用に舐め取る。頬に当たるイヲの舌先は、驚くほど冷たかった。
「美しくなった……! いままでになく、美しくなった……! ……お前の、お前の柔らかい背中を……私に斬らせるのだ……私に……斬らせろ!」
その言葉がキッカケだった。弾かれたようにして、セフはイヲに掴みかかる。イヲがよろめいたわずかの隙を突いて、セフは一目散に駆け出した。
「あァ、逃げろ! 逃げるがいい! ワァ、ハ、ハ、ハ、ハ、ハ――!」
草木を震え上がらせるような、猟奇心を湛えた笑い声だった。イヲの哄笑は深い霧をつんざき、なお一層セフに早く逃げるよう求めた。
セフは泣きじゃくりながら、わめき声を上げながら、どこでもない山の奥、道なき道の向こうへと駆けていた。
セフには分かっている。イヲは必ず、自分に追いつくだろう。「どうする?」と「どうして?」という二つの問いが、セフの神経と思考をまったく両極端なほうへ引っ張ってゆこうとしていた。そのたびにセフは翻弄され、蹂躙され、先の見えない混沌と狂奔の最中で、霧を握り締め、逃げていた。
セフの右足が、霧の中に埋まる。脚を踏み外したと気づいたときには、セフはもう中空に投げ出され、背中から段差の下に叩きつけられていた。
背中全体が張り詰めたように痛み、骨の軋む音が聞こえてくるような錯覚に囚われる。
歯を食いしばり、細い息を吐きながら、それでもセフは這って逃げようとする。
「どうした――セフ――深い霧が――怖いか?!」
だがそれを、イヲが許さなかった。いつの間に迫ったというのだろう。イヲがもうそこに立っていた。
セフの喉を、イヲは鷲掴みにする。女とは思えないほどの怪力に、セフは咳き込む。セフの首に、イヲの長い爪が食い込む。
片手だけでセフを立ち上がらせると、不意にイヲは手を離した。立つに立てずたたらを踏み、セフは両手を開く。
それを見逃さない、イヲの鋭い一閃。
セフの右腕は肩から消し飛び、霧の向こうへと消えていった。
「うわぁ?! ――あ、あ、あ、あ、あ、あ、っ?!」
間抜けなほどの叫び声が、セフの喉から迸る。慌てて振ろうとする腕が、既に一本存在しない。ふたたび地面に転がる。また首をつかまれる。立たされる、と同時に、イヲの一閃がほのめく。次に弾け飛んだのは、セフの左腕だった。イヲの剣戟は、不思議なほど痛くなかった。体がまったく痛みを認識しない。あまりに鮮やかな太刀筋に、痛覚が振り切れているのかもしれない。
セフにはもう振る腕がない。体の一部を喪失し、にもかかわらず痛みがない――ますますセフの恐怖心がつのる。
イヲはセフの脚を持ち上げ、ふたたび切り裂いた。もはや戦闘とは呼べない。一方的な屠殺だった。右脚が弾け、左脚が千切れる。四肢を喪ったセフは、それでもなお泣いていた。
千切れた左脚を放り投げると、イヲがふたたびセフに顔を近づける。セフはもう何も出来ない。ただ涙を流すばかりだった。
イヲはふたたび舌を出すと、セフの眼球を舐めた。猛烈な痛みに、セフの叫び声はますます激しくなる。それでもイヲはやめようとしない。右の眼球を舐めおえると、まぶたをつまみ上げ、こんどは左の眼球を舐める。しゃぶるように舐めた後、イヲは恍惚とした笑みを浮かべ、セフの前で太刀を薙いだ。目元に衝撃がはしり、視界が真っ暗になる。イヲの太刀は、セフの目を裂いたらしい。
「嫌だ――いや――」
セフはもう、それだけしか言えなくなっていた。うわごとのように呟き、身体をよじって芋虫のように這おうとする。イヲはそんなセフの腹を踏みしめ、問うた。
「聞こえるな――セフ――聞こえるな――?!」
「いやだ……いやだ……」
「お前の――お前の心を奪ってやるぞ――それでも――それでもよいか?!」
イヲの鋭い言葉に、セフが答える術は無かった。いやだいやだと口では言っている。だがセフはもう、肯定も否定も出来なかった。
心を奪ってらって構わない。もう何も、セフは考えたいと思わなかった。
太刀が振りかざされる気配がする。
次の瞬間、セフは意識を失った。